木村和司伝説~プロ第1号の本性
連載◆第7回:金田喜稔評(7)
JSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車、Jリーグ発足後の横浜マリノス(現横浜F・マリノス)で活躍し、日本代表の攻撃の柱としても輝かしい実績を残してきた木村和司氏。ここでは、そんな稀代のプレーヤーにスポットを当て、その秀逸さ、知られざる素顔に迫っていく――。
日本代表はその年、翌1986年にメキシコで開催されるワールドカップへの出場権をかけたアジア予選を一次、二次と勝ち上がり、最終予選で韓国と顔を合わせた。結果から言えば、日本はホームアンドアウエーの2試合とも韓国に敗れ、ワールドカップ初出場を逃すことになる。
だが、ホームでの初戦、日本は0-2とリードを許して迎えた前半43分に、木村がおよそ25メートルのFKを直接叩き込み、一矢を報いた。
美しい軌道を描いてゴール左上に突き刺さったFKは、"日本が最もワールドカップに近づいた瞬間"とともに、現在まで長く語り継がれている。
ところが、だ。
伝説のFKが生まれた試合を見ていた金田喜稔の心の内は、そうした感傷的なものとは少しばかり距離を置いたところにあった。
「和司とか、あの時の(日本代表の)レギュラー組ともよう話したけど、ホームで1-2(の敗戦)じゃあ、話にならんわけですよ。で、アウェーでも勝てなかった。だから、惜しかったとか、(ワールドカップに)近づいたっていう気持ちもない。国立が満員になって、(木村のFKが)強烈だったから、ウワーッて盛り上がって印象深いとは思うけど、力の関係で言うたら、当時の韓国には(日本は)ほぼ勝てなかったからね」
そんな冷めた感情になるのには、理由がある。
いまだ破られていない日本代表最年少得点記録を保持していることでもわかるように、10代にして華々しいデビューを果たした金田は、その後も長く日本代表の中心選手として活躍することが期待されていた。
しかし、1984年ロサンゼルスオリンピックのアジア最終予選で惨敗したことをきっかけに、金田は「代表を辞退するために、加茂(周/当時日産自動車監督)さんに『もう日産だけでやりたい』って伝えて、森(孝慈/当時日本代表監督)さんからのオファーを全部断ってもらってた」のである。
「だから、(自分の考えは)アマチュアだったなって、やっぱ思うし、日の丸に呼ばれてるのに、それを蹴って行かなかったっていうの(後悔)が、すごくワシのなかではあって......」
「こっちはわがままの塊みたいな性格なんで」と自認する金田は、日本代表にいた時も、「ミーティングとかでも全然(監督の話を)聞いてないしね。机の上に足上げて、『はぁ?』みたいな。『はよ、終わらしてよ』みたいな態度やった」と振り返る。
「だから、森さんには絶対嫌われてたはずなんですよ、生意気やから。言うこと聞かんし。でも、ずっと使い続けてくれて、ワシが『もう代表ええわ』ってなったあとも、ずっと声かけてくれてたわけよ」
金田は自身の代表辞退について、日産のチームメイトでもあった木村から、何かを言われた記憶はない。
「あの時の代表は、キュウちゃん(加藤久/当時日本代表キャプテン)を中心に、選ばれた選手でまとまっていたし、いいチームだったと思うから」
自分がいれば、ワールドカップに出られたかもしれない、などと思っているわけでもない。ただ、心の奥底にあるうしろめたさが、金田に冷めた見方をさせる、とでも言えばいいだろうか。
だが、金田の感情とは無関係に、伝説のFKによって名を挙げた木村は、日産でも、その存在感を絶大なものにしていく。
「(金田が日産に入る時に)加茂さんは『5年で日本一になろう』って言ってくれて、結果的に(4年目のシーズンで)、まだガマさん(釜本邦茂/当時ヤンマー監督兼選手)がいるヤンマーと天皇杯の決勝でやって初めて優勝した。ワシのなかでは、そこが節目だと思う。
金田がそう振り返る当時の日産は、その1983年シーズンに天皇杯で初優勝を果たし、主要タイトル三冠(日本リーグ、天皇杯、JSLカップ)のひとつを初めて手にすると、そこからの9年で、実に天皇杯を5回制覇。その他にも、日本リーグで2回、JSLカップで3回優勝し、まさに黄金時代を築くのである。
「ワシは(試合に)出たり、出なかったりもあったけど、日本リーグも連覇しとったし、2年連続で全部(三冠)のタイトルを獲った時期があった。あれ、ほぼほぼ和司(の力)やったからな」
(文中敬称略/つづく)◆「森進一のモノマネの次ぐらい」というほどの"木村和司伝説">>
木村和司(きむら・かずし)
1958年7月19日生まれ。広島県出身。広島工業高→明治大を経て、1981年にJSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車(横浜F・マリノスの前身)入り。チームの主軸として数々のタイトル獲得に貢献した。その間、日本代表でも「10番」を背負って活躍。1985年のメキシコW杯予選における韓国戦で決めたFKは今なお"伝説"として語り継がれている。横浜マリノスの一員としてJリーグでもプレー。1994年シーズンをもって現役を引退した。引退後は解説者、指導者として奔走。
金田喜稔(かねだ・のぶとし)
1958年2月16日生まれ。広島県出身。広島工業高→中央大を経て、1980年にJSLの日産自動車入り。同郷で1年後輩の木村和司らとともに一時代を築く。大学2年生の時に初選出された日本代表でも奮闘。変幻自在のドリブルと独特なフェイントで攻撃の主軸を務めた。19歳119日という日本代表最年少得点記録を保持する。1991年に現役引退。以降、解説者、指導者として奔走し続けている。国際Aマッチ出場58試合6得点。

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