
現在、2026年度を目途に「出産費用の保険適用化」を導入する方向で議論が進んでいる。
しかし、保険適用化が実施されると、産科医療機関の閉院・廃業が加速する可能性も指摘されている。
地方で暮らす人にとっては「いざ、出産をしよう」と思った時には近所に出産できる場所がない、という事態もあり得る。多くの国民が意識しないまま、静かに危機が迫っている。(松田 隆)
少子化に伴い淘汰されていく医療機関
2024年の出生数は72万988人(厚労省発表)と、統計を取り始めた1899年以来、最少を記録した。2016年に100万人を割ってから9年連続で過去最少を更新し続けているため、世間としては「過去最少」のフレーズにも慣れてしまったかもしれない。
しかし、振り返ってみると、10年前の2014年には100万3609人、20年前の2004年には110万721人の出生があった(厚労省「人口動態統計」)。それが現在では10年前の71・8%、20年前の65・5%にまで減少している。この数字は、改めて見ると衝撃的である。
経済的な側面から見ると、新生児関連の国内市場を出生数に比例させて考えた場合、10年前と比べておよそ3割、20年前と比べて約3分の1も市場が縮小したことになる。
ベビー用品などであれば海外への展開にも目を向けられるが、分娩(出産)を扱う産科医療機関は、原則として国内市場に限定されている。
後述するように、現在は「出産育児一時金」として一律50万円が支給されている。その支給総額を市場規模と見なした場合、10年前との比較で1400億円、20年前と比べれば1900億円も「分娩市場」に流入するマネーがカットされたことになる。
市場が縮小すれば、そこに依存する企業の淘汰が進む。
都市部に集中していく産婦人科
産婦人科施設(病院・診療所)の数をみると、2006年に5946施設あったものが、2023年には4859施設と、17年間で18%の減少。ただし出生数は2006年(109万2674人)から2023年(72万988人)の間に34%も減少したため、18%という数字は「よく踏みとどまった」と評価すべきなのかもしれない。
施設別にみると「一般病院の産婦人科」の減少が顕著であり、1003施設から550施設と半減に近い。また、分娩取扱診療所も1818施設から1090施設と、40%の減少となった(「日本産婦人科医会施設情報調査2023」)。
なお、「病院」とは「20人以上の患者を入院させるための施設を有するもの」(医療法1条の5第1項)、それに満たないものは「診療所」の区分になる(同2項)。
総じて、小規模の医療機関(診療所)と一般病院の産婦人科が減少した一方で、総合病院・地域中核病院などの大規模機関や、その機関内の産婦人科が増えていることがうかがわれる。
要するに小規模な医療機関が淘汰されて、大規模な医療機関への統合・集約化が進んでいるということ。この事態は、地方などで都市部から離れた場所に住む妊産婦にとっては、産婦人科施設へのアクセスが悪くなることを示している。
たとえば、妊婦が出生前ケアを受けるために、自宅から数十キロメートルも離れた町の大病院まで通わなければならない事態も生じかねない。
聞こえてくる地方の悲鳴
地方の実態の例として、静岡県を見てみよう。日本産婦人科医会(以下「日産婦」)の前田津紀夫副会長が作成した資料「地方県の産科診療所(一次施設)の現状について」によると、静岡県では産科有床診療所の数は年々減っていき、1996年に114施設あったものが2024年には31施設と、73%も減少した。
その結果、静岡市清水区(旧清水市=人口約22万人)には産科診療所は1つもないという状況になっていると、厚労省の検討会に出席した前田副会長は証言する。
かつては妊娠すれば近くの診療所で分娩できたものが、令和の時代はそうはいかなくなっている状況である。
地域の産科診療所は、2023年の全国の出生件数約72万7000件のうち45・2%の32万8000件を占める。
日本の「お産」の現場を支えてきたのは、地域の小さな診療所。
その産科診療所(医療法人)191施設を対象に経常利益率を調査したところ、赤字の法人の割合は、2022年度で41・9%、2023年度には42・4%へと拡大していた(日医総研ワーキングペーパー487「産科診療所の特別調査」)。
以下は、日医総研の調査の自由回答欄からの引用。地方の産科診療所の悲鳴が聞こえてくるかのようである。
「少子化が急激に進み、産科診療所には経営を継続すべきかと悩むほど大変なもので、実際、周辺の診療所は分娩をとめるところも増え」
「分娩数の減少が著しい中で、赤字が常態化しそうです。理事給与を減少させますが、不十分で、数年中には廃業する可能性が大です」
「経営状況は極めて厳しくなっており、私立の医療機関が経営可能な状況を守っていただきたいと思います。このままでは、自治体病院か公的援助を受けている医療機関以外は存続できないと思います」
産科診療所の4割が赤字(日医総研「産科診療所の特別調査」を基に著者作成)
産婦人科に追い討ちをかける「保険適用化」
青息吐息の地域の産科診療所に追い討ちをかけているのが、少子化対策のためとされる「出産費用の保険適用化」論。前述したように、日本では出産時に「出産育児一時金」として50万円が支給される。この制度では、出産にかかる費用をこの一時金で賄い、不足分があれば自己負担、余った分があれば育児費用に充てることができる。
保険給付のなかでも手当金や一時金を支給する制度は「現金給付」と呼ばれる。一方、通常の医療保険が適用される疾病などの場合には、医療サービスそのものを提供する「現物給付」が行われる。現物給付では、医療費の3割を本人が負担し、残りの7割は保険から医療機関に直接支払われる。
この出産費用の「現金支給」を止めて保険適用とする議論が起こり、2023年12月22日に岸田内閣で閣議決定された「こども未来戦略」に盛り込まれた。
言い出したのは財務省とされるが、今年2月の衆議院予算委員会第五分科会で、ある議員は「日本維新の会や一部の与党の議員の声によって始まったものではないか」としている。真実は不明だが、厚労省が発信源でないことだけは確かである。
こども未来戦略では「2026年度を目途に、出産費用(正常分娩)の保険適用の導入を含め、出産に関する支援等の更なる強化について検討を進める」と、自由診療だったとされてきた出産費用を保険診療に切り替え、疾病などと同様にその費用の大部分を保険で賄うプランが提案されている。
これに対して日産婦は猛反発している。厚生労働省が主催している「妊娠・出産・産後における妊産婦等の支援策等に関する検討会」では、保険適用の導入を進めたい健康保険組合連合会や日本労働組合総連合会(連合)の代表者らと日産婦の間で、激しい議論が交わされている最中である。
現在、分娩は自由診療であるため、費用は医療機関ごとに自由に設定できる。しかし、保険診療となった場合、全国一律の診療報酬が適用される。
日産婦が反対する最大の理由は、保険適用によって、安全な出産のためにこれまで提供してきた多くのサービスが診療報酬の対象外となる可能性が高いことにある。
とはいえ、産科医療機関としては、安全・安心な出産に不可欠なサービスを削減することはできない。結果として、ただでさえ厳しい経営がさらに悪化し、「分娩の取り扱いを止めざるを得ない、あるいは閉院を検討せざるを得ない状況に追い込まれる」というのが日産婦の主張である。
約7割の診療所が「分娩を止める」と回答
日産婦の調査では、保険適用化された場合に「分娩取り扱いを止める」または「制度内容により中止を考える」と回答した産科診療所は590施設中、401施設にのぼった(日産婦「地域における産科診療施設の事業継続見込みに関する調査」)。つまり、アンケートに答えた施設のうち実に68%が分娩を止める可能性がある。
「日本産婦人科医会施設情報調査2023」によると2023年の分娩取扱診療所は1090施設とされている。その68%が閉院すれば、産みたくても産む場所がない「出産難民」が生じるおそれがある。
こうした状況から、日産婦の石渡勇会長は3月19日に実施された厚労省の検討会で以下のように述べた。
「妊産婦の経済的負担の軽減は大変重要なポイントと認識しておりますが、それだけに焦点を当てて産科医療機関が分娩を継続できない、地域の周産期医療が崩壊してしまう。こういうことがあっては本末転倒と考えます。
このようなことから、将来的にも安心・安全な産科医療を安定的に継続できるということが大前提。その上で、妊産婦の経済的負担の軽減も実現できるような検討が必要と思います。
現在、全国の分娩数、出生数の47%を地元の産科診療所が担っております。分娩機関がなくなった地域は、そこで少子化がますます加速すると思われますし(中略)分娩費用等の保険化が少子化対策に本当になるのか、改めて問いかけたいと思っております。
また、国が早急に財政支援をしなければ、地方は持ちません」

日本産婦人科医会・石渡勇会長(撮影・松田隆)
「世界一安全」な産婦人科医療が崩れるおそれ
「保険適用化が導入されれば『世界一安全』とされる日本の産婦人科医療が崩壊しかねない」と、日産婦は危機感を抱いている。日産婦が求めるのは、保険適用化を阻止したうえで、窮状にあえぐ産科医療機関を国が支援すること。
群馬県高崎市は「産科医確保」の名目で病院に4000万円、診療所に2000万円の補助金を交付している。高崎市の施策は、産科医療機関の支援策のヒントとなるだろう。
また、少子化対策と合わせて、現行50万円の出産育児一時金を大幅にアップすることも検討されて然るべきである。
「出産」とは女性にとって大きな危険を伴うもの。国は、安全安心に出産できる体制を構築し維持する責務を負っている。その体制が、今、根底から崩れようとしている。
国民は危機意識を
1963年、歌手・梓(あづさ)みちよの「こんにちは赤ちゃん」が大ヒットした。その2番の歌詞は以下のようなものであった。こんにちは赤ちゃん あなたの生命(いのち)
こんにちは赤ちゃん あなたの未来に
この幸福(しあわせ)が パパの希望(のぞみ)よ
はじめまして わたしがママよ
(作詞:永六輔、作曲:中村八大)
生まれてきた子に優しく語りかける母親、生命の誕生はいつの時代も美しく尊い。
その生命が安全に誕生する場所が次々と消えていく未来を、国民が危機意識として共有すべき時なのかもしれない。
※歌詞の一部は著作権のある作品から引用しています。著作権は作詞者・作曲者またはその管理団体に帰属します。
■松田隆
1961年埼玉県生まれ。青山学院大学大学院法務研究科卒業。