Jリーグ懐かしの助っ人外国人選手たち
【第36回】ジョルジーニョ
鹿島アントラーズ

 Jリーグ30数年の歩みは、「助っ人外国人」の歴史でもある。ある者はプロフェッショナリズムの伝道者として、ある者はタイトル獲得のキーマンとして、またある者は観衆を魅了するアーティストとして、Jリーグの競技力向上とサッカー文化の浸透に寄与した。

Jリーグの歴史に刻印された外国人選手を、1993年の開幕当時から取材を続けている戸塚啓氏が紹介する。

 第36回はジョルジーニョを取り上げる。鹿島アントラーズに4シーズン在籍して国内3大タイトルをすべて獲得し、自身はJリーグMVP、ベストイレブン、リーグカップMVPに輝いた。ハイキャリアのブラジル人選手が数多くプレーしてきたアントラーズの歴史でも、この男の存在感は特別なものがある。

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【Jリーグ】ジョルジーニョは立ち止まらない人だった 受け継が...の画像はこちら >>
 鹿島アントラーズの歴史を語るうえで、ジーコの存在は欠かせない。Jリーグ開幕前夜に前身の住友金属工業蹴球団にやってきた彼は、日本リーグ2部で戦っていたチームにプロフェッショナリズムを植えつけていった。

 ジーコはJリーグ開幕後も選手としてチームを牽引したが、1994年6月を最後にスパイクを脱ぐ。自身の代わりとなるMFとして、現役ブラジル代表のレオナルドを連れてきた。

 翌1995年、ジーコは現役ブラジル代表をもうひとり呼び寄せた。それが、ジョルジーニョである。彼らはフラメンゴでチームメイトだった。

「ジーコからは勝利への執念を示してほしい、と言われました。

『チームがファミリーとして戦う土台を作ることはできた。でも、まだ足りないものがある。それが勝利への執念だ、と。一つひとつのプレーを真剣に、あきらめず、結果を求めてボールを追いかけることがまだ足りない、と話していました」

 フラメンゴで全国選手権優勝を勝ち取り、バイエルンではブンデスリーガ制覇の一員となった。そして、1994年のアメリカワールドカップで世界王者となった。ジョルジーニョのキャリアは、勝者の足跡である。

【サイドバックからボランチへ】

「日本へやってきてすぐに、ジーコが言っていたことがわかりました。日本人選手はJリーグにいることで、アントラーズにいることで、満足しているような感じがしたのです。だから僕は言いました。『勝つために試合をする。優勝するために戦う。そうでなければ何の意味もないよ』と」

 加入1年目の1995年はケガに見舞われ、リーグ戦52試合のうち20試合以上を欠場した。彼だけでなくチーム全体としてケガ人が多く、前年の年間3位から7位へ後退した。

 1996年はシーズンを通して稼働した。ポジションはブラジル代表で馴染みの右サイドバックではなく、1995年にまかされた右サイドMFでもなく、ドイスボランチの一角である。「自分のよさはボールにたくさん触ること。ボランチでチームの勝利に貢献したい」と、指揮官ジョアン・カルロスを納得させた。

 右足のキックは高精度である。1本のパスで局面を変えられる。ミドルレンジからのシュートは威力十分だ。本来は世界最高峰のサイドバックだから、ピンポイントクロスで決定機を演出できるのは言うまでもない。

 守備の局面でも頼りになった。今でいうデュエルに強い。「今どこに立つべきなのか」というジャッジが適切で、彼自身がボールを奪わなくても相手の攻撃を遅らせる、味方選手にパスカットさせる、といったことができていた。戦況を読む眼が鋭かったのだろう。

 ボランチのコンビを組む本田泰人との役割分担は完璧で、サイドバックのスムーズな攻め上がりを促した。1996年のJリーグでは、ブラジルの同胞ドゥンガ(ジュビロ磐田)とセザール・サンパイオ(横浜フリューゲルス)、サンパイオとコンビを組んだ山口素弘、さらにはフランス人のデュリックス(名古屋グランパスエイト)やアルゼンチン人のサパタ(横浜マリノス)らがボランチとして存在感を発揮した。そうした選手たちと比較しても、鹿島をリーグ優勝へ導いたジョルジーニョは際立っていた。

【指導者になるつもりはなかった】

 在籍3年目の1997年は、リーグカップと天皇杯をクラブにもたらした。1998年はリーグ戦の出場試合数こそ減ったものの、ジュビロとのチャンピオンシップではホーム、アウェーともにフル出場する。こうした大一番に、ジョルジーニョは強い。だからこそ、どのクラブでもタイトルを手繰り寄せたのだろう。このチャンピオンシップでも、年間王者をつかむことに貢献した。

 1998年限りでアントラーズを離れた。引退後はいったん代理人業へ進むものの、指導者の道を歩んでいく。2012年にはアントラーズへ帰還する。監督に指名された。

 アントラーズとの契約を終えた当時、「いつかまた監督として戻ってきたい」と話していた。

約束を果たしたわけだが、ジョルジーニョは「実はね」と笑顔で明かした。

「現役を引退した直後は、家族とゆっくり過ごしたいと思っていた。指導者になるつもりはなかったんだけど、2年ぐらいそんな生活を送っていたら、『やっぱり週末はサッカーだよなあ』と思うようになってね。プレッシャーのかかる戦いに自分を置きたい、そのスイッチがほしくなったんだ」

 影響を受けた監督を聞くと、名将の名前がズラリと並んだ。

「いろいろな監督のいろいろなエッセンスが自分のなかにある。カルロス・アルベルト・パレイラ、ザガロ、テレ・サンターナ、ベッケンバウアー、トラパットーニ......ほかにも有名ではないけれど、モチベーションを高めるのがうまい監督、戦術眼に優れた監督、前半と後半でしっかり指示を出せる監督、ピッチの横にいながら全体を見られる監督がいました。そういう要素が、僕のなかにはあると思う」

 目指すサッカーを聞くと、現役当時と同じ言葉が聞かれた。

「サッカーはボールを持っていろいろなプレーができるので、ボールを持つことに臆病にならず、積極的に保持することを考えたい。あとは、勝たなければいけない。勝つチームを目指すよ」

【何歳でもうまくなることができる】

 就任1年目から、リーグカップを獲得した。その一方で、Jリーグでは11位にとどまった。開幕から大きくつまずいてしまい、先行するサンフレッチェ広島ベガルタ仙台の背中がはるか遠いままシーズンが終わった。

ふた桁順位はクラブ史上初めてであり、その後もない。

 ジョルジーニョは1年で退任した。タイトルをもたらしてもチームを去るのは、アントラーズだからこそだったのだろう。「選手だった当時は4年在籍して、リーグ戦で2回優勝した。それを超えられる数字を残したい」との野心を、叶えることはできなかった。

 それでも、ジョルジーニョがチームに残したものが消えることはない。常に全力で戦い、最後まであきらめない彼の姿勢は、アントラーズの遺伝子として受け継がれている。

 ジョルジーニョは立ち止まらない人だった。日本には31歳でやってきたが、「サッカーに限らずどんな分野でも、人生は日々勉強だと思う。成長したい気持ちがあれば、何歳でもうまくなることができる」と話した。

 たゆまぬ努力と飽くなき闘争心──。Jリーグ史上最高級の外国人選手が見せた価値観は、当時も今も、10年後も、20年後も、輝き続ける。

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