【連載】Jリーグ語り草(5)
巻誠一郎の2008年
「フクアリの奇跡、その舞台裏」中編
◆巻誠一郎・前編>>フクアリの奇跡の舞台裏「みんな不満を抱えていた」
開幕11戦未勝利と大きく出遅れたジェフユナイテッド千葉は、2008年5月7日にヨジップ・クゼ監督を解任。新たにアレックス・ミラー監督を招聘する。
名門リバプールのコーチを務めていた指揮官の下で5連勝を達成するなど、一時は復調を見せる。だが、序盤戦の出遅れが大きく響き、最終節を前に降格の危機に瀕した。
「あの時、僕らは一度死んでいた」
そう振り返る巻誠一郎は、記憶にないほど追い詰められた1週間を過ごし、FC東京との最終節に臨んだ。
※ ※ ※ ※ ※
ミラー監督のサッカーのスタイルとしては、失点をしないことが最優先でした。人数をかけてスペースを消して、奪ったら長いボールでシンプルに攻める。オールドスタイルではありましたけど、残留のためには最も効果的なサッカーだったと思います。長いボールを身体を張って収めるのが、僕の役割でした。僕のところで起点を作れないと成り立たないような戦い方だったので、大変ではありましたよ。
ただ逆に、僕としては役割が整理されたので、やりやすかったんですよね。それまでは守備もしなければいけないし、中盤に戻ってつなぐプレーもしなくちゃいけない。FWとして自分がやらなければいけないプレーに集中できなかった部分もありました。
僕はオシムさんの下でハードワークが評価されていましたけど、学生時代は高さを生かしたポストプレーだったり、前線で泥臭く起点を作るというのが本質のプレースタイルでした。
もちろん、前線で身体を張り続けるのはきつかったですし、アバウトなボールをなんとかしろよと求められても、難しい状況は多々ありました。ただ、当時は代表選手でもありましたし、チームを支えていかなくてはいけない立場だったので、すべてを受け止める覚悟でした。
チームのために一生懸命プレーするのが僕のスタイルですから、きつかったし、苦しかったですけどやりがいを感じていました。自分の強みを出せるような状況にあったのかなと思います。
【一度は降格圏から抜け出すも...】
ミラー監督が来てからは徐々に結果を出すことができましたし、夏場以降には5連勝も達成することができました。結果を重視するミラー監督のやり方が奏功したと思います。一方で、シーズン途中に加入したベテラン選手の存在も大きかったですね。戸田(和幸)さんや早川(知伸)さん、あとは深井(正樹)ですね。
深井の獲得は、実は僕がクラブにお願いしたんですよ。ミラー監督のサッカーに合うんじゃないかなと思って。大学時代に「アバウトなボールをふたりでなんとかする」というのはやってきたので、同じようなことができるんじゃないかなと考えたんです。
5連勝を達成して、好転した感覚はありましたし、一度は降格圏から抜け出すこともできました。
やっぱりスタイルを確立させれば、相手に分析されて、対策されてしまいますからね。僕のところで起点を作らせなければいいわけですし、ブロックを敷いても、ちょっと引き込まれて、ショートカウンターでやられることも多くなりました。
得点もなかなか取れなくなりましたね。このスタイルは引かれてしまうと、なかなか崩すことができない。攻めてくるようなチームには通用しましたけど、守備から入ってくるチームには難しくなる。そういうスタイルではありました。
なかなか結果を出せず、再び降格圏に転落し、17位で迎えた最終節の前の清水エスパルス戦に負けたらほぼ降格が決定する、という状況にまで追い込まれました。
当時、僕らと残留を争っていたのは、ジュビロ磐田と東京ヴェルディでした。コンサドーレ札幌はすでに降格が決まっていたので、3チームのうち1チームが降格、もう1チームは入れ替え戦に回ることになります。
エスパルス戦で僕らが負けて、ジュビロとヴェルディが勝てば、その時点で降格が決まる状況でした。得失点差を考えれば、彼らが引き分けても事実上の降格が決まるところでした。
【シナリオはすでに始まっていた】
しかも僕らの試合は、ほかの2チームの試合よりも1時間早く始まったんですね。とにかく勝つしかない状況でしたが、僕の2ゴールも勝利には結びつかず、2-3で負けてしまい、その時点で降格を覚悟しました。ところが1時間後にヴェルディが負けて、引き分け目前だったジュビロも終了間際に失点して負けたんです。
僕らはあの時、一度死んだんですよ。でも、首の皮1枚つながった。だから「フクアリの奇跡」のシナリオは、すでにこの時から始まっていたんだと思います。
最終節までの1週間をどのように過ごしたかは、まるで覚えていないんです。あのシーズンのことはいろんなことを鮮明に覚えているんですけど、最後の1週間だけは全然覚えてないんですよね。ゾーンに入っていたのか、プレッシャーに押しつぶされそうになっていたのかはわからないですけど、どんなことを考えていたのか、今でも思い出せないです。
ただ、追い込まれたシーズン終盤は、家でもずっと暗い顔をしていたので、妻にはよく怒られました。「家庭にまで持ち込まないで」って。家族には本当に迷惑をかけたなと思いますが、プレッシャーを相当感じていたんですよね。
当日の朝のことは、鮮明に覚えています。
スタジアムに着いて、ピッチを見た時に、もう「これだ」と思ったんですよね。勝てるというか、やれる感覚がイメージできたんです。それくらい感覚が研ぎ澄まされていたんだと思います。
ただ、やれるという自信があった一方で、当然、プレッシャーもありました。試合が始まると、チーム全体に硬さがあるなとも感じました。
特に前半は、想像以上にみんなが硬かった。恐る恐るプレーしているような感じで、そのなかでセットプレーから先制点を奪われてしまい、0-1で試合を折り返すことになったんです。
【オシムさんに怒られた思い出】
ハーフタイムでは、いろんな選手に檄(げき)を飛ばしたのを覚えています。ミラー監督になって以降、シンプルに僕に預けてくれるプレーが多かったのに、この試合では変につなごうという意識が感じられたんですよね。だから僕は「信頼してボールを寄こせ。
後半開始早々、長友(佑都)選手に追加点を奪われた時、誰もが絶望にかられたと思います。なかには、あきらめた選手もいたかもしれない。でも、僕は違ったんですよね。逆に吹っきれたというか、もうやるしかないという感覚になったんです。
試合前のいいイメージも、後ろ盾になったかもしれません。前半からいい感覚があったので、だからこそ僕にボールを入れてほしいという想いが強かったんです。
スタジアムの雰囲気もすごかったですね。2点ビハインドになっても、サポーターの声量が落ちなかったんですよ。あの雰囲気のなかで、絶対にあきらめてはダメだと思ったことを、今でも覚えています。
もうひとつ、僕に力を与えてくれたのは、オシムさんの言葉です。
一度、2-0から逆転された試合があったんですが、その時にオシムさんから「2-0が一番危ないんだ」って、めちゃくちゃ怒られたんです。
(文中敬称略/つづく)
◆巻誠一郎・後編>>「オシムさんの面影を引きずり続けた17年間」
【profile】
巻誠一郎(まき・せいいちろう)
1980年8月7日生まれ、熊本県下益城郡小川町(現・宇城市)出身。大津高→駒澤大を経て2003年にジェフユナイテッド市原(現・千葉)に入団し、イビチャ・オシム監督のもとで急成長を遂げる。2005年に日本代表デビューを果たし、2006年ドイツワールドカップも出場。2010年にジェフ退団後はアムカル・ペルミ(ロシア)→深圳紅鑽(中国)で海外クラブを経験したのち東京ヴェルディに加入する。2014年から地元・ロアッソ熊本の一員としてプレーして2018年に現役引退。国際Aマッチ38試合8得点。ポジション=FW。身長184cm。

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