
日本の芸能人は総じて台湾でも人気がありますが、その中でもASKAさんは飛び抜けた知名度と人気を誇ります。まさに「別格」の存在。
本稿では、CHAGE and ASKAが「人気のアーティスト」というカテゴリーを超え、明るい時代の「象徴」とまで言える存在になった背景にある、台湾の歴史を紹介します。(葛西健二/俳優・タレント)
台湾では日本語が「禁止」されていた
今回の訪台は昨年9月に東京で始まった「WHO is ASKA!?」ツアーの一環。前の公演地であるマレーシアからの訪問と、アジアで高い人気を誇るASKAさんらしい台北入りとなりました。
「SAY YES」「YAH YAH YAH」「はじまりはいつも雨」など、おなじみのヒットナンバーを歌い、台湾のファンを喜ばせました。
台湾におけるASKAさんの熱狂的な人気の背景には、歴史的な経緯が関係しています。
台湾は1987年まで、台湾を実効支配する中国国民党政権による戒厳令下にありました。
第二次大戦後、蒋介石(しょう・かいせき)の国民党政府は、日本から接収した台湾で官僚や軍人らが行った横暴に対する台湾の民衆による抗議活動を武力により抑え込みました(二・二八事件(1947年)など)。
また、国共内戦に敗れた国民党政府が台湾に逃げ込み、1949年から中国本土の中華人民共和国政府に対する「反共戦争」を理由として戒厳令を発令しました。
そのため台湾は40年近くの間、国民党の独裁政権下に置かれ、人々は政治的自由を抑圧されていたのです。
また、日本語は「敵性言語」とされ、テレビやラジオでは使用が禁止されました。
つまり、当時の国民党政権は対立する中華人民共和国政府の影響力が及ばないようにしつつ、同時に、以前の支配者である日本の影響力を削ぐことにも力を入れていたというわけです。
「101回目のプロポーズ」と主題歌が大ヒット
国民党政権下では、政府による共産スパイの摘発(「白色テロ」)など政治的弾圧が行われた時期もあり、現在の自由な台湾とは異なる息苦しい時代が続きました。しかし、1987年に戒厳令が解除され、翌年に就任した李登輝(り・とうき)総統による民主化が進んでいきます。
この流れの中で情報の自由化が行われ、それに伴い公の場での日本語歌曲が解禁。1994年には、日本のテレビ番組の放送も全面的に解禁されました。
日本で1991年に放送された「101回目のプロポーズ」(フジテレビ系)が、1994年に「101次求婚」というタイトルで放送され、大ヒット。
そして、同作の主題歌である「SAY YES」も爆発的ヒットを記録しました。
こうして1994年5月21日、台北で、日本語歌曲解禁後初の「日本人による日本語でのライブ」がCHAGE and ASKAによって行われたのです。
翌1995年にも台北で2日間のライブが行われ、4万人を動員しました。
希望に満ちた時代はチャゲアスとともに
民主化の到来を肌で感じていた台湾の人々が初めて自国で目にする、大ヒット曲のグループによるライブです。その時の興奮や喜び、民主化への希望と期待を抱いていた人々に与えたインパクトや影響力、そして熱狂は、自由の国に生きるわれわれ日本人には想像もつきません。
当時を知る人たちにとって、CHAGE and ASKAの伝説のライブを超える存在はないでしょう。
CHAGE and ASKAは単なるアーティストではなく、「台湾が明るい時代へと向かう象徴」として、多くの人の記憶に深く刻み込まれているのです。
実はこの伝説のライブでASKAさんがひとつの仕掛けを施しています。
その仕掛けというのが「何日君再来(邦題・いつの日君帰る)」を中国語で歌ったことです。
禁止されていた歌を日本人が歌った「二重の解禁」
この曲は、1937年に上海で製作された映画の挿入歌。中国や日本で大ヒットしました。ところが、戦後、台湾では歌唱・放送が禁止されました。
「何日君再来」というタイトルの中の「何」が「賀」、「君」が「軍」と同音のため、「賀日軍再来」と同音となり「日本軍の再来を慶賀する」という意味になることから、国民党政権としては許せなかった、という理由です。
この曲が再び歌われるようになったのが1980年であり、国民的歌手であるテレサ・テンさんが歌ったことで、ようやく解禁されました。
この、いわく付きの曲を、1994年のライブでASKAさんが中国語で歌ったのです。
冒頭で紹介した、今年3月のコンサートでASKAさんが訪台した際の報道でも、当時について「一時期、台湾で歌うことが禁じられていた曲を日本から来たアーティストが堂々と歌ってくれたことに、台湾の観客たちは深く感動した」とされています(TVBS新聞網・日本活傳奇ASKA最感動「在台灣唱禁歌」 致謝楊宗緯「救他一命」)。
公の場で歌うことを禁じられていた日本人によって、かつて台湾で禁じられていた曲が歌われるという「二重の解禁」であり、当時の台湾の人々が「自由な時代がやってきた」という思いを強くしたのは想像に難くありません。
3月にコンサートが開催された台北国際会議センター(jack/PIXTA)
ASKA「強烈な記憶として残っています」
こうした経緯もあり、ASKAさんは、この1994年のコンサートが「心が最も沸き立った」と常々語っています。2月末に台北で行われた記者会見でも「あの時は台北スタジアムのキャパが2万人だったのに、2万5000人が入っていて、チケットが買えなかった人は近くのビルから観ていたほどでした。観客は汗だくになりながらも、心からライブを楽しんでくれました」と振り返りました。
「何日君再来」についても「中国語の曲を準備して驚かせようと思っていたんです。一曲をみんなで練習し、いざ私が歌い始めたら、観客が歓声を上げて一緒に歌ってくれました。あの時の沸き立つような感動は、いまでも自分の中で強烈な記憶として残っています」と語っています。
ASKAさんが台湾に残したもの
1994年の伝説のコンサートについて人々の声がFacebookに残っています(以下、原文から筆者が訳出)。「人生で初めてのライブ鑑賞、中学1年生だった私は3年生の姉と一緒に観に行った。
心の中に永遠に留まり続けている、素晴らしい思い出を作れた、お姉ちゃんありがとう」
「もう少し早く生まれていたら、この伝説のライブに参加できたのに」
「私は向かいのビルの屋上からライブを観ていたよ」
流行歌やアーティストが、時代を象徴する存在となることは少なくありません。
台湾におけるASKAさんや伝説のライブは、その影響力や「ひとつの時代の象徴」という点において、ザ・ビートルズや彼らの1966年の日本公演に匹敵すると言っても過言ではないでしょう。
『ASKA ASIA CONCERT TOUR 2025 WHO is ASKA !? in TAIPEI』3月1日のコンサート当日の、ASKA氏公式アカウントの投稿
2025.3.1[sat] START 19:30
台北國際會議中心 (Taipei International Convention Center)https://t.co/AXgFTjl6pl#ASKA pic.twitter.com/3j0ikZu4AH
ASKA_Official (@askaofficial921) March 1, 2025
最後に、今回のライブに来場した人がSNSに残した文章がありましたので紹介しましょう。
私があれこれ言うよりも、この人の文章を読んだ方が、ASKAさんが台湾でどのような存在なのか、理解していただけると思います。
「1994年の人生初のライブ鑑賞
あなたは教えてくれた、詩のような人生を送れ、と
今日 開始のベルが鳴ったとき僕はすぐにわかった、あなたは約束を忘れていないと
立ちっぱなしで聴くYAHYAHYAH 1994年に戻ったようだ
叩きすぎて僕の手は腫れ、歌いすぎて声も涸れた でもリズムに乗っている
最後の一曲on your mark 皆が泣いた 僕は笑った」
■葛西健二
京都産業大学外国語学部中国語学科、淡江大学(中華民国=台湾)日本語文学学科大学院修士課程卒業。1998年11月に台湾に渡り、タレント、俳優として活躍。映画「賽德克巴萊 セデック・バレ」(2011年)、テレビドラマ「聽海湧」(邦題「海の音色」、2024年)など多くの作品に出演。様々な角度から台湾をウオッチしている。