木村和司伝説~プロ第1号の本性
連載◆第1回:金田喜稔評(1)

日本サッカー界において、プロサッカー選手登録制度の第1号となった木村和司氏。JSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車、Jリーグ発足後の横浜マリノス(現横浜F・マリノス)で活躍し、日本代表の攻撃の柱としても輝かしい実績を残してきた稀代のプレーヤーだ。

そんな木村氏にスポットを当てた連載がスタート。日本サッカーの黎明期に躍動した司令塔の秀逸さ、知られざる素顔を、同じ時代に切磋琢磨してきたタレントたちが語り尽くす――。

「ようコイツ、こんなキックできるな」 盟友・金田喜稔に強烈な...の画像はこちら >>
 金田喜稔にとって、木村和司は日産自動車サッカー部時代の1年後輩にあたる。

 1979年の日本サッカーリーグ(JSL)1部初昇格以降、日産が黄金期を築いていく過程において、ふたりは抜群のコンビネーションでJSL屈指の攻撃力を支え続けた。

 とはいえ、金田と木村の関係は、社会人時代に始まったものではない。

 広島県安芸郡府中町出身の金田と、広島市出身の木村は同郷の先輩後輩。金田曰く、「アイツはいつも、『あんたは郡部の人間じゃ』ってバカにしよる。ホンマ腹立つよ(笑)」というふたりは、県立広島工業高校、通称"県工"時代もまた、1学年違いのチームメイトだった。

「和司は、大河小学校っていう(広島)市内のサッカー少年団でやってて、中学は翠町中か。高校に入る時は、『木村和司っていうのが入ってくる』っていうことで、結構騒がれてた。それぐらい、やっぱり県内ではみんながバリバリ注目するような選手やったの。ワシは郡部の人間やから、あんまり知らんかっただけで(苦笑)」

 木村が高校入学直前の春休み、県工サッカー部の練習見学に来ていた時のことだ。

"大物新人"の存在を知らなかった金田も、「みんなが『あれ、木村和司やで』みたいな話をしとった」ことを覚えている。「あの子がそうなんや」。金田の記憶によれば、それが、木村との初遭遇である。

 ただし、木村の記憶は、金田のそれとは違っていた。

「和司に言わすとね......」

 そう切り出し、金田が続ける。

「小学生の時にソフトボールの大会で、『絶対、ワシ(木村)はキン坊(金田)と一緒にやってる』っていう話をするわけよ。ワシは全然記憶にないけれど。アイツは市内のソフトボールチームのエースで、『そのときに(金田の地元へ)試合に行ったで』と。ワシは記憶ないし、『ああ、そうなんや』って聞いとったんだけど、アイツ曰く、小学校の時に会ってるらしいんですよ」

 金田は小学生の時、確かにソフトボールをやっていた。「うまかったに決まっとるやん、運動神経いいから」とは本人の弁だ。

「そこで(金田が)目立ってたんだろうな。だから、和司はそういう記憶があるらしく、それは何回か言ってたな。

誰か別の人間と間違えてるんやと思うけど......」

 残念ながら、真偽のほどは定かでない。だが、木村にしてみれば、県工入学時に金田を見て、「あのソフトボールの時の!」と記憶がよみがえったのかもしれない。

 そうだとすれば、因縁めいていて、なかなか興味深いエピソードである。

「ようコイツ、こんなキックできるな」 盟友・金田喜稔に強烈なインパクトを与えた木村和司のプレーとは
高校時代の木村和司氏について語る金田喜稔氏 photo by Miki Sano
 話を木村の県工入学時に戻そう。

 当時の県工と言えば、「基本、広島市内の選抜(に選ばれる選手)が全部県工に来るわけですよ」というほどの強豪校。金田たちの学年も、「市内で名前の売れたヤツらばっかり来ていた」が、それでも金田は、1年生にしてレギュラーの座をつかんでいた。

「だからって自慢するわけじゃないけど、『県工で1年からレギュラーになれとるんや』っていう自負みたいなのは、もちろんあった」

 ところが、そんな金田から見ても、「めっちゃうまかったと思うよ」。それが新入生の木村だった。

「普通に頭でリフティングしながら寝転がって、そのまんま(ボールを)突いて起き上がって、みたいな。ワシらは『おまえ、オットセイか』って言ってたけど(笑)、あの時代にああいうことやるヤツ、静岡にもいなかったんじゃないかな」

 全国有数の強豪校にあってもなお、入学早々、特大のインパクトを与えた木村。なかでも金田が強く印象に残しているのは、木村が力強く放つ「センタリング」だった。

「基本的に何でもできるんだけど、えげつないのは、やっぱりセンタリング。

今はクロスって言うけど、アイツは右のウイングやっとって、クロスボールを上げるのに、普通の選手はだいたい(外へ)回って蹴るんですよ。だけど、アイツはそのまんま(タテに)行って、巻いて蹴れるから、(相手DFを)抜ききらなくても上げられる。そのキックとか、軸足の置き方を見て、『ようコイツ、こんなキックできるな』って思ったよ」

 通常、サイドからゴール前にクロスを上げる場合、ドリブルをしながら、ボールを蹴る直前にゴールから遠ざかる方向にやや膨らんで、回り込むようにして蹴ると、力も入りやすいし、方向も定めやすい。

 だがその場合、走るコースを膨らませる分だけクロスを上げるまでに時間がかかり、相手DFに詰められてしまう。だから、直線的に走っていき、そのまま横方向へ蹴れるならそれに越したことはない。

 木村のセンタリングは、ウイングの理想形を実現していた。

「今の子は普通にやるけれども、当時のワシらは回って(膨らんで)から、軸足をある程度中(ゴール方向)に向けて蹴るキックしか知らないわけですよ。だから、ワンステップ多いわけ。でも、和司の場合は、極端なことを言うと、軸足をゴールラインと垂直に置いたまま、カーブをかけて(ゴール前にクロスを)上げられる。あの当時、たぶん和司しか蹴れなかったと思うよ。日本リーグにもいなかったんじゃないかな、そんなの」

(文中敬称略/つづく)◆金田喜稔&木村和司がいた"県工"「ワシらは雑魚だった」>>

木村和司(きむら・かずし)
1958年7月19日生まれ。広島県出身。

広島工業高→明治大を経て、1981年にJSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車(横浜F・マリノスの前身)入り。チームの主軸として数々のタイトル獲得に貢献した。その間、日本代表でも「10番」を背負って活躍。1985年のメキシコW杯予選における韓国戦で決めたFKは今なお"伝説"として語り継がれている。横浜マリノスの一員としてJリーグでもプレー。1994年シーズンをもって現役を引退した。引退後は解説者、指導者として奔走。日本フットサル代表(2001年)、横浜F・マリノス(2010年~2011年)の指揮官も務めた。国際Aマッチ出場54試合26得点。

金田喜稔(かねだ・のぶとし)
1958年2月16日生まれ。広島県出身。広島工業高→中央大を経て、1980年にJSLの日産自動車入り。

同郷で1年後輩の木村和司らとともに一時代を築く。大学2年生の時に初選出された日本代表でも奮闘。変幻自在のドリブルと独特なフェイントで攻撃の主軸を務めた。19歳119日という日本代表最年少得点記録を保持する。1991年に現役引退。以降、解説者、指導者として奔走し続けている。国際Aマッチ出場58試合6得点。

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