ワシントン ロングインタビュー/第1回(全4回)

 2005年に来日し、東京ヴェルディで1年間、浦和レッズで2年間プレーしたワシントン。パワーとスピード、技術を兼ね備えたプレーで浦和の初のリーグタイトル獲得に貢献した一方、心臓病を克服し、胸を叩いてゴールを祝う姿でファンのハートを揺さぶった。

そんな元ブラジル代表ストライカーに、日本のクラブに入団した経緯と理由、リーグ優勝などについて聞いた。

2000年代のJリーグで圧倒的な存在感を示したワシントン「早...の画像はこちら >>

【東京ヴェルディから運命的なオファー】

──あなたが日本のクラブで初めてプレーしたのは2005年でした。アトレチコ・パラナエンセでブラジル全国選手権の得点王に輝くなど、最高のシーズンを過ごした翌年でした。東京ヴェルディへの移籍を決めた最大の動機は?

「2001年のコンフェデレーションズカップの時に、ブラジル代表として初めて日本に行ったんだ。そこで1カ月間滞在して日本に興味を持ったけど、遠征中だったから、そんなに色々と知ることはできなくてね。だからヴェルディから話が来た時は、『これは運命だ、日本をもっと知る機会が来た!』と思ったものだよ。契約は1年間。最初はそれでいいと思っていたんだけど、日本が大好きになって、結局3年間もいたね。本当はもっといられたらよかったんだけどね」

──ヴェルディでのデビュー戦となったゼロックス・スーパーカップ(2005年2月26日、横浜F・マリノス戦)で2得点を挙げて、その後のJ1開幕戦(3月5日、大分トリニータ戦)でもゴールを決めました。適応には問題がなかったようですね。

「幸いにも自分が、当時のJリーグにはあまりいないタイプのセンターフォワードだったことがあると思う。190センチの長身を活かしたポストプレー、クロスに頭を合わせるのも得意だったけど、自分には足元の技術もあった。キープしながら素早くターンしてシュートに持っていったり、ディフェンダーを揺さぶってかわしたり、スピーディーに動くのが好きで、相手にとってはそれがサプライズになったんだと思う。

あのスーパーカップは横浜F・マリノスとの"日本のクラシコ"だったから、そこで挙げた2ゴールは大きなインパクトになったはずだ」

【「胸襟を開いて、日本のことをなんでも知ろうとした」】

──うまく順応できた秘訣は?

「たとえ1年でも、チームや日本サッカーに好影響を与える仕事をしたかった。だから早く馴染むために、日本の人たちと同じように暮らそうと思った。胸襟を開いて、日本のことを何でも知ろうとしたんだ。何でも食べたし、あちこちに出かけた。富士山が日本人の心の象徴のような存在だと聞いて、それを感じたくてすぐに行ってみたり。東京でもいろいろな所を知ろうとしたし、京都や大阪にはまた違う文化があると聞いて、何度も行った。日本の人たちと同じように楽しんだり、感動したりして、日本での生活に溶け込んだ。それがピッチ上でも反映されたのは確かだね」

──日本サッカーの印象はどうでしたか?

「すごく成長しているところだった。印象的だったよ。本来の特長だったスピードに加え、それを生かすための技術力が備わっていた。日本のチームが多くのブラジル人監督や選手を招き、彼らから学んでいたのもよかったと思う。特に強豪と言われていたチームは、それ以外にもGKコーチやフィジカルコーチ、理学療法士など、違った役割のブラジル人スタッフを招いていた」

──2005年にヴェルディとの契約が終了し、翌年は浦和へ移籍。最初は1年で帰国するつもりだったようですが......。

「まず、ヴェルディは18チーム中17位に終わり、J2へ降格した。当時のGMだった唐井(直)さんから夕食に誘われ、誠意をもって話してくれた。『君にここで続けてほしいが、今のヴェルディは来季に君と契約する状況にないんだ』と。理解できたし、納得もしたよ。

 ただ僕自身はもう日本に馴染んでいたし、その年のJ1で22得点を決めて、ゴールランキングで2位になった。だから、僕に興味を持ってくれるクラブが出てきたんだ。ガンバ大阪と浦和レッズをはじめとするいくつかのチームが」

──浦和を選んだ理由は?

「唐井さんが『君は浦和でやるのがいいと思うよ』と勧めてくれたんだ。僕も1年間Jリーグでやってきて、浦和がいいチームであることは分かっていたし、当時の浦和なら、僕のプレーの特徴がフィットすると思えた。そしてあのすばらしいサポーターだ。彼らと一緒に戦えれば幸せだろうな、という自分の心の声を聞いたくらいさ(笑)。

 おかげさまで、浦和でのデビュー戦のゼロックス・スーパーカップでゴールを決め、Jリーグでも開幕戦から得点を重ねていくことができた。チームもサポーターも、僕を支えようとしてくれたよ。

いい雰囲気に包まれていて、思い描いていた幸せが、すぐに現実のものになったんだ」

【浦和に初のリーグタイトルをもたらした】

──浦和時代で特に印象に残っている試合といえば?

「ひとつを選ぶなら、Jリーグ初優勝を達成した2006年最終節のガンバ大阪戦だね。クラブにとって歴史的なタイトルであり、僕ら選手一人ひとりの人生に刻まれたものだ。外国人選手として、リーグ優勝に貢献するというのは、成功の象徴でもあるし、ものすごく感動したよ。

 ガンバも僕らに勝てば優勝だったから、リーグの最終節ではあっても、まさに決勝そのもの。激戦だったよ。1-1での前半終了間際に、僕の1点目で2-1と逆転。(鈴木)啓太からボールを受けたホビ(ロブソン・ポンテ。ブラジルのポルトガル語に近い読み)が、最高のクロスを上げてくれたんだ。僕らの守備陣には(田中マルクス)闘莉王とネネ、左にアレックス(三都主アレサンドロ)、右に山田(暢久)が揃っていて、磐石で強固だった。

 そして、僕らの3点目だ。闘莉王が頭でプレゼントのようなボールを出してくれて、僕が決めた。その後、ガンバに2点目を決められたとはいえ、もうタイトル獲得が決まったような雰囲気になり、スタジアムにいた6万2000人以上のサポーターが大合唱していた。

僕はあの日のすべてを、決して忘れないよ」

──あの年はJリーグ得点王にもなりました。

「最終節で2ゴールを決めたことによって、マグノ・アウベスと並んで得点王になったんだ。だからあの僕の2点目は、浦和のリーグタイトルと僕の得点王が決まった瞬間だった。どちらも初タイトルだ。

 あの年、Jリーグで26試合に出場して、26得点を決めた。チームにはまず『みんなで優勝しよう』という最大の目標があって、『ワシントンがゴールを決めれば、チームは優勝に近づくし、同時にワシントンは得点王に近づく』と考え、みんなが手助けしてくれた。

 あのチームは本当に強くて、ゼロックス・スーパーカップとJリーグ、天皇杯の三冠を達成。個々のクオリティが高いうえに、全員が完全に団結していた。監督の戦術もすばらしかったし、よい練習のおかげで、僕らはフィジカル的にもよい状態を保てた。2006年の浦和レッズは、全ての面で高いレベルに達していたよ」

(つづく)

ワシントン Washington Stecanela Cerqueira
1975年4月1日生まれ、ブラジリア出身。現役時代は大柄で決定力の高いクラシックなセンターフォワードとして知られ、ポンチ・プレッタ、フェネルバフチェ(トルコ)、アトレチコ・パラナエンセを経て2005年に東京ヴェルディに加入した。翌2006年に浦和レッズへ移籍し、同年のJ1リーグと天皇杯を制し、2007年のAFCチャンピオンズリーグでも優勝。

ブラジル代表としては9試合2得点を記録した。引退後は政治家となり、2025年にはFC相模のゼネラルマネージャーに就任している。

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