ワシントン ロングインタビュー/第3回(全4回)

 2005年に来日し、東京ヴェルディで1年間、浦和レッズで2年間プレーしたワシントン。パワーとスピード、技術を兼ね備えたプレーで浦和のメジャータイトル獲得に貢献したストライカーは、サポーターとの距離が近く、多くの人々に愛された。

そんな元ブラジル代表とのインタビューの第3回では、克服した心臓病や母国ブラジルへの帰還などを話してもらった。

死の淵から生還したワシントンの人生観の変化「あらゆる事象にも...の画像はこちら >>

【「僕の心は半分日本人だよ」】

──あなたが患い、その後に乗り越えた心臓病について、あらためて聞かせてください。

「心臓の問題は、僕の人生でも最大の困難と克服だった。トルコのフェネルバフチェにいた時、左肩の痛みと胸焼けのような感じがあって検査をしたら、心臓にとって大事な冠状動脈のひとつが、90%詰まっていたことが判明した。それで緊急手術を受け、ステント(狭くなった冠動脈を広げて固定する筒)が付けられたんだけど、それは僕の命を救うための処置。多くの医師が、僕はもうサッカーがプレーできなくなると言っていた。

 その後、ブラジルに帰って優秀な心臓専門医と出会ったんだ。多くの検査をして、今度は選手生命を取り戻すための再手術をした。そして、ブラジルのアトレチコ・パラナエンセというクラブの協力を得て、本当にハードに準備をした。選手としても、人としても、僕はこの復帰にすべてを賭けたんだ」

──あきらめかけたことはなかったんですか?

「達成できると信じていたし、怖気づいたりはしなかった。僕は心臓の問題以前にも、両脚を同時に骨折したことがあるし、21歳で1型糖尿病を発症した時も、サッカーを続けられるのかわからなくなった。それらすべてを、強い意志の力で乗り越えてきた。タフなメンタルがなければ、自分のキャリアは違ったものになっていたはずだ。

 ただ、命を落とす可能性があったのは事実だ。それを克服することが出来た時に、人生観が変わった。日々の練習、家族と過ごす時間、自分が接する人たち......、あらゆる事象に、もっと大きな価値を感じるようになったんだ。そうなれば自分の姿勢も変わり、色々なことがいい形で起きてくる。

 アトレチコ・パラナエンセでプレーに戻った時、2004年のブラジル全国選手権で34ゴールを決めて得点王になった。1年間のゴール数としては大会記録であり、現在も破られていない。

 日本に行った時も、僕を求めてくれた日本のすべてに価値を見出した。いいサッカーをしたい、文化を知りたい、新しい国を知りたい、その国を愛したいという強い意欲を持ち、日本は僕の第2の故郷になった。僕が生きたあの場所には、喜びがあった。僕の心は半分日本人だよ」

【「僕と浦和サポーターは、胸を叩きながら、人生とは何かを共に学んだ」】

──あなたはゴールを決めた時、いつも胸を叩いていました。あれは何を意味していたんですか?

「ゴールを決めた時、胸を叩くのが、トレードマークになったよね。選手として復帰し、ピッチに立った時、鼓動を感じたんだ。そして、ゴールを決めた時、さらに鼓動が強くなった。

だから、僕は鼓動が聞こえる胸を叩いて、ゴールを祝ったんだ。僕の心臓が動いている、生きている。その鼓動を示し、克服の証しであるゴールを、チームやサポーターと共に祝うために。

 復帰できたからには、もっといいプレーをしたいと思い、熱くなりすぎることもあったけどね。ゴールを決めたい、ひとつ決めたらふたつ、ふたつ決めたら3つと。時には周りに強く檄を飛ばしすぎて、チームメイトと喧嘩になったこともあったね(笑)」

──あなたの思いは浦和サポーターにも伝わっていたと思います。だからこそ、彼らは日本心臓財団へ寄付していたんですよね。

「それを知った時、僕はこれ以上ないほどに感動したよ。サポーターはチームを支えてくれたうえ、僕がゴールを決めるたびに、それを祝う形で、日本心臓財団に寄付していたんだ。僕が乗り越えた問題で、今も苦しんでいる人たちがいる。ゴールを決めることによって、その人たちを手助けすることができるなんてね。僕と浦和サポーターは、胸を叩きながら、人生とは何かを一緒に学んだんだ」

──あなたは浦和から移籍したフルミネンセでも、サポーターたちに理解されていました。

だからこそ、"Coração Valente(勇者の心)"と呼ばれ、愛されていたのです。

「本当にそうだね。彼らは僕にぴったりのチャントを作ってくれた。♪Coração valente, Guerreiro tricolor. Washington é matador(勇者の心、トリコロールの戦士。ワシントンはとどめを刺す男)♪ 心臓の問題を乗り越えてから、僕は"戦士"や"サムライ"としてみなされるようになった。僕もその"戦士"という言葉にアイデンティティーを感じているよ。」

──2007年を最後に浦和を去る時、あなたには色々な選択肢があったと思うんですが、なぜフルミネンセを選んだのですか?

「浦和を去る時には、日本のいくつかのクラブからも話が来ていた。でも、僕は浦和との一体感が強くて、すぐに日本で別のシャツを着ることが考えられなかった。日本から少し離れた後で、他のチームから話が来ていたら、日本に帰ろうと思っただろうけどね。僕は日本を愛していたから。

 でも、当時は家族の近くに戻り、ブラジルの強いチームでプレーしようと考えたんだ。フルミネンセはいいチームだったし、コパ・リベルタドーレスという、僕の夢だった大会にも出場することが決まっていたからね。

 そのコパ・リベルタドーレスは、歴史に深く刻まれたよ。

フルミネンセはそれまでグループリーグを突破したこともなかったのに、あの2008年は決勝に到達したんだ。もちろん、優勝したかった。僕にとっては、南米チャンピオンとしてクラブW杯を戦うために、日本に"凱旋帰国する"という夢もあった。LDUキトとの決勝は2試合を通じて引き分けとなり、最後にPK戦で敗れてしまったんだ」

【「サッカーでのよい思い出を抱きしめて、第2の人生に踏み出した」】

──帰国後は、サンパウロFCの時期も含めて3年間プレーし、最後はフルミネンセで2011年のプレシーズンが始まる時に引退を決めましたね。

「2008年のブラジル全国選手権で得点王になったり、サンパウロFCでは州選手権でベストイレブンに選ばれたりと、選手生活の終盤をとてもいい形で過ごすことができた。そして、フルミネンセに戻った2010年に、クラブの26年ぶりの全国選手権優勝を達成。その後、これは引退のタイミングかもしれないと考えるようになった。

 心臓は良好だったし、難しい決断だったよ。でも当時、まもなく36歳になるところだった。これまでと同じように実力を発揮できなくなるかもしれない、と感じた。それで、家族やクラブと話をして、サッカーでのよい思い出だけを抱きしめて、家族と共に第2の人生に踏み出したんだ」

(つづく)

ワシントン Washington Stecanela Cerqueira
1975年4月1日生まれ、ブラジリア出身。現役時代は大柄で決定力の高いクラシックなセンターフォワードとして知られ、ポンチ・プレッタ、フェネルバフチェ(トルコ)、アトレチコ・パラナエンセを経て2005年に東京ヴェルディに加入した。

翌2006年に浦和レッズへ移籍し、同年のJ1リーグと天皇杯を制し、2007年のAFCチャンピオンズリーグでも優勝。ブラジル代表としては9試合2得点を記録した。引退後は政治家となり、2025年にはFC相模のゼネラルマネージャーに就任している。

編集部おすすめ