2025年6月、WBO世界ウェルター級タイトルマッチ。王者ブライアン・ノーマンJr.(米国)に挑んだ佐々木尽(八王子中屋)は、5回KO負け。

日本人未踏、ウェルター級世界王座。その壁は想像以上に高く、厚かった。あれから8カ月――。先月19日、再起戦に臨んだ尽は、2回、左フック一閃で相手を沈めた。

 再び、日本人未踏の頂きを目指す24歳の現在地。そして、ともに戦う71歳のトレーナー、中屋廣隆の覚悟を追う。(4回連載/3回目)

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第3回/「KO PRINCE」――結べない靴紐

 2026年2月19日、東京・後楽園ホール――。

 メインイベントの出番を待つ地下一階の控室で、尽は、静かに身体をほぐしていた。アンダーカードのボクサーたちと同じ部屋は荷物であふれ、足の踏み場もない。昨年の世界戦とは、明らかに違う環境。尽は気にする様子を見せない。

「尽、そろそろ、巻こうか」

「はい、お願いします」

 廣隆がパイプ椅子を並べた。

尽は無言で拳を差し出す。包帯はひと巻きひと巻き、確かめるように重ねた。

 感触を確認し、締め具合を微調整。最後に、テーピングで固定するまでおよそ10分。わずか10分という短い時間に、廣隆は全神経を注いだ。

「どう?」

「最高です」

「大丈夫。今日は練習でしてきたことを、そのまま出していこう」

「はい」

「慌てなくていいから」

 廣隆の声は穏やか。ただし、そのひと言には、過去の苦い記憶が滲んでいた。

 同じ後悔は繰り返さない。

 尽とは最後まで、共に戦う――。

【ボクシング】佐々木尽と世界の頂を目指すトレーナーが、後悔の涙を流した日 手を離してしまった愛弟子の異変
かつての中屋廣隆トレーナーの愛弟子・渡辺雄二は1991年10月、日本王者となり「月間MVP」を受賞した

 1997年3月30日、東京・両国国技館――。

 WBA世界フェザー級タイトルマッチは満員札止め、1万人超の観客で沸き上がった。

3階級制覇のチャンピオン、ウイルフレド・バスケス(プエルトリコ)に挑戦するのは、WBA同級1位の渡辺雄二、当時26歳。4年4カ月ぶりにたどり着いた、2度目の世界挑戦だった。

 純白のショートガウンを身に纏った渡辺がリングイン。カメラのフラッシュが四方八方から焚かれた。いたる所で振られる日本国旗。世界王座獲得に期待を寄せる大歓声。両国国技館に押し寄せたファン、テレビ観戦する視聴者、皆が新チャンピオン誕生の瞬間を待ち侘びた。

 ただひとり、廣隆だけは、まったく違う感情を抱いていた。

 セコンドは4人体制――。総指揮は、斉田ジムの斉田直彦会長。チーフは、マック・クリハラ。カットマンは、斉田会長とマックと旧知の天熊丸木ジム会長、丸木孝雄。

 廣隆は、リング下でマウスピースを洗浄する役目だった。

 プロデビュー時から指導し、ともに夢見た世界チャンピオンになる日。

 その4年4カ月前のヘナロ・エルナンデス(米国)戦は、斉田ジムのチーフトレーナーとして支えた。だが、1995年1月に独立して八王子にジムを開いたことで立場は変わった。斉田ジムとは友好関係を保ち、セコンドの手伝いに呼ばれたりもした。この日、主導権は与えられなかった。愛弟子の運命は、臨時トレーナーのマックに託された。

 渡辺は、ロサンゼルスで2カ月間、マックに指導を仰いだ。「世界を是が非でも獲らせたい」という斉田会長の意向だった。当時マックは、日本で最も注目されていたトレーナーのひとり。1994年12月、辰吉丈一郎との世界王座統一戦で薬師寺保栄を勝利へ導き、名声は一気に広まった。

 マックは渡辺に、2カ月という限られた期間のなかで、ほぼ連日のスパーリングを課した。

通常であれば、週2、3回に抑える強度の実戦練習を、間隔を置かず重ねた。

 マック独特の指導で世界王者になった選手もいた。ただ、すべての選手に同じ結果をもたらすわけではなかった。

【ボクシング】佐々木尽と世界の頂を目指すトレーナーが、後悔の涙を流した日 手を離してしまった愛弟子の異変
1997年3月、記者会見に臨んだ王者のバスケス(左)と挑戦者の渡辺雄二 photo by Kyodo News

 渡辺の公開スパーリングを見た時、廣隆は、すぐに違和感を覚えた。

 サンドバッグに打ち込む強打は健在。だが、対人の反応は鈍い。「体調は万全」「調子はいい」と、陣営もメディアも期待を寄せる傍らで、スピードを失ったパンチ、微妙にずれたタイミング、距離感、明らかに反応が遅れたディフェンスを見て、廣隆は愕然とした。

 あまりに変わり果てた姿。ヘナロに敗れはしたものの、世界初挑戦を10戦10勝10KOというパーフェクトレコードで迎えた頃の渡辺雄二は、もういなかった。

 総指揮は斉田会長。運命を託されたのはチーフのマック。自分は、マウスピースを洗浄し、手渡すだけの立場。

口は挟めない。だが、渡辺はリングへと向かう前、誰にも打ち明けられず、ひた隠しにしていた秘密を打ち明けた。最後に頼りにしたのは、サブセコンドの廣隆だった。

 試合前の控室――。渡辺は周囲を見渡し、誰も見ていないことを確かめたのち、廣隆の耳元で告げた。

「中屋さん」

「うん、どうした」

「シューズの紐、結んでくれませんか」

「......」

「うまく、結べないんです」

 うつむいた愛弟子のひと言。

 点と点だった違和感が線になった。いや、すでにわかっていた。気づかぬふりをしていた現実を、認めざるを得なかった。

「ショックでした。理由はどうあれ、雄二から離れてしまったことを、心の底から悔やみました。試合直前に雄二から打ち明けられた時も、何も答えられず、黙って、うなずいただけでした」

 渡辺は5回、左のクロスアッパーで顎を打ち抜かれた。

"KO PRINCE"はゆっくり崩れ落ちた。口から出血しながらも懸命に立ち上がる。だが、危険と判断したレフェリーが両手を振った。

 5回31秒、TKO負け。

 鐘の音が鳴ると同時に、ふたたび両膝を突き、前のめりに倒れた。

 誰もいない控室――。

 顎の砕けた渡辺は、誰かに付き添われて病院へと直行。

 関係者も早々に立ち去った。

 廣隆はひとり残り、鮮血に染まったタオルとマウスピースを握りしめていた。

 抑え続けていた感情が、一気に爆発した。

 声を上げ、大粒の涙を流し続けた。

 リングの下で、見守ることしかできなかった。

 終わりを告げる鐘の音を、早く鳴らしてほしい。

 ただ祈るしか、できなかった。

 たった1時間前の出来事が、遠い昔の記憶のようにも思えた。

 だが、握りしめたタオルとマウスピースが、否応なく現実を突きつけた。

 気を取り直し、荷物を片づけ始めた。

 パイプ椅子の下。

 床には、ハサミで切られた愛弟子の青い靴紐が落ちていた。

(第4回につづく)

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