【連載】Jリーグ語り草(5)
巻誠一郎の2008年
「フクアリの奇跡、その舞台裏」前編

 長友佑都FC東京)のゴールが決まった時、ジェフユナイテッド千葉の残留を願ってフクダ電子アリーナ(通称・フクアリ)に駆けつけたファンの多くは、「J2降格」を覚悟しただろう。選手たちのなかにも、あきらめた者がいたはずだ。

 しかし、それから数十分後、フクアリは歓喜に包まれる。わずか11分間で4つのゴールを奪った千葉は死地から生還し、Jリーグ史上に残る奇跡の残留劇を演じてみせた。

 2008年12月6日、J1最終節──。あの時、何を思い、何が起きたのか。ジェフ千葉のエースとしてピッチに立ち続けた巻誠一郎が、「フクアリの奇跡」の舞台裏を明かす。

   ※   ※   ※   ※   ※

【Jリーグ】ジェフ千葉「フクアリの奇跡」の舞台裏 巻誠一郎「...の画像はこちら >>
 あのゲームを語るうえで触れなければいけないのは、やはりイビチャ・オシム監督の存在です。

 オシムさんは僕がジェフに入った2003年に就任したので、僕にとってはプロでの初めての監督でしたし、本当に多くのことを教えてくれた恩師でもあります。

 自分の成長を1日単位で実感できる。そんな監督は、あとにも先にもオシムさんだけ。オシムさんの下でプレーできた時間は、本当にすばらしいものでした。

 チームとしても成し遂げられることが、どんどん増えていきました。自分たちがイメージしているサッカーを実現できましたし、たとえうまくいかなくても、監督の力で勝たせてもらうこともありました。

だから、当時の僕らには「負ける」という感覚はなかったですね。

 選手だけではなく、クラブへの影響力も大きかったですね。成長が異次元に進みすぎてしまった感覚もありました。僕個人で言えば、日本代表に入って、ワールドカップにも出ることができました。クラブとしても、ずっと残留争いをしていたようなチームが、いきなり優勝争いをして、2005年にはナビスコカップを獲ることもできました。

 当初はその成長スピードにやっている僕らも驚かされましたが、次第に慣れてしまったところがあったと思います。この監督の下でやっていけば、もっと成長できる──そんな確信もありました。

【こんなはずじゃなかった...】

 ところが、2006年の7月にオシムさんは日本代表の監督に就任し、代わって息子のアマルさんがジェフの監督を務めることになりました。その年もナビスコカップでは優勝できましたが、リーグ戦では11位に終わってしまいました。

 その翌年は、さらに苦しい状況に陥りました。オシムさんがいなくなったことの影響はもちろん大きかったですが、当時キャプテンだった阿部(勇樹)が抜けたり、精神的支柱だった坂本(將貴)さんが抜けたことで、チームとしてうまくいかない時間が増えていったように思います。

 アマルさんのやろうとしていたサッカーは、オシムさんと大きな違いはありませんでした。ただ、トレーニングも含めて、そこにたどり着くまでのアプローチの仕方が全然違ったんですね。

 オシムさんは細かくトレーニングを設定したり、選手を管理するタイプの監督で、自主練習をやったら怒られるくらいでした。日々のトレーニングのなかで100パーセントの力を出すことを求められましたし、一つひとつのプレーに対しての要求が高かったんです。

 逆にアマルさんは、わりと自由を与えてくれる監督でした。でも、その自由を僕たちはうまく消化できなかった。言い換えれば、自由にプレーできるほどのレベルには達してなかったんだと思います。

 たとえば、もう少し早めに出せばパスがつながるところを、ワンタッチ多くてつながらなかったり。勝負すべきところで、パスを出してしまったり。それを正してくれる人がいなかった。そういうところで戸惑いが生じたり、少しずつボタンのかけ違いが起こっていったのかなと思います。

 チーム内の雰囲気は、表面上は悪くなかったと思います。ものを発信する人が少なかったので、大きな歪みは生まれなかったんですけど、僕自身も含め、心のなかではみんな不満を抱えていたと思います。こんなはずじゃなかったという思いを抱いているのは、少なからず感じていましたね。

【代表選手がこぞっていなくなった】

 結局、2007年は13位と低迷し、3連覇を狙ったナビスコカップではグループリーグで敗退しました。その年かぎりでアマルさんが辞められて、翌年にヨジップ・クゼ監督が就任したんですが、今度は主力の大量移籍という事態に見舞われてしまいました。

 もしかしたら、移籍した選手たちには、不満があったのかもしれません。オシムさんの指導を受け、その成長スピードに慣れてしまった分、クラブの現状に物足りなさを感じてしまった選手が多かったという印象です。

 納得いかなければ、チームを変えるのはサッカー選手として当然のことですし、限られたサッカー人生のなかでほかのチームでチャレンジしたい、という思いが生まれることも特別なことではありません。ただ、その数があまりに多すぎた。代表選手がこぞっていなくなりましたから。

 個人的には、そうは言ってもみんな残るんだろうな、と思っていました。それがひとり抜けて、ふたり抜けて、どんどん選手が抜けていくなかで、このクラブはどうなってしまうんだろう......という危機感を覚えました。

 当時、僕も他クラブからのオファーはいただきましたが、残る決断を下しました。

 その理由はいくつかありますが、僕はうまいタイプじゃないので、ほかのチームに行ったら活躍できないというイメージがあったんです。あとはやっぱり、このクラブが好きでしたし、なんとかしたいという想いのほうが勝ったということですね。

 ただ、僕ひとりではどうすることもできない。

経験のある選手が抜けすぎて、精神的な支柱のような存在がいなくなったんです。

 だから、前年に新潟に移籍した坂本さんに連絡して、「帰ってきてほしい」と伝えました。相当説得しましたし、クラブにも坂本さんの必要性を訴えました。結果的に戻ってきてくれたのは、本当にありがたかったです。

 新たに就任したクゼ監督も東欧出身なので、オシムさんの流れを継承したいというクラブの思いはあったと思います。ただ、クゼさんもアプローチの仕方はアマルさんに似ていました。選手を非常にリスペクトしてくれて、決断をさせてくれるような監督だったんです。

【スタメンから外れることも】

 ただ、当時のチームは主力が抜けたこともあって、新しい選手だったり、若い選手が多かった。僕らとしてはよりどころがほしかったのですが、それがなかったので苦しみましたね。開幕11試合勝利なしという状況に陥り、クゼさんは解任されました。

 当然、危機感はありました。まだ、シーズンの前半でしたけど、Jリーグの歴史を振り返っても、開幕から11試合勝てないチームはほとんどありませんでしたから。

なんとかしなければいけないという思いはありましたけど、ここまでの状況に陥ってしまうと、選手だけの力で何かを変えることは難しかったですね。

 クゼ監督の後任としてやって来たのは、アレックス・ミラー監督です。リバプールのコーチを務めていた実績のある監督でしたが、アプローチはクゼさんとは対照的でしたね。

 本当に細かく選手を管理する監督でした。おそらく僕のキャリアのなかでは、一番細かい監督だったと思います。プレー選択もそうですし、ゲームプランもそう。相手の対策も本当に細かかった。試合前のホワイトボードには、本当に細かい文字がびっしりと書かれているんです。何時間かけて書いたんだろうなって、驚くくらいでしたよ。

 そういう指導の下で、自分たちのやるべきことがすごく明確になったんです。役割が細分化されましたし、適材適所に選手を当てはめるのも、ミラー監督は上手でした。

 対戦相手によってメンバーを変えるのも、珍しくはなかったです。

僕は当時、代表選手でしたけど、スタメンから外れることも珍しくはありませんでした。

(文中敬称略/つづく)

◆巻誠一郎・中編>>僕に力を与えてくれた「オシムさんの言葉」


【profile】
巻誠一郎(まき・せいいちろう)
1980年8月7日生まれ、熊本県下益城郡小川町(現・宇城市)出身。大津高→駒澤大を経て2003年にジェフユナイテッド市原(現・千葉)に入団し、イビチャ・オシム監督のもとで急成長を遂げる。2005年に日本代表デビューを果たし、2006年ドイツワールドカップも出場。2010年にジェフ退団後はアムカル・ペルミ(ロシア)→深圳紅鑽(中国)で海外クラブを経験したのち東京ヴェルディに加入する。2014年から地元・ロアッソ熊本の一員としてプレーして2018年に現役引退。国際Aマッチ38試合8得点。ポジション=FW。身長184cm。

編集部おすすめ