木村和司伝説~プロ第1号の本性
連載◆第2回:金田喜稔評(2)

JSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車、Jリーグ発足後の横浜マリノス(現横浜F・マリノス)で活躍し、日本代表の攻撃の柱としても輝かしい実績を残してきた木村和司氏。ここでは、そんな稀代のプレーヤーにスポットを当て、その秀逸さ、知られざる素顔に迫っていく――。

金田喜稔&木村和司がいた"県工"だが、「スーパーだったのは楚...の画像はこちら >>

第1回◆盟友・金田喜稔に強烈なインパクトを与えた木村和司のプレーとは>>

 県立広島工業高校(以下、県工)サッカー部2年の金田喜稔と、同じく1年の木村和司。のちにJSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車や日本代表で活躍するふたりが、下級生として名を連ねていたことを思うと、当時の県工はさぞかし選手層が厚い強豪校だったのではないかと想像するが、金田曰く、「スーパーだったのは3年生の楚輪さんたちの代で、ワシらは雑魚でしたよ(苦笑)」。

 金田の言う「楚輪さん」とは、のちにヤンマーで活躍した楚輪博のこと。主将の楚輪が最上級生の時の県工は、夏の全国高校総体ではベスト16、冬の全国高校サッカー選手権大会ではベスト8と、いずれも頂点には届かなかったが、優勝候補の一角と目される実力を備えていた。

「インターハイでは児玉(埼玉県)にPKで負けたんだけど、その前に(同年度の選手権で優勝する)帝京(東京都)に3-0ぐらいで軽く勝ってたんですよ。だから、その年の選手権は『もう県工(の優勝)やね』って、実はみんなに言われてた。それぐらい、ワシらの一個上はスーパーだった」

 だが、それゆえの反動と言うべきか、楚輪の代が卒業し、金田らが3年生になった時、「いい選手がいっぱいいた上の先輩がごっそり抜けて、結局、(レギュラーで残ったのは)オレと小松(治生)と石﨑(信弘)だけ」という状態に陥った。

「(金田ら以外の)あとのレギュラーは2年生を使って、1年で入ってきた猿沢(茂)なんかも、すぐにレギュラーにして。だから、ワシらの代で明らかにトレーニング内容を変えられたもんね、松田(輝幸)監督に。たぶん『これは広島県を勝つのも大変やで』ってなった時、『コイツら、走らすしかないな』っていうことで、めっちゃ走るようになったから。それが嫌でしょうがなかった(苦笑)」

 結果的にこの方針転換が功を奏したのか、金田が最上級生になった年度の選手権では、県工は準決勝に進出し、3位となった。スーパーだった先輩たちを上回る好成績である。

 だが、「(自分たちは)優勝候補でも何でもなかった」と金田。「ワシらの下の(学年の)ヤツらが頑張ってくれたから、ベスト4まで行けたんだと思う」。

 金田が言う「頑張ってくれた下のヤツら」のひとりこそ、2年生の木村である。

「その時は、ワシは中盤やっとったんかな。で、和司は右ウイングをやってたような気がするね」

 互いのプレーの感覚は「合っていたと思う」と回想する金田は、「ワシは基本ドリブル(が得意)で、パサータイプじゃないんですよ。キックもそんなうまないし。だから、ポジションを変えて、和司が中に入って、ワシが外に開いて、そっから(ドリブルで)勝負するみたいなのが、もしかしたら多かったかもしれん」と、当時のふたりの関係を振り返る。

 とはいえ、金田にしてみれば、「下の代のことは、あんまり覚えてない」というのが、本当のところだ。

「ワシは、高校3年からユース(年代別日本代表)に入って、レギュラーになって、その2年後、すぐ代表(A代表)に選ばれて。だから、ほとんど下の世代を見てないんです。和司が(高校卒業後は)明治大学でやっとったっていうのも、もちろん知ってるけれども、こっちはもう日の丸つけてるわけだから。『ああ、コイツ、明大みたいな弱いとこでやっとんや』ぐらいなもんやった」

 金田は木村について、「とにかく何でもできる子やった」という印象こそあったが、正直なことを言えば、「だって、(体の)大きさはないし、抜群にスピードがあるかっていうと、ないとは言わないけど、そこまでではない。

ワシはもうスピードで生きてきてる側の人間やから、そういう(スピードに優れていない)選手はもう眼中にない、みたいな感じ」だったのである。

 高校時代から木村を知る金田も、後輩の本当の才能に気がつくのは、もう少しあとのことだ。

「周りがよく見えるとか、キックの精度が高くてタメて蹴れるとか、そこの能力ってこっちが気づいてなかっただけ。ワシは(中央)大学に行っても、日産(自動車)に行っても、全部自分が中心になって、自分勝手にやってたわけだから」

 そして、金田はこう続ける。

「気づいたら(木村が)バケモンみたいになってたって感じよ」

(文中敬称略/つづく)

木村和司(きむら・かずし)
1958年7月19日生まれ。広島県出身。広島工業高→明治大を経て、1981年にJSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車(横浜F・マリノスの前身)入り。チームの主軸として数々のタイトル獲得に貢献した。その間、日本代表でも「10番」を背負って活躍。1985年のメキシコW杯予選における韓国戦で決めたFKは今なお"伝説"として語り継がれている。横浜マリノスの一員としてJリーグでもプレー。1994年シーズンをもって現役を引退した。

引退後は解説者、指導者として奔走。日本フットサル代表(2001年)、横浜F・マリノス(2010年~2011年)の指揮官も務めた。国際Aマッチ出場54試合26得点。

金田喜稔(かねだ・のぶとし)
1958年2月16日生まれ。広島県出身。広島工業高→中央大を経て、1980年にJSLの日産自動車入り。同郷で1年後輩の木村和司らとともに一時代を築く。大学2年生の時に初選出された日本代表でも奮闘。変幻自在のドリブルと独特なフェイントで攻撃の主軸を務めた。19歳119日という日本代表最年少得点記録を保持する。1991年に現役引退。以降、解説者、指導者として奔走し続けている。

国際Aマッチ出場58試合6得点。

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