連載第88回
サッカー観戦7700試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」
現場観戦7700試合を達成したベテランサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。
Jリーグ百年構想リーグで、J1昇格組のV・ファーレン長崎を率いる高木琢也監督。
【J1昇格組のV・ファーレン長崎を率いる】
「J1百年構想リーグ」が開幕したが、第2節終了の段階で早くも全勝はEASTの東京ヴェルディだけという混戦ぶり。FC東京は0勝2引き分けながら、PK戦が導入された結果、どちらも勝利し勝点4を稼いでいる。
そんななかで昇格組はEASTの水戸ホーリーホックとジェフユナイテッド千葉が勝点1のみ。WESTのV・ファーレン長崎が2連敗と苦戦を強いられている。
いつのシーズンでも同じだが、昇格当初はJ1リーグのインテンシティやプレースピードについていくのはなかなか難しい。
ただ、幸いにも「百年構想リーグ」には降格がない。通常のリーグ戦だったらスタートでつまずくと「降格」の2文字が頭の中にちらついて落ち着いて試合ができず、そのままずるずると低迷してしまうこともある。
だが、降格がないのだから、ある程度割りきって8月開幕の2026-27シーズンに照準を合わせて準備をすることもできる。その間にJ1のサッカーに慣れればいいのだ。特別シーズンがあったのは、今季の昇格組にとって幸運だった。
WESTの昇格組、長崎にとって不運だったのは開幕節からサンフレッチェ広島、ヴィッセル神戸という、ACLE(AFCチャンピオンズリーグエリート)でも決勝トーナメント進出を決めている、Jリーグを代表する強豪との連戦だったことだ。
第2節の神戸戦では立ち上がりこそ互角に渡り合ったものの、前半途中から実力差を見せつけられたが、この2試合の経験を将来に生かしていけばいいのである。
長崎を率いるのは高木琢也監督。2006年に横浜FC監督に就任して以来、多くのチームで経験を積み重ねてきたベテラン監督である。相手を分析して、ゲーム戦術を駆使して守備の安定をもたらす、堅実な指揮官だ。昨季も長崎は6月に高木監督が就任してから15戦負けなしなども含めて着実に順位を上げた。
【1992年のアジアカップで決勝ゴール】
さて、現役時代の高木は日本代表にも選出されたCFで、1992年のアジアカップ広島大会決勝のサウジアラビア戦で決勝ゴールを決めて、日本の初優勝に貢献した。この大会で代表がアジアの頂点に立ったことによってサッカーへの注目度も上がり、翌年開幕したJリーグの成功にもつながった。この時のアジアカップ優勝は、その後の日本サッカーの発展につながる重要な一歩だった。
しかし、高木の代表入りは初めから大歓迎を受けたわけではなかった。
高木を代表に招集したのは、日本代表史上初の外国人監督となったハンス・オフトだった。
オフトは1984年にマツダ(現、広島)のコーチとなり、87年から88年にかけて監督を務めていた。
高木がマツダに入団したのは1991年のことだから、直接オフトの下でプレーしたわけではなかったが、オフトが高木を抜擢したのはマツダとのつながりがあったからだろうと、当時、誰もが思っていた。
ちなみに、オフトが中盤のバランサーとして招集したMFが現日本代表監督の森保一だった。
高木が1967年、森保が1968年生まれのほぼ同世代。ともに長崎県育ちで(森保の生まれは静岡県)、広島で活躍した。
だが、彼らが代表入りした当時、ふたりとも長崎や広島以外では知名度は高くなかった。
森保の愛称が「ポイチ」なのはご存じだろう。「森保一」という名前が知られておらず、「森」が名字で「保一」が名前と勘違いされたのが由来である。
Jリーグ発足前の日本サッカーリーグ(JSL)は試合数も少なく、報道も少なかったから、広島以外のファンがマツダの試合を見る機会は限られていた。
だから、彼らが代表に選ばれた時の反応は「どうせマツダつながりの選出なんだろう」というものだった。
それは、たぶん真相に近いはずだ。オフト監督は1992年春に就任したが、就任から1年足らずでアメリカW杯アジア予選が始まることになっていた。じっくりチーム作りをしている時間はなかった。だから、自分が知っている選手を中心にメンバーを固定して戦うのは理にかなったことだった。
【日本で最初のターゲットマン】
こうして、高木は代表のCFとなり、アジアカップの前哨戦となる8月のダイナスティカップ(東アジア4カ国の大会)では4試合で4得点と活躍したが、それほど高く評価されたわけではなかった(そもそも、ダイナスティカップはテレビ中継もなく、注目度も高くなかった)。
高木の評価が高くなかった原因のひとつは、日本のファンが求める"CF像"とのズレもあった。
1960年代から70年代にかけて日本には釜本邦茂というCFがいた。JSLでは251試合で202得点。日本代表ではAマッチだけで76試合75得点という他の追随を許さない数字を残したワールドクラスのストライカーだった。
その釜本が引退して以来、日本の関係者やファンはずっと「第二の釜本」を求め続けていた。左右両足と頭で点が取れ、自らドリブルで持ち込んで強烈なシュートを炸裂させるFWを......。
だが、そんな選手が簡単に見つかるわけはなかった。「釜本二世候補」は何人もいたが、誰もファンを満足させることはできなかった。
オフト監督が高木に求めていたのはポストプレーだった。
前線に長身のFWを置いてロングボールを集め、そこから展開する。ボールを受けてから自らターンして持ち込んで自分で決めきれればすばらしいことだが、それができなくてもロングボールを受けて味方が攻め上がる時間を作ったり、ボールを落としてパスを展開できればそれでいいのだ。
だが、Jリーグ開幕前の1990年代はじめ頃、日本には「ポストプレー」とか「ターゲット」といった概念を知る人は少なかった。
オフトがやって来る前の日本のサッカー界は、テクニックのある選手は育ち始めていたものの、戦術面ではまだまだ未熟な段階にあった。だからこそ、オフトが「スリーライン」とか「アイコンタクト」といった初歩クラスの戦術を持ち込んだだけで、日本代表の戦力が一気に上がって、それまで無縁だったアジアのタイトルを獲得できたのだ。
その後、Jリーグが開幕し、何人もの外国人監督がやって来た。そして、多くの外国人監督がそれぞれのチームでターゲットマンを起用したことで、ポストプレーの重要性は日本中に知られるようになった。
そこで初めて、人々は「オフト監督が高木に何を求めていたのか」を理解したというわけである。つまり、高木は「日本で最初のターゲットマン」と言ってもいいのかもしれない。
【前線でボールを収めてポストプレー】
横浜FCでなかなか結果が出ないで困っていた頃、高木監督と立ち話をしたことがある。「不器用でいいから、しっかりしたCFがいてくれると攻撃を組み立てられるんだけどなぁ」と高木監督が言うので、「昔の高木琢也みたいな感じ?」と訊いたら、高木は「そうそう」とうなずいていた。
ちなみに、森保は頭脳的なMFだったから、現役時代から将来優秀な監督になりそうな気がしていたが、前線でポストプレーをしている大型FWの高木にはそんなイメージはなかった。
失礼な言い方のようだが、これは僕だけの意見ではない。
昔、森保監督と雑談をしていた時、高木監督の話題になったら、彼もこう評していた。
「高木監督があんなに細かいとは現役時代には思ってもいなかった」
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