父が語る宮城大弥 前編

 オリックスの宮城大弥は連覇を目指すWBCの日本代表メンバーに選出され、本番に向けて調整を続けている。今では国を背負う左腕も、幼少期からプロ入りまでは野球用具をそろえるのも苦労するほどの生活を送っていたという。

当時の状況について、宮城の父・宮城亨(みやぎ・とおる)氏が振り返った。

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【スポーツマンだった亨氏が中学時代に負った大ケガ】

 2001年に沖縄県宜野湾市で生まれた宮城は、幼少期、エアコンがない6畳一間のアパートで、食生活もままならないほどの生活を送っていた。その一因に関して亨氏は、自らが抱える左手の障がいを挙げた。

 亨氏は学生時代、野球や陸上に取り組み、110mハードルの沖縄県記録(当時)を持つほどのスポーツマンだった。しかし、野球の実力が認められ、九州の高校への進学が決まった中学3年時に交通事故に巻き込まれて左手を負傷。「左手を思うように動かせなくなり、スポーツをするどころではなくなった」と振り返るほどの大ケガで、大幅な進路変更を余儀なくされた。

 県内の高校に入学した亨氏は、「アメリカで映画関係の仕事に就きたい」という夢を抱き、高校卒業後に20歳で渡米。左手のハンデを背負いながらも、メイクの仕事をこなし、充実した日々を過ごしたが......父の死に伴って沖縄に帰郷。異国での生活は7年ほどで幕を下ろした。

 亨氏は再就職に向けてスタートを切ったが、エンタメ関連の仕事は少なかったのに加え、左手が使えないことへの風当たりや偏見に苦しんだという。

「未経験からのスタートで、ましてや"障がい者枠"ということもあり、定職を手にするまでにすさまじく高いハードルがありました。なんとか職に就くことができても、職場の同僚に左手のケガを揶揄されたり、日常の何気ない場面で強い偏見を感じたりすることも、当時は珍しくありませんでしたね」

 得意な英語を生かしたレンタカー業の窓口や運転手、時には農作物の刈り取り作業など、自分にできる仕事は何でもやった。多い時には3つの職種を掛け持ちしていたそうだが、当時は障がい者の雇用が進んでおらず、そのことを理由に賃金が抑えられたこともあって、満足な収入や安定した生活を得るには至らなかった。

【自分は"ハズレガチャの親"】

 宮城が幼い頃には、亨氏が職を追われ、ミルク代をねん出するのも困難だったことがあるという。情けなさを感じながら実家に相談したが、「ミルク代すら稼げないのに、なんでお前は子供を作ったんだ」と門前払い。帰宅後、空腹で涙が枯れるまで号泣し、疲れ果てて眠る子どもたちの姿を見て、亨氏は「二度とひもじい思いはさせまい」と心に誓ったという。

 そのような逆境のなかでも、長男の大弥や、現在女優として活躍を続ける弥生さんなどを授かった。

「『逃げ出したい』と思うような瞬間をたくさん味わいましたが、楽しく充実した毎日を過ごせていたんじゃないかと思います」

 そう語る亨氏だが、子供目線から「親ガチャ」という言葉を口にした。

「数年前に『親ガチャ』という言葉を聞いた時に、『面白い表現だな』と思って、僕も使ってみることにしたんです。家族にたくさんの苦労をかけさせてしまった僕は、言うまでもなく"ハズレガチャの親"だと自覚していますが、それなのに"大当たり"の妻と子供たちに出会うことができた。僕が同じ立場だったら、きっと家出していたんじゃないかな」

 自虐を交えながら、亨氏は「安定した収入を得られるまでに10年くらいかかった」と振り返った。

 そんななかで宮城は、早くから野球に興味を持ち、4歳の時に少年野球チームに入団した。亨氏と誓った3つの約束、「挨拶をする」「嘘をつかない」「一度やると決めたら投げ出さない」を胸に秘めて野球に向き合い、実力を伸ばしていった。

 宮城が小学1年の時には、遠心力を生かした負担の少ない身体の使い方を理解してもらおうと、ドライブに連れ出したこともあるという。

「息子を乗せて大きなカーブを走り、ブレーキをかけた時と、そうでない時に受ける負荷の違いを伝えようとしたんです」

 そういった独自のものも含め、亨氏の熱のこもった指導もあって、宮城は現在に通じるピッチングフォームの基礎を作り上げていった。

【温厚だった少年時代の宮城が激怒した日】

 しかし生活は困窮しており、電気や水道、ガスが止まることもあり、役場の職員が自宅を訪れ、子供を施設に預けるかどうか問われたこともあるという。

そんな日々のなかで、野球道具をそろえるのに苦労した。

 ユニフォームは、破れやすいヒザの部分だけでなく、至るところがツギハギだらけ。グローブも革ではなく、700円で販売されていたビニール製のグローブだった。亨氏が「ビニールの硬いグローブが、少しでも柔らかくなれば......」という思いで電子レンジで温めてしまい、グローブを溶かしてしまったことも。

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幼少期に宮城が着ていたユニフォーム photo by Junichi Shiratori

 またある時は、使い古して穴の空いたスパイクを審判に注意され、ガムテープでぐるぐる巻きにして試合に出たこともあった。宮城が小学3年時には、チームが優勝を勝ちとったものの、金銭的な事情から祝勝会への参加が叶わなかった。自身の貯金を切り崩してもチームメイトと勝利を分かち合えない状況に、宮城は涙を流したという。

「それでもめげることなく、まるで貧しさを忘れようとするかのように、野球に取り組んでいましたね。小さい頃から穏やかな性格で、家庭が置かれた状況に不満を述べたり、感情的になることはほとんどありませんでした」

 宮城は「決してあきらめない気持ち」で成長していった。中学からは硬式の「宜野湾ポニーズ」に加わり、中学2年で投手に転向。カーブやスライダーなど変化球を巧みに操るピッチングで強豪を退けた。

 その頃、見たことがないほど激昂した表情で宮城が帰宅し、両親が驚愕したことがあるという。

亨氏が理由を問うと、「いつかプロ野球選手になって活躍したい」と夢を語る宮城に対し、中学校のある先生が「目の前にある現実を見なさい」と、貧困を理由に目標が叶わないと言われたから、ということだった。

 さらに、数々の賞を獲得する宮城に嫉妬したチームメイトに靴を取られ、トイレの便器に投げ込まれたことも。亨氏は「野球はひとりではできない」と宮城の怒りをなだめ、子供たちや監督と話し合うなど解決に奔走した。

 そんなトラブルもありながら、2015年には「全日本中学野球選手権大会 ジャイアンツカップ」に出場。宮城はそこでの活躍が認められ、翌年にはU-15日本代表にも初選出された。沖縄県出身の選手として史上初の快挙だった。

(後編:宮城大弥が父と叶えた恩返し「夢をあきらめざるを得ない子どもたちを少しでも減らせたら」>>)

【取材協力】

風来坊株式会社

鰐川せりな 秋山高志

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