日本ボクシング世界王者列伝:内山高志 25歳でプロデビューを...の画像はこちら >>

井上尚弥・中谷潤人へとつながる日本リングのDNAたち22:内山高志

「世界戦だけなら、自分、レフェリーストップによるTKO勝ちというのは2度しかないんです」。内山高志は言った。

世界戦計15戦12勝、うち10度はフルラウンドを要することなく対戦者を打ちのめした。そのうち、連打をまとめてレフェリーが試合を止めたのは、WBA世界スーパーフェザー級タイトルを奪ったファン・カルロス・サルガド(メキシコ=2010年1月)戦とブライアン・バスケス(コスタリカ=2012年12月)戦のみ。ほかには判定勝利と負傷引き分けが1度ずつ、2度が相手の途中棄権によるもの。残る6度は1度のノックダウンを奪ってそのままカウンテッドアウト、もしくは厳しいダメージを配慮してレフェリーがカウント途中でストップする実質的な一撃ノックアウト。この事実こそが内山というボクサーの魅力のすべてを物語る。

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【強烈なパンチとともに急階段を駆け上がる】

"ノックアウト・ダイナマイト"。大胆なキャッチフレーズとともにプロボクシングにやってきた。25歳の時だ。全日本選手権3連覇など、アマチュアで大きな実績があるとはいえ、日本ではかなり遅いスタートになるが、その怪力、怪腕ぶりを示すエピソード付きで大きく売り出された。実際、内山の豪打はプロキャリアの序盤から圧倒的だった。

 KOの山を積み上げた。わずか8戦目(7勝6KO)で東洋太平洋スーパーフェザー級王座決定戦に臨む。相手は元英連邦チャンピオンで世界挑戦の実績もあるナデル・フセイン(オーストラリア)。

内山はボディブローを交えた攻撃で30歳のベテランを圧倒し、最後は左フックでなぎ倒す。キャンバスをたたいて悔しがるフセインだったが、力の差を感じ取ったセコンドがカウント途中にタオルを投入してそのままKO勝ち。最初のタイトルにたどり着いた。

 さらに豪打のパフォーマンスは続く。東洋太平洋のタイトルを5度防衛。うち4度はKO・TKO勝ち。世界王座挑戦はまさしく満を持してのものだった。

 ただ、そのころの私は内山が世界王座に届くのかと考えると、懐疑的だったのを明かさなければならない。腹や頭部へと角度を変えた的確なパンチを上手に打っているのだが、流麗なコンビネーションパンチには見えなかった。どちらかと言えば、強打まかせ、力ずくの連打ではないのかと見えていたのだ。もっと動きが速くなる世界レベルではどうなのか。

 今になって、それらすべては私の見識のなさから生まれた評価だったと白状しておきたい。

世界王者となった内山の数々の戦いを見て、すっかり見方は変わった。なおかつ、取材を重ねるうちにその剛毅にして清潔な"男気"に触れ、いよいよ惹きつけられるようになる。

【本格開花までの長い日々】

 名門・花咲徳栄高校(埼玉)でボクシングを始めたが、本人曰く、なかなか芽は出なかった。3年生時、インターハイでベスト8、国体準優勝を飾り、名門の拓殖大学に進む。だが、ここで大きな壁に突き当たった。内山自身、さしたるハードヒッターでもなく、「ふつうのボクサー」という自覚しかなかったし、周囲の評価もそうだった。全国から有力選手が集まる同大学では二軍扱い。広い道場を自由に使えるのは有力選手だけ。内山の居場所はだれも使っていないサンドバッグの前しかなかった。

「やれることをやるしかないから」

 内山はひたすら、"仮想人体"を殴りまくった。とくに右パンチは念入りに、ひたすら拳を打ち込んだ。そんな日々が重なるうちに背中、肩の筋肉が盛り上がってきたのを感じるようになる。半年後、それまでスパーリングでは手も足も出なかった選手たちとも、まともにやり合えるようになっていた。

 ハードパンチャーは作られるものではなく、あらかじめ持って生まれるもの−−ボクシング界では古くから常識とされる。だから、内山は天性の素質に気づいていなかっただけなのだろう。不断の努力で起きた肉体の変化が、自信に変わる。自信は拳の力はもとより、正確に相手の急所を捉えるパンチの軌道を呼び出し、さらにもっとも破壊力を高めるタイミングを体の中に招き入れた。大学4年生で全日本選手権を制覇するころには、アマチュア界きってのKOパンチャーと呼ばれるようになっていた。

 大学卒業後は高知県の企業に就職し、2002年、同県開催の国体(現国スポ)で優勝に大きく貢献した。その後もアマチュアエリートとして活躍したが、2004年、アテネ五輪最終予選敗退を機に引退を決意。同年、地元・さいたま国体での準優勝が最後になるはずだった。

「そのころの1年、ボクサーとして成長してないなと思って」の決断に迷いはないはずだった。プロやK1からの誘いはすべて断って、一般企業に就職した。しかし、半年もたたないうちに、なにかしらの"違和感"が湧き上がってくる。「会社に行って、飲みに行く」。

自分が求めている日々ではない。

「プロとして殴り合うような根性は、自分にはないと思っていたんです。でも、知人の試合を見ていると何かが疼くんです」

 素直になるしかないと思った。最も熱心に誘ってくれていた人物のつてを得てワタナベジムに入門する。そして、"ノックアウト・ダイナマイト"の本格的な旅はようやく始まった。

【世界進出の望みは叶わずとも、11度防衛の偉大な記録も】

 世界チャンピオンになった内山は、次々に豪快なKOをリングに描いていった。与えられた行数では、その一端しか紹介できない。

 正規チャンピオンとして、暫定チャンピオンのホルヘ・ソリス(メキシコ)と対した"統一戦"では、圧倒した末に、最後はきれいな左フックで失神させた。ソリスは帰国後、「ボクシングは危険なスポーツだ」と言い残して引退した。ムエタイ200勝のサウスポー、ジョムトーン・チューワッタナ(タイ)にはファーストパンチの右ストレートで目をしばたかせ、ショート連打で反撃にきたところを右ボディアッパー一発で沈黙させた。そして2ラウンド、やはり右ストレートで大の字に眠らせる。

 もはや敵なしに思えた内山だが、現状に満足していなかった。

さらなる大望を抱いた。海外進出だった。自分がどれだけのものなのかを世界のリングで証明したい。実現に向けて数々の話が動いた。内山自身が単身、渡米して有力プロモーターに直談判したこともある。だが、望みが叶うことはなかった。

 2016年、36歳の内山は志を果たせぬまま一気に精彩を失い、王座を手放す。再戦でも敗れ、引退を決意した。ボクサーならいつか来る日である。

 今でも内山の強打の余韻が頭に残る。だから、こんなことを聞いたことがある。

 パンチを強くする秘訣ってあるんですか?

「わからないですね。

逆にパンチのない人に聞きたい。本気で打ってんのか? と。どうやって強く打てるのかは、自分でしか発見できませんよ」

 やるべきことをちゃんとやっているのか。

 答えを聞き出したいなら、自分の可能性をきちんと自らに問うてからにしてくれ。リングを離れれば、どこまでも温厚で、細部に行き渡る心遣いが印象的だった内山が放った強烈なこの一言もまた、心の底までしみ渡った。

●Profile
うちやま・たかし/1979年11月10日生まれ、長崎県出身の埼玉県春日部市育ち。中学生でボクシングに興味を持ち、名門の花咲徳栄高校(埼玉)、拓殖大学と進んだ。初の全国タイトル獲得は大学4年時の全日本選手権と遅咲きだったが、このタイトルを3連覇。アマチュアでは91勝 (59KO・RSC) 22敗の戦績を残し、2005年にプロ転向。2年後に東洋太平洋スーパーフェザー級、5年後には同級のWBA世界王者となった。世界のベルトを巻いてからは無類の強打者として長くタイトルに君臨。2015年にはスーパーチャンピオンに認定された。2016年にジェスリル・コラレス(パナマ)に敗れるまで11度のタイトル防衛に成功した。2018年、東京・四谷にフィットネスジム『KODLAB』を開き、25年にプロ加盟。身長172cmの右ボクサー型。戦績は27戦24勝(20KO)2敗1分。

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