大阪・西成で、今も旧遊郭の名残りをとどめる「飛田新地」。
大正7年(1918)に開業したこの歓楽街は、戦後に赤線として遊郭の機能を引き継ぎ、昭和33年(1958)に売春防止法が施行されると“料亭街”に姿を変えた。
そして“客と仲居の自由恋愛”とすることで、遊郭・赤線時代の営業内容を現代に残している。
「なぜ飛田は必要なのか」
そう問いかけるのは、かつて飛田新地で親方(料亭の経営者)を経験し、現在は女性のスカウトマンとなった杉坂圭介氏。
飛田の中にいたからこそ語れる内情は、色街を単なる好奇の対象としてではなく、社会を深く考察する上で貴重な証言となるだろう。
連載第5回は、飛田を辞めては、すぐに戻ってきてしまう女性たちがあとを絶たないというその裏事情について。
※ この記事は、飛田新地のスカウトマン・杉坂圭介氏の著作『飛田で生きる 遊郭経営10年、現在、スカウトマンの告白』(徳間文庫、2014年)より一部抜粋・構成しています。

それでも足を抜けない女たち

自分で親方をやり、さんざんスカウト活動をしてきた私が言うのもおかしな話ですが、飛田にいた子、飛田で稼げた子は、普通には社会へ戻れません。
よほど強い意志を持った子、切迫した借金問題を抱え、家族のためにこの世界に入ってきた子は別ですが、派手な生活をするためにきた子は、一度この世界を経験すると、逃げ場やよりどころにしてしまい、なかなか戻ることができません。
誰もが戻れると言いますが、「何かあったら、アレやるか」という最後の切り札として飛田の存在を心にとどめ続けてしまうのです。
たとえば、大学生のときにアルバイト感覚で週2回働いたとすると、1日に10人お客がつけば平均して稼ぎは7、8万円。月収は30万~40万円。
「社会人になったから、辞めます」
そう言ってOLになったら、毎日朝から晩まで働いて月に20万円も稼ぎがありません。1回経験すると、何かあったときに飛田のことが浮かんでしまう。
「飛田に行けば、借金の帳尻を元に戻せるわ」
「車がほしいんやけど、今のお給料じゃ無理。
でも飛田なら臨時収入を作れる」

「2000万円」貯金して辞めたはずが…数か月で“出戻り”

25歳で復帰したとしても、当時の勢いはもうありません。学生時代の週2回から4回に増やして月に100万円稼げると思ってやって来たけど、実際には50万円しか稼げなかった、というケースをいやというほど見てきました。
そうなると、もっと稼がなくてはならない子にはこう言わざるをえなくなる。
「100万円稼げるようになるためには、今までしなかったサービスもしなあかんな」
女の子たちにこのような典型的な転落人生を歩ませたくはないので、この世界に引っ張り込んだ者の責任として、口を酸っぱくして言います。
「稼げるときは短いんやから、しっかり貯めて、大事に使えよ」
説教のかいがあり私の言うことを聞いて計画的に貯金している子もいました。
「2000万貯金したんでもう辞めます。お世話になりました」
そう言って辞めた子が数か月後には復帰してくる。
貯めたお金はすべて使い果たしたといいます。
「何に使ったんや?」
「男に貢いだ」
「アホか。大事に使えって言うたやろ? せっかく稼いだお金やのに台無しやないか」
「でもマスター、また稼げばええやん」
自分では飛田に行けば甘い汁を吸えると思っているのでしょう。しかし、じつはそれが習慣性のある苦い蜜(みつ)であることに気付いていないのです。
稼いでは使い、使っては戻ってきて、また稼いでは使ってしまう。
稼げる額は次第に減っていき、出ては戻るスパンも短くなっていきます。こうして飛田依存症の子ができあがるのです。


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