連載第95回 
サッカー観戦7700試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」

 現場観戦7700試合を達成したベテランサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。

 サッカー日本代表のW杯グループリーグ3戦目の相手がスウェーデンに決まりました。

両国が最初に対戦したのは1936年のベルリン五輪。そこから90年にも及ぶ歴史を紹介します。

サッカー日本代表がワールドカップで対戦するスウェーデン「ベル...の画像はこちら >>

【戦後欧州から初めて来日したのはスウェーデンのチーム】

 日本代表がウェンブリーでイングランドと戦っていたのと同時刻に開催されたW杯欧州プレーオフ・パスBの決勝で、スウェーデンがポーランドを破って本大会出場を決め、6月25日のグループリーグ第3戦で日本との対戦が決まった。

 スウェーデンとはW杯で初めての対戦となる。親善試合を含めても日韓W杯直前の2002年5月以来の対戦というから久しぶりのことだ。

 ただ、日本サッカー界が第2次世界大戦後にスウェーデンに大変お世話になったことは記憶しておく必要がある。

 1945年に戦争に敗れた日本は米軍をはじめとする連合国軍の占領下に置かれ、独立国としての地位を失った。講和条約が締結されて独立を回復したのは1952年4月のことである。

 この間、IOC(国際五輪委員会)やFIFA(国際サッカー連盟)からも資格停止処分を受け、日本は1948年のロンドン五輪にも出場できなかった(FIFA復帰は1950年9月)。戦後初めて国際大会に出場したのは1951年にインドで開かれた第1回アジア大会で、サッカーは3位に入っている。

 そんななかで戦後初めて欧州から日本にやって来たサッカーチームが、スウェーデン南部の小都市のクラブ、ヘルシンボリだった。1951年11月のことだ。ヘルシンボリは6戦6勝。

日本代表との試合も3対0、5対0というスコアだった(明治神宮外苑競技場での最終戦には明仁皇太子=現上皇も来場された)。

 1953年には首都ストックホルムの強豪、ユールゴルデンが来日。日本代表との最終戦では9対1という大差をつけ、力の差を見せつけている。

 ちなみに、当時のスウェーデンでは冬の厳冬期にはサッカーができなかったので、選手たちはアイスホッケーを行なっていた。そこで、来日したユールゴルデンの選手たちは、アイスホッケーの日本代表とも練習試合をして勝利している。

 スウェーデンとの交流はその後も続き、1962年にはスウェーデン選抜、1965年にはAIK、1970年にはイェーテボリとユールゴルデン、1975年にはスウェーデン選抜がそれぞれ来日している。いずれも、冬のシーズンオフを利用しての来日だった(スウェーデンは春秋制。1950年代には秋春制の時代もあったが冬場は長いウィンターブレークがあった)。

サッカー日本代表がワールドカップで対戦するスウェーデン「ベルリンの奇跡」から90年の歴史がある
1970年にユールゴルデンが来日した時の入場券(画像は後藤氏提供)
 僕自身の思い出としても、1960年代後半にサッカー観戦を始めてすぐのことだっただけに、イェーテボリやユールゴルデンとの試合は印象に残っている。

【世界トップクラスだったスウェーデン】

 当時、スウェーデンは欧州の強豪国のひとつだった。

 スウェーデンはW杯には1934年の第2回イタリア大会から出場。1938年のフランス大会ではベスト4に入っており、第2次世界大戦後の1950年ブラジル大会でも上位4チームによる決勝リーグに進出。1958年の自国開催の大会では決勝まで勝ち進み、17歳のペレを擁するブラジルに敗れて準優勝となった。

 第2次大戦後、欧州大陸のサッカー大国の多くが戦争の影響で弱体化したのに対して、スカンジナビア半島にあるスウェーデンは中立国として戦火を免れたので戦前の実力を維持していたのだ。

 1950年代前半、イタリアのミランで活躍したグンナー・グレン、グンナー・ノルダール、ニルス・リードホルムの3人のスウェーデン選手は「グレノリ・トリオ」として一世を風靡した。

 当時、日本のサッカー界がそんな強豪国と交流できたのは、1936年のベルリン五輪での対戦がきっかけだった。

 日本のサッカー界は1917年の極東選手権大会で初めて国際試合を戦い、日本代表として出場した当時の日本最強チーム、東京高等師範学校(現・筑波大学)は中国に0対5、フィリピンに2対15と惨敗を喫した。

 1921年には大日本蹴球協会が発足したが、当時の目標は「極東選手権での勝利」だった。

 1920年代のうちは国内予選を実施して優勝チームに補強選手を加えて出場していたが、1930年の東京大会では初めて全日本選抜チームを結成。フィリピンに勝利し、中国と引き分けて同率優勝を成し遂げた。

 アジアで結果を出した日本は世界に目を向け、1932年のロサンゼルス五輪出場を目指したが、同大会ではサッカーは実施されなかったので、次の目標となったのがベルリン五輪だった。

 当時は1回戦からノックアウト式トーナメントだった五輪大会で、日本は初戦でスウェーデンと対戦することとなった。

 当時の五輪はアマチュアだけの大会だったが、サッカー界で正式にプロ制度を導入していたのはまだ英国の4協会とオーストリアだけで、他国は実質プロでも形式的にはアマチュアだった。そこで、各国は五輪には若手主体のフル代表を出場させていた。スウェーデンもそうだった。

 前述したように、当時のスウェーデンは1934年のW杯でベスト8、1938年大会ではベスト4という世界的強豪だった。そのスウェーデンに、早稲田大学を主体とする全日本選抜チームが挑戦することとなった。

【90年前の「ベルリンの奇跡」】

 1936年8月4日。舞台はベルリン市中心部にあった「ヘルタ・プラッツ」。巨大なゴール裏スタンドで有名なヘルタ・ベルリンの本拠地だった。

 前半は完全なスウェーデンペースでエリク・ペルソンが2点を決めた。誰もが「スウェーデンの楽勝」と思った。

 ところが、後半は風下に回ったにも関わらず日本が反撃に移る。川本泰三と右近徳太郎が決めて62分までに追いつくと、その後のスウェーデンの猛攻をしのぐ。そして、85分に川本からのパスを受けた松永行がGKスベン・ベルクイストと1対1となり、松永のシュートはミスキック気味だったが、そのままベルクイストの股間を抜けて決まり、日本が3対2と逆転勝利を収めた。

 当時、日本ではサッカーは人気競技ではなく、水泳や陸上で日本人選手がいくつもの金メダルを獲得したこともあって、スウェーデン戦の勝利は大きな話題とならなかった。だが、欧州では日本の勝利は「ベルリンの奇跡」として大きく報道された。

 そして、当事者であるスウェーデンでは当時の模様は長く語り伝えられることになる。

 1951年に来日したヘルシンボリに日本は6戦全敗。スウェーデンと違って戦争で壊滅的被害を受けた日本のサッカーは完全に弱体化していたのだ。結局、ヘルシンボリは6試合合計で36ゴールを決めたが、これは「"36"年の雪辱だ」とも言われた。

 2006年にドイツでW杯が開かれた時だ。僕は列車のコンパートメントでスウェーデンのサポーターと一緒になった(この大会、スウェーデンはラウンド16に進出し、開催国ドイツに敗れている)。いろいろ話をしていると、そのサポーターが「そう言えば、スウェーデンは昔、日本に大敗したことがある」と話し始めた。

「日本人選手はとにかくよく走ったそうだ......」

 もちろん、1936年のベルリン五輪での試合のことだ。

 そのサポーターは30歳くらいだったはずだから、おそらく父親か祖父から話を聞いていたのだろう。スウェーデンでは、あのベルリンでの逆転負けは長く語り継がれていたのである。

 その「ベルリンの奇跡」からちょうど90年。両国の公式大会での対戦はそれ以来となる。

日本がスウェーデンに勝っても、それを「奇跡」と呼ぶ人はもう誰もいないはずである。

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