アカデミー賞にノミネートされたが…
2017年9月、伊藤氏は「2015年4月に元TBS局員の山口敬之氏から性被害を受けた」として、民事訴訟を起こす。2022年7月に最高裁が山口氏の上告を退けたことにより「同意のない性行為があった」と認定した東京高裁の判決が確定。山口氏には332万円の賠償が命じられた。なお、山口氏は準強姦罪(現在は不同意性交等罪)の容疑でも書類送検されていたが、2016年7月に「嫌疑不十分」として不起訴処分となり、2017年9月に不起訴処分が確定している。
『ブラック・ボックス・ダイアリーズ』(Black Box Diaries)は上記の性被害事件について、伊藤氏自身が調査する姿を記録・監督したドキュメンタリー映画。
先月の23日(現地時間)、米アカデミー賞を主催する映画芸術科学アカデミーは第97回アカデミー賞のノミネート作品を発表。『ブラック・ボックス・ダイアリーズ』は「長編ドキュメンタリー映画賞」にノミネートされた。
配給会社「スターサンズ」の公式サイトによると、同作は今年1月にサンダンス映画祭で初上映されて以来、50以上の映画祭で上映され、18の賞を受賞。さらに、世界30以上の国と地域での配給が決定しているという。一方で、日本での公開は予定されていない。
そして本作の背景にあるのが、伊藤氏の元代理人弁護士らによる、作中で使用されている映像や音声が民事裁判で提出された証拠の「目的外使用」であるとの指摘だ。
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「元代理人弁護士ら」と「伊藤氏ら」、それぞれの主張
昨年10月、伊藤氏が山口氏に損害賠償を請求した民事訴訟を担当していた西廣陽子弁護士を含む3名の弁護士が、『ブラック・ボックス・ダイアリーズ』には「法的・倫理的問題がある」と訴える会見を都内で開いた。会見で西廣弁護士らは、同作について以下の問題点があると指摘。
1:「(山口氏に損害賠償を請求した)裁判以外の場では一切使用しない」と誓約したうえでホテルから提供された防犯カメラ映像が使用されており、証拠の提供者との約束に違反した「目的外使用」が行われている。
2:伊藤氏に捜査情報を漏らした警察官らとのやり取りの音声も作中に使われており、「取材源の秘匿」が守られていない。
これに対し、一部報道によると、伊藤氏の現在の代理人をつとめる弁護士らは、「1」の点については「プライバシーに配慮するため映像には2回のCG加工を施してできる限り元の映像と違うものにした」「ホテルから承諾は得られていないものの交渉は尽くした」などと説明。また、「2」の点については「音声には加工を施している」と反論している。
本件については、2月20日午前に、西廣弁護士らが東京・千代田区の日本外国特派員協会で記者会見を行う予定。伊藤氏本人も、同日の午後に同協会で会見を予定している。
証拠の使用は弁護士の「職位」や「信用」に関わる
西廣弁護士が危惧しているのは、訴訟のために提出された証拠が目的外に使用されることで、今後、証拠の少ない性被害事件に関する訴訟で防犯カメラ映像や証言を提供する協力者がいなくなるというリスクだ。そもそも、「証拠の目的外使用」にはどのような問題があるのか。
第三者から証拠を取得する際、相手に法的な義務が発生していない限り、弁護士であっても「証拠を提出せよ」との命令はできず、「証拠を裁判で使わせてください」とお願いするしかない。つまり、法律上は、証拠の取得に関して弁護士は一般人と同じ立場にある。
それでも、弁護士は、一般人と比べて証拠や情報の開示を受けやすい。その理由について、性加害事件に詳しい杉山大介弁護士は「弁護士という職位への信用から『勝手な使い方をしないだろう』『ちゃんと約束を守ってくれるだろう』と期待してもらえているためです」と語る。
「弁護士には『職務上請求』や『23条照会』など特有の調査手段がありますが、いずれも信用だけを頼りにして成り立っているところが大きいです。
そのため、『裁判以外の目的では使用しない』などと約束をしたのなら、その通りに使い、またそれ以外の使い方がされないように監督する責務が、弁護士にはあります」(杉山弁護士)
たとえ照会制度を通じて適法な形で取得した情報であっても、依頼者にどこまで開示するかは、弁護士の裁量に任されている。
そして、西廣弁護士の主張が事実なら、伊藤氏の行為は「弁護士としての職位に基づく制度に対する配慮や理解を欠いたものである」と杉山弁護士は指摘する。
なお、前述したように、準強姦罪の容疑に関して山口氏は不起訴処分になっている。このことについて杉山弁護士は「捜査機関が通常の捜査をしないという異常事態」「この状況で推定無罪を語るのは犯罪に加担するも同然だ」という姿勢でいたという。
「それでも、伊藤氏による証拠の目的外使用については、厳しく批判せざるを得ません。
民事裁判において、性被害を立証するというのは生半可なことではありません。当時の代理人弁護士らは、伊藤氏の名誉を回復して、無念を晴らすために仕事をしたはずです。
西廣弁護士の主張が事実であれば、伊藤氏の行為はひどい裏切りだと言えます」(杉山弁護士)
「公益性」があれば許される、という問題ではない
伊藤氏の現・代理人弁護士は、伊藤氏が性被害を受けたホテルの情報はすでに公に広く知られていること、また捜査情報を提供した警察官の情報は警察内部ではほぼ特定されており、また警察官は私人ではないことを指摘し、本件については「映画がもたらす公益がさまざまな事情よりも上回る」と反論したという。杉山弁護士は「公益性は、最終的に法的責任を負うかどうかという場面では弁明の理屈になる」としつつも「まず、『勝手に使用してはいけない』というのが大原則です」と語る。
「ほぼ有り得ないでしょうが、仮に西廣弁護士らが伊藤氏を訴えた場合には、『公益性』は裁判所が違法性の有無を判断するうえで、何らかの意味を持つ要素となるかもしれません。
具体的には、証拠を公開する必要性とそのために行ったCG加工などの軽減措置の程度、また公開によって生じる弊害との比較衡量といった観点から、適法か違法かを議論することは可能でしょう。
しかし、本件は、そういう次元の話ではありません」(杉山弁護士)
法律論では、ある行為が「違法」であるか否かと、その行為が道徳的に不当で間違っているかどうかは、あくまで切り離して扱われる。
だからこそ、何らかの不当な行為によって被害を受けても、その行為が違法ではないために法律上の救済を受けられない人が多数いる。
そして、性加害事件においても、証拠の使用についても、「同意」の有無は重大な要素だ。
杉山弁護士は「どんな行為も適法だったらセーフで、何をしても批判されず許される、という社会が良い社会だと思いますか?」と問いかける。
「『公益性』という対抗価値を出されたところで、今回の件について、私には何かプラスの評価をすることはできません。
繰り返しになりますが、(西廣弁護士の主張が事実であれば)伊藤氏の行為は、批判されて当然です」(杉山弁護士)