錦織圭という奇跡【第14回】
石光孝次の視点(2)

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「僕のテニス指導のイメージは、陶芸でいうところの『ろくろを回す』感じなんです」

 少年時代の錦織圭を折に触れて指導した石光孝次コーチは、自身の「指導理念」をユニークな喩えで言い表わした。

「ろくろで器を作るとき、粘土に手を当てて、形を整えていきますよね。

その時に指に力を入れすぎたり、無理やり形を作ろうとすると、むしろ崩れてしまう。粘土の特性もあるので、自然と向かっていく形になるように、整えていくだけでいいんです。

 テニスの指導もそれと同じで、子どもたちのやりたいことを邪魔してはいけない。ろくろを回すのは僕ではなくて、あくまで子どもたち自身です。

 だから僕は、子どもたちのろくろが回り始めるのを、まずは待つ。動き出したらそれを見ながら、ちょっとずつ形を整えていくようなイメージです。やりすぎず、やらなさすぎず。それがまあ、僕の指導理念と言えば、理念ですね」

 こんな言い方で伝わりますかね......と、コーチは目尻に優しいシワを刻んだ。

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少年時代の錦織圭への球出し練習で地元コーチは「なるほど」と感...の画像はこちら >>
 石光コーチが当時から今も変わらず拠点とするのは、鳥取県鳥取市。錦織は5歳から島根県松江市の『グリーンテニススクール』に通ったが、遠征等には石光氏が同行することが多かった。

 グリーンテニススクールの柏木正樹氏や細木秀樹氏ら、錦織のキャリアの初期に携わった指導者たちには、ある共通項がある。それは、硬式テニスを始めたのが比較的遅いこと。

同世代のエリート選手たちに比べれば、出遅れた感は否めない。だからこそ自分のテニスを客観視し、独自の手法や創意工夫で上達法を模索してきた個性派ぞろいだ。

 石光氏も、そのようなひとりである。

「僕は兵庫県出身。中学までは軟式テニスをしてたんです。硬式を始めたのは高校から。兵庫県は広くて選手が多いぶん、レベルの幅も広いので、県予選の序盤は意外に勝てるんですよ。でも、予選決勝や本戦に上がるとめちゃくちゃ強い選手と当たるので、1ゲームも取れずに負けたりする。だから高校の時は、あまり試合経験が積めなかったんです。

 そんな僕も大学進学のために鳥取に来たら、試合がたくさんできるようになったんですよ。実戦経験を多く積むなかで、県内や中国地方で徐々に勝てるようになってきた。でも選手としては、そこくらいが限界でもありました」

【あまり教えることがなかった】

 石光氏の話は続く。

「コーチみたいなことを始めたのは、大学4年生の頃です。

高校の時から自分なりに考えて上達してきたので、得てきた知識や知恵を知り合いのコーチに伝えていったら、その教え子たちがどんどん強くなった。そんな成功体験もあったので、大学を卒業したらコーチになろうと決めていました」

 日本で最も人口の少ない県の子が大都市のエリートにひと泡吹かせたら痛快じゃないか、というユーモアや反骨精神も、石光氏が鳥取を拠点に定めた理由だという。子どもたちとテニスを介して向き合ううえで、何より重んじたのは遊び心。だからこそ自分が立ち上げたテニスクラブも、『遊ポート』と名づけた。

 石光コーチが、のちの世界4位を初めて見たのは、錦織が小学2年生の時。技術の高さは、当時から光っていた。ただ、それ以上に目を引いたのは、ボールと戯れるような「見ていて楽しいテニス」。

 その後、錦織と過ごす時間の増えた石光氏は、戦略や考え方について話すことが多かった。技術面にあまり手を入れなかったのは、メインコーチへの遠慮や配慮もあっただろう。ただ一番の理由は、「あまり教えることがなかった」からかもしれない。

「圭からは、むしろ僕が教わることも多かったんですよ」

 かつて圭少年も駆けたテニスコートを見やりながら、石光氏が過去に思いを馳せる。

「たとえば、子どもたちに球出しをする時には、こちらも『こういうふうにボールに入ってきて、ここで打ってほしい』というような理想の場所があるわけですよ。

その正解をイメージしながら、いろんな場所にボールを送るんです。

 僕のイメージと重なる動きをする子もいれば、ズレる子もいる。ただ圭は、『あっ、そういうふうなボールへの入り方するのね』という感じで、意外な動きをするんです。

 しかもそれが、『なるほど、そうやったら振り遅れないよね』『たしかにそういうふうにラケットを振ったら、ボールがこう曲がるから、相手は嫌だよね』となる。だから、僕が教えるというよりも、圭から学んだ技術もあると思いますね」

 こちらの想定外の動きをし、新たな気づきを与えてくれる。球出しという基本的な練習ひとつ取っても、錦織は意外性や独創性を発揮していた。

【魅力が薄れてしまっていると感じたことが一度だけあった】

 緊張やプレッシャーをうまく"いなす"手法も、意識的か無意識か、錦織は味得していたところがあったという。じゃんけんやボールの的当てなどでも、錦織は究極の負けず嫌いを示した。

 同時にどこかで、失敗した時の逃げ道や「あそび」も残しておく。たとえば的当てにしても、あえて難しい打ち方やライン取りで狙ってみる。「それで失敗しても仕方ないし、成功したら、かっこいい。リラックスできる状況を、自分で作っていたのでは」というのが、石光氏の見立てだ。

 そんな錦織の魅力が薄れてしまっていると感じたことが一度だけあったと、石光氏は回想する。

「あれは、圭が『修造チャレンジ』の合宿に呼ばれはじめた時だったと思います。夏から秋にかけて、国内の大きなジュニア大会が立て続けに開催される時期がありますよね。その全国につながる中国地方大会で、圭がベスト8くらいで負けた時があったんです。

 相手は年上で、体格差もありましたが、互角に渡り合えるかなと思って見ていました。でも、その試合での圭は、負けるべくして負けたなっていう戦い方をしていた。それは何かというと、すべてのショットで100パーセントの自分を出そうとしていたんです。

 それは、圭のテニスではないんですね。あいつのいいところは、相手が30だったら31の力を出すし、80だったら81を出す。相手が120だったら、100を超えて時々121が出せるのが圭の凄味だし、だからこそ相手は困るんです。

 なのに、あの時の圭は、100を常に出そうとしていた。『これはまずいな』と思ったので、その時は圭としっかり話したのを覚えています。

『お前のいいところは、そこじゃない。常に100パーセントの力で戦ったら、相手はお前の底が見えるから、怖くなくなる。手札を全部相手に見せちゃうのは、違うだろ』って。まあそれを、もう少し子どもでもわかりやすい表現で言いましたが。

 あの頃の圭は『修造チャレンジ(※)』などに行って、おそらく多くの人たちからいろんなことを言われたと思うんです。でも僕は圭に、『修造さんら多くの人が、錦織圭はこういう選手だ、こうしていくべきだと言うだろう。100人いたら100通りの錦織圭がいる。でも、実際の錦織圭は世界であなたひとりなんだから』と言いました。あなたの考えるとおりにやりなさい......と、そんなことを伝えたと思います」

※修造チャレンジ=松岡修造氏が1998年に設立した「世界で活躍できる日本人男子テニス選手」を育成するプロジェクト。

 石光氏の言葉に耳を傾ける錦織は、快活な返事などをするわけではない。ただ、その後のコート上での姿を見れば、思いが伝わったことは明らかだった。

 そのような会話から1年ほど経った2003年の夏。

錦織圭は、自分らしさを貫くことが何より重要な地──アメリカへと巣立っていった。

(つづく)

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