今年のNHK大河ドラマの舞台にもなっている江戸の町。その中で奉行所は、現代の司法機関である裁判所と警察・行政を兼ね備え、社会システムを支える要だった。

本連載記事では、そこで働き、また関わりのあった人々の日常を解説。ドラマでは語られることのないリアルな江戸の姿に迫る。
今回は「大岡越前」と並んで時代劇のヒーローとして知られる「遠山の金さん」こと遠山景元。何をした人だったかを解説しよう。(本文:小林明)

金さんの生い立ちは複雑

お白州(江戸時代の法廷)で悪人が「お縄になった(捕まった)理由がわからない。悪いことは何もしていません」としらを切る、そこでお奉行様が「この桜吹雪を見やがれ」と片肌脱いで入れ墨をあらわにすると、悪人は仰天してひれ伏す——時代劇『遠山の金さん』のクライマックスです。
面倒見がよく皆から慕われ、腕っ節も強い町人の正体が、実は入れ墨を彫った常識にとらわれない裁判官だったことを明かし、悪を裁くドラマです。
金さんは19世紀に実在した江戸町奉行で、名前を遠山左衛門尉景元(とおやま・さえもんのじょう・かげもと)といいました。左衛門尉とは、古くは源義経も就いていた武士の官職のひとつです。
景元は1840(天保(てんぽう)11)年から北町奉行、1845(弘化(こうか)2)年から南町奉行を歴任した人物として知られています。通称は「金四郎」、これが“金さん”の由来です。
誕生は1793(寛政5)年。父は景普(かげみち)という名でしたが遠山家の養子で、金さんが生まれました。

ところが遠山家に子ども、つまり実子が生まれたため、景普は遠山の実子を養子にし、金さんの存在をしばらく秘匿していたといいます。その後、実子が早世したため、結局は金さんが後継となるという複雑な家庭でした。江戸時代の武士は子が生まれないと他家から養子をとるのが普通だったため、こうしたケースも起きたのでしょう。
ともあれ、ややこしい環境に育ったことが、のちに金さんの伝説を形作るのにひと役買います。複雑な家庭ゆえに若い頃は放蕩(ほうとう)に走り、身体に入れ墨も彫ってしまった——と。
しかし、33歳まで金さんが何をしていたか、実際は何もわかっていません。ただ、父の景普が優秀で出世したことから景元も恩恵をあずかり、地位が高まっていったのではないでしょうか。

入れ墨の信ぴょう性を検証すると…

入れ墨に関しては文献に残っています。例えば1840年代半ばに刊行された『浮世の有様』には、「若い頃につき合っていた博打打ちの影響で彫った入れ墨が見苦しかった」。
佐久間長敬(さくま・おさひろ)による「入れ墨をしていた」(『江戸町奉行事績問答』)という証言もあります。佐久間は景元が南町奉行を務めていた最後の2年間だけ部下だった者で、身近な存在だけに信ぴょう性なくはありませんが、ただし『浮世の有様』とほぼ同じ内容なので、噂を耳にしたのみの可能性も捨てきれません。
また、幕末の軍艦奉行・木村芥舟(きむら・かいしゅう)の随筆『黄梁一夢』(こうりょういちむ)に、「左腕に花紋を黥する(げいする/入れ墨があった)」。
さらに明治に入って流布した景元の伝記『帰雲子伝』(きうんしでん)は、「芝居小屋で喧嘩騒ぎを起こした金四郎が腕まくりすると、女の生首の入れ墨があった」と記し、入れ墨は桜吹雪ではなく、女の生首だった——。

こうしてみると伝聞ばかり。入れ墨はどうも眉唾です。そもそも若い頃に放蕩の限りを尽くしていたという逸話さえ、真偽は怪しいのです。
放蕩説は景元が吉原の遊女の罪を裁く際、同席していた遊郭の“遣り手(やりて/遊女を管理監督していた年配の女性)”が昔の景元と顔なじみで、親しそうに声をかけたというエピソードが元になっています。
しかし、これは享保(きょうほう)年間(1716~1753)刊の随筆『はつか草』に、当時の町奉行・能勢頼一(のせ・よりかず)のエピソードとして載っているそうです。能勢の通称は「甚四郎」。何のことはない、甚四郎と金四郎が混同され、景元の逸話にすり替わっただけかもしれないのです。

娼婦たちへの情状酌量

一方、33歳で幕政の表舞台に登場してからの景元の躍進は目覚ましく、小普請・作事・勘定といった奉行職を歴任します。これらの役職は出世コースでした。
48歳で江戸北町奉行に就任すると、史実と考えてもいいだろうエピソードを残します。1841(天保12)年の「公事上聴(くじじょうちょう)」です。
これは将軍臨席のもとで模擬裁判を行い、その評価を受けるという一種の儀式でした。景元は養子縁組でもめている2組の夫婦の訴訟を見事に裁き、将軍から「(2組の)利害を巧みに調整した巧者」と、直々に“お褒めの詞”を賜ったといいます。
異例のことでした。
実は景元が実際に下した判例は、ほとんど残っていません。江戸幕府には『御仕置例類集(おしおきれいるいしゅう)』という裁判記録がありましたが、景元が北・南町奉行を務めていた時期のものは焼失しています。『公事上聴』は模擬とはいえ、景元が裁き将軍から絶賛された貴重な記録です。
また、北町奉行の職にいた初期の頃、時の老中・水野忠邦(みずの・ただくに)に提出した意見書が確認できます。
奉行所の重要な仕事のひとつに、私娼(ししょう)の取り締まりがありました。私娼は公認の遊郭・吉原以外の場所で売春する女性たちで、岡場所といわれる地区などにいました。
歴代の町奉行たちもたびたび摘発しており、景元も100人超の私娼を捕縛しました。大半は10代の貧しい少女で、刑は吉原に預けて3年ただ働きさせるというのが慣例でした。
景元はこれではふびんと考えたのでしょう。刑を1年短縮したいと水野へ申し出ます。そうなると実質2年ですが、丸2年という意味ではなく、2年以内であればいい——つまり、数日吉原で働くだけでも可という案を出したのです。

意見書には、こうあります。
「この者(私娼)たちは身を削って親兄弟に金を送っています。3年も無償で働かせては、家族がさらに困窮するでしょう。仁恵(にんけい/思いやりと恵み)をもって吟味してほしい」
水野はこの意見を採用し、吉原での働きを10日ほどに減免しました。
下層階級にあえぐ者たちの境遇には、情状酌量の余地あり——それが景元の考えでした。のちに“遠山の金さん”として親しまれる理由は、あったといえるでしょう。

大衆の楽しみを奪う政治に反発

景元はもともと水野に引き立てられて、町奉行になりました。しかし、水野が主導する「天保の改革」が町人たちに無理を強いるため、次第に反発します。
天保の改革の骨子はさまざまありました。経済政策をはじめ、農村から江戸へ流入した人々を強制的に帰郷させる「人返し」、江戸・大坂周辺の大名の領地を幕府の直轄地とする「上知令(あげちれい)」などが主ですが、庶民にとって厳しかったのは寄席の撤廃、歌舞伎小屋の所替(辺鄙な場所へ移転させる)、床見世(とこみせ/屋台などの露天商)の禁止など、娯楽を奪う規制でした。
遊興はぜいたくであると断じた奢侈(しゃし)禁止令です。
人情派の景元は、町人に奢侈を禁止しながら武士たちに適用されないこと、寄席と芝居の管理は芸人の失業を生むと反論しました。
結果、水野と対立し、また水野の側近の策謀もあって、北町奉行を罷免されます。
しかし天保の改革は頓挫して水野は失脚。のちに老中に返り咲いたものの、かつての辣腕はもうありませんでした。その間隙(かんげき)をぬうように1845(弘化2)年3月、南町奉行になります。
町奉行に戻った景元は寄席や床見世の復興にあたり、大衆の喝采を浴びたといいます。
景元は時の権力者たちが強引に定めた法令に「否」を突きつけ、定められた法律でも「それはおかしい」といえる人物だったのでしょう。大衆の味方として愛され、1855(安政2)年に没しました。
【参考図書】
  • 『名奉行の力量 江戸世相史話』藤田覚/講談社
  • 『遠山金四郎の時代』藤田覚/校倉書房
  • 『江戸の名奉行』丹野顯/文春文庫
  • 『月刊日本歴史 人物閑話』森銑三/吉川弘文館


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