鳴らなかった防災無線…“命が奪われた理由”を伝承する
2011年3月11日、大友さんは仕事のため宮城県名取市閖上(ゆりあげ)地区にある実家に雅人くんを預けていた。地震の直後は連絡が取れていたが、その後、大友さんの父(当時64)と母(同61)、祖母(同92)とともに津波に流された。生きていれば中学生になっていた雅人くん
名取市では、地震によって防災行政無線が故障。閖上地区では住民の12%強に上る700人が津波の犠牲になった。大友さんら一部の遺族は市に災害対応の調査を求め、有識者による検証委員会を設置させた。さらに2014年9月には、市に損害賠償を求めて仙台地裁に提訴した。
仙台地裁は「(防災無線の)故障を予測することはできなかった」「無線が聞こえたとしても津波から逃げ切れたとはいえない」などとして訴えを棄却。一方、控訴審の仙台高裁は和解を勧告した。2020年3月、市が市議会で和解案を受け入れる議案を提出し、全会一致で可決した。
和解文には、「被控訴人(市)は、東日本大震災に際し、防災行政無線が故障して作動せず、これによって住民に避難指示等の情報を伝達できなかったことにつき、東日本大震災に伴う津波の犠牲者及びその遺族に対し、深く遺憾の意を表する」との文言が入った。
「裁判をすると決めたのは元主人で、私は反対でした。裁判は長くかかるし、お金も時間もかかる。
しかしSNSには「逃げないのが悪い」と遺族や原告を責める投稿が書き込まれた。
「今だったらSNSは絶対に見ませんが、当時は見てしまってすごく気にしていました。裁判になってからは匿名で取材に対応していましたが、それまでの取材は実名で受けていたので一部の人たちから私だと特定するコメントもあって…。
書き込んだ人たちには『裁判はお金目当て』という前提があると思うんですけど、和解になったときも(和解金が発生しなかったため)『和解だったら納得できる』とも書かれました」
和解の話が裁判所からあった時のことについて、「ここで和解してしまったら今まではなんだったのかと悩みました。でも、和解しなければ何の望みも通らないというのを聞いたんです」と振り返る。
そこで大友さんら原告は「市震災復興伝承館」で、必ず『無線は鳴っていなかった』ということを伝えることを条件とした。
「(閖上で被害者が多かったことに)いろんな原因はあると思うんですが、防災無線が鳴らなかったことに名取市が気づかなかったことは大きな原因の一つだと思います。それを伝承していかなかったら意味がない」
和解内容に市の責任や謝罪は盛り込まれなかったが、2020年に完成した「市震災復興伝承館」には防災体制の不備を指摘した検証委の報告書が展示されている。
問い続けた「7か月の人生」の意味
大友さんは一度だけ、閖上地区で「震災を伝える」語り部としての活動も行い、講演に呼ばれることもある。そうしたアウトプットを通じて自身の感情が変わってきたと話す。「『悲しみだけが愛』と思っていたときもありました。『悲しんでいないことを愛していない』と誤解していた。子どもが犠牲になったことで、私は幸せになったらいけないって、自分に許可を出せなかった。
雅人は生まれて7か月で行方不明になってしまった。雅人が生まれてきた意味はあるのかと考えたとき、自分にも生まれてきた意味が何かあるんだろうかって思いました。そして、私は雅人がいた7か月を絶対無駄にしちゃいけないんだって気づいたんです。
過去は変えられないけど、どんな過去があっても誰でも幸せになっていい。そのことを今度は周りにも伝えていきたい」
大友さんはその思いを伝えるため、食堂をオープンさせた。
お店は住宅街の一角にある一軒家。お客さんのほとんどはインスタグラムや地元紙の報道を見るなどして訪れる。料理はできる限り、無農薬・減農薬の野菜を仕入れ、化学調味料を使わず、電子レンジも使わない。日替わり定食(まさとくんちの夢が叶うごはん)やカレー(まさとくんちの元気がでるカレー)、うどん(まさとくんちの豚汁うどん)などを提供する。
「店を出すことが決まった時は、店名に『まさと』は出さず、『おうちごはんにこ』と考えていました。お客さんに笑顔になってほしいなと思ったんです。
でも、しっくりこない。開店が近づくにつれ『雅人と一緒に』と感じるようになって、その自分の気持ちを受け入れて店名に雅人の名前を入れることを決めました。『まさとくんち、行こう』とみんなが口にしてくれたらうれしいですね」
「3月11日生まれの人」をお祝いする誕生日会
今年の3月11日には、食堂で3月11日生まれの人のための誕生日会を開く。「震災から10年くらいたったころ、あるテレビで震災当日に生まれた子に取材をしていました。そういうのを取材する意味もわかんないですけど、自分も『悲しい』ってことばっかり発信してきた。3月11日生まれの人たちに私も『悲しまなきゃいけない日』と思わせちゃったかもしれないなと。そうじゃないんだってことを伝えたいと思って、今年は誕生日会をやることにしました。
あの日に子どもを亡くした私でも、3月11日に生まれた人の命を大事だと思ってるし、喜べない命はないんだよって…私が言うから、説得力があるかな」