ワシントン ロングインタビュー/第2回(全4回)

 2005年に来日し、東京ヴェルディで1年間、浦和レッズで2年間プレーしたワシントン。パワーとスピード、技術を兼ね備えたプレーで浦和の初のリーグタイトル獲得に貢献した一方、心臓病を克服し、胸を叩いてゴールを祝う姿でファンのハートを揺さぶった。

そんな元ブラジル代表ストライカーとのインタビューの第2回では、浦和レッズを退団した経緯やAFCチャンピオンズリーグ制覇、クラブW杯の記憶などを聞いた。

「笑顔と歓喜の涙で抱き合い、もみくちゃになる幸せ」スタンドの...の画像はこちら >>

【「僕は浦和のシャツを、自分の皮膚のように感じていた」】

──2007年、浦和レッズは監督がギド・ブッフバルトからホルガー・オジェックに代わり、調子を落としていきます。何が起こり、あなたたち選手はその問題をどう乗り越えようとしましたか。

「監督が交代すると、何らかの変更や、一時的な適応の問題は起こり得るものだけど、あの時は選手と監督との関係がうまくいかなかったと思う。ギドは日本人のことを理解していたし、ブラジル人を好きでいてくれた。でも、オジェックには彼のやり方があって、それを擦り合わせていく過程で、ブラジル人選手と少し衝突したんだ。ブラジル人選手は意見を言い、チームのリーダーシップを取っていた。それが監督には受け入れられなかった。

 僕らはJリーグで優勝した前年のチームから変わらず、すばらしいチームだった。だから新しく来た監督が、チームを理解しないままに自分のやり方を通そうとしたら、チームは混乱する。僕も何度かケンカのようになった。僕自身、自分がもっと貢献できると感じていたし、最終的にはそれが彼を手助けすることになったはずだからね。

 その後、監督もあのチームがどうやって勝利を掴んできたのかを理解し、僕らも彼のやり方に慣れていった。

それでも、浦和がJリーグ連覇を達成できず、2位に終わったことを、仕方ないと考えることはいまだにできない」

──そんな難しい状況でも、浦和はAFCチャンピオンズリーグ(ACL)で頂点を極めました。歴史的な快挙です。

「浦和の上層部がシーズンの始まりに掲げた目標が、ACL優勝だった。明確な目標が提示されるのは、選手にとって大事なことで、僕たちはそのために一丸となって戦った。

 ACLはすごく難しい大会だ。当時は対戦相手の情報も少なかったし、サッカーにおけるアジアは広い。アウェーの文化も様々だ。セパハンとの決勝第1戦でイランに行った時には、空港で武器を持った厳重な警備に驚きながら、『落ち着いていこう。ピッチの中では、ただサッカーをすればいいんだから。』と仲間と話したり、気候や時差に対応するためには『水分を補給しよう。消耗を避けるために、もっとパスを繋ごう』と話し合いながら臨んでいた。

 僕はフェイスガードをして出場し、ゴールを決めた試合もあった。

韓国のチーム(城南一和天馬)との準決勝の直前、Jリーグのジェフ(ユナイテッド市原・千葉)戦で鼻を骨折したんだ。すごく痛かったけど、試合に出られるかという話になった時、僕は訴えた。『ACLの準決勝だよ! 何があっても、僕はこの重要な試合でプレーする』とね」

──優勝した時は、どんな気持ちでしたか?

「決勝は嬉しいことに、第2戦がホームだったから、浦和サポーターの前で、このタイトルを獲ることができた。僕らはいつも、彼らとともに闘志を持って戦っていた。サポーターはスタジアムを満員にしてくれる。だったら、僕らもそれに報いる戦いをしなくては、と。僕は浦和のシャツを、自分の皮膚のように感じていたんだ」

【サポーターとの惜別の瞬間を思い出し、感極まる】

──2007年はACLを制した後、Jリーグで2位に終わりました。その後のクラブワールドカップには、どういう状況で臨みましたか?

「僕ら選手たちは話し合いの場を持ち、Jリーグで起こったことを引きずるのではなく、クラブW杯という大きなチャンスに集中しようと、さらに結束を高めた。

 個人的にはもうひとつ、あのクラブW杯が僕にとっての浦和での最後の大会になると分かっていた。もちろん、僕はもっと長く浦和で続けたかったけど、それがフロントと監督の決定であり、選手の人生では起こりうることだ。

 フロントから、こう言われていたからね。『ワシントン、契約は更新できないけど、クラブW杯でも君には精一杯戦ってほしい』と。僕は即答した。

『そんなこと言う必要はありません。僕はこのクラブとサポーターを愛している。ここで歴史を築けたのだから、最後までベストを尽くして、胸を張って出ていくつもりです』と。

 結果として、ラストゲームを3位決定戦の勝利で終え、僕はみんなのおかげで大会通算3ゴールを決めて得点王にもなった。だから、タイトルを獲ったような気持ちで浦和を去ることができた」

──クラブW杯で最も印象に残っている瞬間といえば?

「自分が決めたゴールや、ミランのカカに試合後、『相手に恐怖を感じた』と言われるほどいい試合ができた準決勝もある。でも、最も心に刻まれたのは、チームとのお別れの時だ。3位決定戦のPK戦で僕を含む浦和の全員が決め、最後にGK都築(龍太)が相手のキックを止めた時、ピッチで立ち上がれなかった。『これで終わったんだ』という悲しみ、世界3位の勲章をサポーターにプレゼントできた幸せ、そして、浦和でのすべてに対する感謝の気持ちが溢れてきたんだ。

 その後、サポーターのところへ行くと、彼らは僕のチャントを歌い、『あなたは僕らの王様だ』と言って、王冠まで渡してくれた。あの時、サポーターから受け取った惜別の思い......。あの瞬間の感情がそのままよみがえって、思い出すと泣けちゃうよね」

【「僕の一番好きな時間だった」】

──あなたは浦和で大きな勝利を掴むと、スタンドに上がってサポーターと一緒に祝いましたよね。

「Jリーグでも、ACLでも、スタンドに上がって、サポーターたちのド真んなかで一緒にタイトルを祝った。

笑顔と歓喜の涙で抱き合い、もみくちゃになる幸せに酔いつつ(笑)、メガホンで大合唱をリードして。僕の一番好きな時間だった。彼らのパワーは、浦和で一番重要なもののひとつだ。だから僕らが彼らに届けられる最高のプレゼント、タイトルを手にした時は、ああやって一緒に祝いたくて、そうしたんだ」

──あなたのチャントを覚えていますか?

「忘れるわけがない。♪ヴァーモス ワシントン フェズ ゴール。ヴァーモス ワシントン フェズ ゴール。ヴァーモス ワシントン ワシントン フェズ ゴール♪ いつもウォーミングアップから声援を受けていた。選手はサポーターとの一体感を感じることで、最高の準備ができるものさ」

──浦和のチームメイトたちとの関係は、ピッチの内外でどうでしたか?

「最高の人間性を持つ(小野)伸二。タナキーニャ(田中達也)とは、いつも冗談を言ってふざけ合っていた。(鈴木)啓太は僕のことをブラジルでのニックネームで呼んでいて、彼が『シトーン!』と呼ぶ感じが可愛かったね(笑)。岡野(雅行)はチーム最年長だったけど、まるで最年少みたいに笑いをもたらしてくれた。阿部(勇樹)は当時、若くて遠慮がちだったけど、2017年の浦和のACL優勝でキャプテンとしてトロフィーを掲げている姿を見た時は、本当に感動したよ。

僕らはみんな兄弟だったんだ」

(つづく)

ワシントン Washington Stecanela Cerqueira
1975年4月1日生まれ、ブラジリア出身。現役時代は大柄で決定力の高いクラシックなセンターフォワードとして知られ、ポンチ・プレッタ、フェネルバフチェ(トルコ)、アトレチコ・パラナエンセを経て2005年に東京ヴェルディに加入した。翌2006年に浦和レッズへ移籍し、同年のJ1リーグと天皇杯を制し、2007年のAFCチャンピオンズリーグでも優勝。ブラジル代表としては9試合2得点を記録した。引退後は政治家となり、2025年にはFC相模のゼネラルマネージャーに就任している。

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