
本件について、当初は「薬物使用のおそれがある」などの不確かな情報が報じられたが、薬物検査の結果、薬物は検出されず自宅からも見つからなかったことが判明。
こうした中、逮捕直後から被疑者を犯人であるかのように伝えるマスコミの「犯人視報道」には、以前から批判が集まっている。
2024年10月には、朝日新聞が元死刑囚の袴田巌(いわお)氏の無罪判決を受けて「朝日新聞の当時の報道、おわびします」という見出しの記事を掲載。同年6月にも、1994年の松本サリン事件から30年後であることを受けて、信濃毎日新聞が「犯人視報道への深い反省と教訓 社内学習会で若手に伝え続けています」とする記事を出した。
しかし、各紙の謝罪や反省もむなしく、今回の事件でも多くのメディアが「犯人視報道」を繰り返した。そもそも逮捕や勾留の段階では捜査機関も限られた情報しか持っておらず、事件の事実関係については不明な部分が多いという、基本的な前提すら十分に共有されていないのが現状だ。
本稿では、刑事事件の実務経験が豊富な杉山大介弁護士が、「勾留」という刑事手続や事件初期の捜査の実態、そして事件報道を見聞きする私たち一人ひとりが念頭に置くべき注意点について解説する。(本文:弁護士・杉山大介)
広末氏報道に弁護士が抱いた「違和感」
広末涼子氏が浜松西警察署から釈放された。16日時点の報道では「発言が落ち着いてきて自分の置かれている状況を自覚するようになり、被害者との示談も進んできたおかげである」かのようなニュースが流されている。
しかし、私には強烈な違和感がぬぐえない。
本稿のテーマは、今回、多くの人が耳にし、広末氏自身が体験することになった「勾留」という手続きについて。
「一連の流れ自体が、本来の刑事手続として適切だったのだろうか?」という疑問を提示しながら、報道が行われる段階における実態に触れつつ、事件報道への接し方などを検討してみよう。
事件報道クイズ
いきなりだが、まずは「事件の始まりで得られた断片的な情報から判断することの難しさ」を体験してもらうため、クイズを出させてもらう。以下の事例は、いずれも実際にある事件の端緒において、捜査機関が認識していた事実を記載したものである。このうち、最終的に「犯罪ではなかった」と評価されたのは何件か、当ててみてほしい。
<事件①>
容疑者Aは、住宅街の交差点において対向車と衝突。Aは幸い無傷だった一方、対向車の運転手は死亡した。〇〇県警はAを過失運転致死で逮捕した。
<事件②>
容疑者Bが飲酒の上で車を運転していたところ、人身事故が発生。あわてて自宅に戻ったところ、警察に「事故の当事者ではないか」と声をかけられた。
<事件③>
容疑者Cが職務質問を受けたところ、大麻を所持しているのが発覚し、〇〇県警に逮捕される。尿検査を行ったところ、大麻について陽性反応が出た。
なお、いずれのケースも交通や薬物に関するものであり、特定の被害者だけを問題にしていない犯罪類型だ。したがって「示談による不起訴」の余地はないと考えていただきたい。
クイズの正解は、本稿の後半に記載している。
「勾留」とはどんな手続きか
さて、逮捕と勾留の違いは「期間の長さ」にある。まず最初に逮捕があって、3日間の拘束が認められる。
そのうえで、証拠隠滅や逃亡の防止がまだまだ必要である場合には、原則10日間の勾留を裁判で決めることができる。
なお、「裁判」と言っても書類上で行われるものであり、法廷で何かをするわけではない。
刑事訴訟法60条に基づき、「証拠隠滅のおそれ」「逃亡のおそれ」、そして勾留によって失われる利益のバランスを考える「勾留の必要性」について裁判官がただ判断を行う、という手続に過ぎないのだ。
そして、この時点での手続の公平性は、残念ながら担保されていない。捕まっている側の反論の機会が十分に確保されていないからである。
逮捕されてから3日間、捜査側の資料が積み重なっていき、「その人が犯罪をしている疑いがあること」の証拠が多数できあがる。
一方、この時点で被疑者に弁護士が付いているかは不明だ。
いわゆる「国選弁護人」は、勾留された後にしか用意されていない。
本来なら、被疑者が証拠を隠したり破壊したりするおそれ、または逃亡するおそれがないのであれば、勾留は必要とされない。
だが、運よく知り合いが弁護士を派遣してくれた人や「当番弁護士」という制度を活用できた人などを除くと、一般の被疑者は、弁護士も付いていないのに一方的に取り調べを受けて、捜査機関が用意した資料だけに基づいて、勾留の是非を判断するための裁判にかけられる仕組みになっている。
結果として、家庭や仕事があって安定した社会生活を持っており、逃げも隠れもしない人であっても、被疑者がそのような人物であるという事実を示す証拠資料がそもそも裁判官の目の前にない、という事態が起こるのだ。
逮捕直後の情報は限定されている
情報が不足しているだけでなく、情報が誤っている場合や不正確な場合もあることから、勾留段階における被疑者の悲劇はさらに続く。日本の捜査機関の有罪率は99・9%超といわれる(法務省「令和6年版 犯罪白書」P.46より)。
しかし「99・9%」クオリティが担保されるのは、勾留期間を満了した後など、捜査を尽くして起訴する時点においてだ。
とくに広末氏の事件のように現行犯逮捕で始まった場合など、事前の聴取も行われていない事案では、逮捕の時間内で収集できる情報は限られている。
捜査機関が作る調書も、とりあえず勾留請求に必要な限度内で、いろいろと省略され、あるいは勝手に要約される。
そして、法律用語というものは、しばしば一般人の感覚とのずれが生じる。
法律用語そのままに質問を受けると「YES」と答え難い場面もあるところ、そういう素朴な疑問を発露(はつろ)してしまう人は、しばしば「言い訳している嘘つき」と扱われた調書を作られてしまうのだ。
逮捕された直後で、弁護士との相談もできていない人が、このような場面で適切に対応できるかはわからない。
それこそ、ただ自分の認識を語っているだけなのに、言い訳をしている嘘つき扱いをされたり、支離滅裂な言動を行っているかのように扱われる場合もある。
勾留時の供述調書は不確かなもの
私は、被疑者が逮捕された直後、運良くも勾留される前に家族の依頼で捕まっている人と会えた事件で、被疑者が思っていることを話すだけで「反省していない嘘つき」と扱われてしまいそうだった場面に、何度か遭遇したことがある。こういう場合には、私が接見室で供述調書を作ってしまい、検察官と同時に裁判官に提出できるようにすることもある。
とある事件では検察官の供述調書と私が作った供述調書とで逆のことが書いてあり、裁判官から「どちらが正しいのか」と質問を受けた経験もある。
私は「当人に聞けばわかる」と答えた。その後、裁判官が細かく確認し、私の調書の方が「当事者の言いたいことを正しく反映している」と確認されたのであった。
勾留を判断する段階での情報とは、これほどまでに不足していて、不安定であるということだ。
「広末氏の、逮捕直後の取り調べの様子」とされるものも、上記のような不確かな前提で語られていたことを、どれくらいの人が認識していただろうか。
勾留解除後、広末涼子氏の公式サイトには謝罪文が掲載された
報道は不安定な時期にもっとも加熱する
刑事手続に関与する立場からすると、逮捕直後の事実関係とは、このようにスカスカで不確実なものだ。しかし、この時期にこそ、報道はもっとも加熱する。
「捜査機関が発表した事実」が、まるで「事件そのものの事実」であるかのように、ニュースに流れる。「被疑者の言葉や態度」とやらが、まことしやかに語られる。
ただ、その被疑者の言っていることですら正確に聴取されておらず、間違った内容が「事実」として捜査機関に語られていたりするというのが、実態なのだ。
さて、冒頭で出したクイズの正解だが、正解は「3件とも犯罪ではなかった」という結論になっている。
クイズのなかにもし1件でも「これは流石に有罪だろう」と思った事件があったなら、読者には、事件報道に対する警戒感を持っていただきたい。
実はいずれの事案も、後に発覚した情報や、あるいは被疑者側だけが認識していた背景などが抜け落ちており、法的評価がひっくり返る要素が隠されていたのだ。
「報道の誤り」の有無すらも判断できない
「広末涼子氏の報道に誤りはなかったのか?」疑問を呈しておきながら恐縮だが、この真偽はつかないことがほぼ確定しており、そのこと自体が問題だ。
報道によると、広末氏は「示談見込み」で釈放されたということで、あるいは釈放当日にでも示談が成立しているのかもしれない。
そのため、事実関係に関する何らかの議論などは明らかにならないまま「示談による不起訴」という形で傷害事件は終わるだろう。
私が経験してきた冒頭のクイズ事案と異なり、示談をしての不起訴の場合、仮に前提として事件に関する事実・真偽を争っていたとしても、少なくとも検察庁は「罪ではなかった」との評価を示してくれない。
そのため「広末氏に傷害の犯罪がなかった」との評価は得られなくなった。
もし読者が「まさか傷害について無罪だったということはないだろう」と思われるのであれば、冒頭で出したクイズの意味はなくなってしまう。
「看護師を蹴った」とされる行為についてすら、犯罪にあたらない可能性を排除できるほどには、私たちは事実を知らされていない。
そして、「薬物の影響が認められなかった」ということは、そのような影響下での運転を問題にする「危険運転致傷」の疑いもなくなるのだろう。通常の過失運転致傷であれば、公開の裁判が行われることもないと想定できる。
報道に従うと、広末氏について「当初はまるでデタラメな主張を行っており、精神も不安定だったところ、昨今では自分の置かれている状況を理解して落ち着いてきている」かのように見える。
しかし、それは、そのように発表している静岡県警や捜査機関から見た評価なのだ。
「当初、広末氏にも何らかの反論したい主張があったところ、精神不安定のように語られ、あるいは薬物の疑いがあるかのようにまで語られて、報道機関によってどんどん自己の名誉が損なわれている様子を聞かされたためにショックを受けて、主張する気力を失った」というアナザーストーリーもあるかもしれないと、私は感じた。
少なくとも上記のような可能性が頭に浮かび、「もしそうだったら怖いな」とも思いながら、私は報道に接している。
「好奇心」を利用されないために持つべき視点
「考えすぎだ」なんて、思わないでいただきたい。少なくとも、逮捕直後に騒がれていた薬物使用の可能性について、証拠は見つからなかった。
それを、ただ「薬物検査をした」というだけで何も事実として固まっていない状態で報道がなされ、事実と離れた印象が世間に流布していたのは、つい数日前のことだ。
薬物を疑ったこと自体について、捜査機関を非難することはしない。何らかの可能性を考えて疑うのは、捜査機関の仕事である。
しかし、その仮説・可能性でしかない状態の情報を、あえて報道機関に伝えて世間の反応を喚起(かんき)したことは、報道を利用した不当な攻撃でしかなかったと言わざるを得ない。
逮捕から釈放までの間、私たちは一度とて、広末氏を主語とする話を聞いていない。どこまでいっても、「捜査機関」という、広末氏を追い込んでいる側を主語とする言葉しか得られていない。このことを前提にした、公平さを保つべきである。
そうでないと、私たちの好奇心や興味本位が、一人の人間の言葉を奪うのに利用されてしまうおそれがある。私たちは、この可能性に、自覚的であるべきだ。
袴田事件が起きた地である静岡において、今再び、捜査期間からの情報によって一部でも事実に反した印象が拡散されたこと、捜査機関による報道を利用した被疑者への圧力に報道が加担してしまったことを、恥ずかしく思う。
この結論は、仮に広末氏の行ったことが確かに犯罪であったとしても、変わりはない。
世間は、またこりずに、捜査機関主導の情報に踊って一人の人間を消費したのだ。