警察庁の統計によると、2024年中に、大麻により検挙された人数は6078人に上り、2015年の2101人から約3倍近く増加している。
大麻に関する議論を巡っては「非犯罪化し、刑事施設外での自主的な治療に専念すべき」といった意見や“合法化”を求める一部の声がある一方、芸能人や有名大学の学生による大麻事件が発生すると“センセーショナル”な報道も目立つ。
本連載では「大麻とは何か」や「日本国内での大麻を取り巻く環境」について、文化社会学と犯罪社会学の観点から大麻について調査・研究をする佛教大学准教授の山本奈生氏が解説。最終回は大麻規制のあり方について検討する。
(全6回) ※ この記事は山本奈生氏の書籍『大麻の社会学』(青弓社)より一部抜粋・構成。
大麻の「非罰化、非犯罪化、合法化」は「懲役刑」より妥当な取り組み?
筆者はこれまで、大麻規制という出来事を、政治・文化・経済のヘゲモニー(編注:覇権を巡る力関係のこと)が反映される場として論じてきた。そして政策実践への価値評価としては、非罰化、非犯罪化、合法化などをユートピアとしてではなく、懲役刑よりは妥当な取り組みになりうると評価してきた。
これをより展開していえば、筆者は大麻だけを特権化しているのではなく、依存性や有害性がより強いドラッグ類に対しても厳罰と収監(アサイラムの確立)ではなく、教育と社会福祉こそが実践的な論点として妥当ではないかとするものである。
既に薬物依存者をアルコール依存などと同等に扱ってきたイタリアやポルトガルで、少なくともアメリカを超えるようなドラッグによる個人や社会へのハーム(編注:害)は観察されていない。
世界史的にいえば、最も使用者個人へのアサイラムを確立して駆り立ててきたアメリカこそが最大のドラッグ大国になり、ドラッグのハームに最も苦しんできたように思われる。
しかもそのハームは不均等で、社会関係資本や文化資本、そして厳然としてある経済的な格差に応じて、もたざる者に対してより厳しく作用してきた。
アルコールのハームは、確かに誰に対してもスモッグのように平等ではありえたとしても、それは特に存在論的な安心感や、自己と他者からの承認を構造として奪われがちで、高失業率のネイティブ・アメリカン保護区で、より深刻なものとして現れがちだったことは事実である。
そして、大麻売買が厳罰とされる状況で、リスキーな商売としてプッシャー(編注:麻薬の密売人)を「選択」せざるをえないのが一体誰であり、さらにクラック・コカイン(編注:通常、粉末状であるコカインを結晶化したもの。1980年代のアメリカでは安価で流通したことから社会問題化した)やアンフェタミン(編注:覚醒剤の一種)が同時に、厳罰化されているがゆえに大麻を扱うプッシャーや密輸人と結び付いているのかは、単なる個々の物品それ自体に内在する事柄なのではなくて、ドラッグをめぐる道徳と逸脱の政治に由来するのである。
解決策が「複数形でありうるしかない」理由とは?
誤解がないように付記しておくと、筆者を含めて大麻所持への懲役刑に批判的な人々は、いつでも普遍的に「合法化が解決である」「課税してコーヒーショップ(編注:オランダで大麻製品の販売を行う小売店のこと。同国では厳密には、大麻の栽培等は違法だが、寛容的な政策により、非犯罪化している)を作ればいい」と一足飛びに主張しているわけではない。それは当たり前のことながら、社会史の文脈や当事者らの生活に根差して、複数形でありうるしかない。
そして既に非罰化や合法化がなされている地域でも、大麻は野放図に用いられているわけではなく、未成年者への譲渡や運転規制は厳しく実施されている。
むしろ、個人所持を摘発することによってマフィアの関与、10代の喫煙や運転、成分不明物品の流通やより有害性が高い「脱法製品」などが不可視化され、社会的なハームが増大しがちであることはこれまで多くの社会が身をもって経験してきたことである。
比喩的にいえば禁酒法がもたらしたのはアルコールによるハームの低減ではなく粗悪なバスタブ・ジン(編注:浴槽で密造されたジン)であり、新しい職業として「不法販売から利益を得るマフィア」と「これを摘発する新たな警察部門」の二者がコインの表裏のように出現したことと比較考察されるべき課題だろう。
厳罰が科されないなら、突如多くの人々が大麻を喫煙して何らかの混乱が生じるかもしれない、という懸念もあるだろう。この点はその地域での使用状況と規制、若者文化の位相などを慎重に検討する必要があることは間違いない。
しかし厳罰が使用を反比例的に低減するかといえば、それも自明ではなく、日本よりずっと強力な厳罰政策を実施してきたアメリカで大麻は広まり、現代日本でも広まりつつある。
そして、ハームリダクション政策(編注:薬物使用の完全な禁止や即時中止を求めるのではなく、その使用による健康・社会・経済的な悪影響を最小限に抑えることを目的とした公衆衛生アプローチのこと)や非罰化政策を実施した地域で突如喫煙者が増えたわけでもないし、日本で非犯罪化されている700円の鎮咳剤やガスパン(編注:ライター用などのガスを、袋にためるなどして、シンナーのように吸引する行為)などの合法的なドラッグ乱用に誰もが手を出しているわけでもない。
それでは、市販薬乱用者を「公衆の敵」として逮捕すればこの薬剤に手を出す人が減ると仮定しても、個人や社会へのハームは減るだろうか。筆者には逆のように思われる。
現在の日本の規制「長く続くと考えるのは現実的でない」
ただ一ついえるのは、懲役刑を自明の前提とすることから距離をとり、ひとまず死刑制度の執行を保留するように、懲役刑ではなく法運用として不起訴を前提とすることや罰金刑を選択可能にすること、イギリスでのような「刑罰ではなく警告」の措置、そして医療目的での合法化などを組み合わせながら、厳罰自体が逆説的なことに人々へのハームとして機能しうる状況を懐疑すべきだということである。重要なことはケアと教育である。
それは当然のことで、日本の学生が留学するような北米圏やオセアニアのキャンパス文化で、大麻はもうただの嗜好品になりつつあり、欧州でもほぼ罰せられず珍しいものではない。
旅行先として人気のグアムでもハワイでも似た状況で、パックツアーであればともかく、ゲストハウスやクラブで他国の旅行者と対話し、ひと夏滞在するなら大麻関連の文化を見聞しないほうが難しいだろう。
そして大麻はただ植えれば生えてきてしまう。この10年間、各国の大麻規制は急速に変化し、日本だけが今後も長く、半世紀前から固着した法制度を運用しつづけられると想定するのはあまり現実的ではない。
「傷つきうる生とどのように向き合うのか」
代替案として単純な一つの解決策があらかじめここにあるはずもない。西海岸のような新自由主義と結び付いたグリーン・ラッシュも、アムステルダムのコーヒーショップも、インドの一部で長く続いてきた建前と民俗風習も、イタリア流の地域保健政策も、どれも参照項としてありえたとしても、結局のところ当地にいまある、傷つきうる人々の生から出発するしかない。そして筆者が強調したいのは、政策的目的とはあくまでも生活の質、個々の人生それ自体なのであって、決して経済的効用などに還元することはできないということである。
ニクソンからレーガン期に形成された「ダメ。ゼッタイ。」の社会観は、これまで長らく日本の教育とメディア表象、法制度を規定してきたため、多くの場合に議論や思考の範囲は、その社会観の内部でだけおこなわれてきた。
例えば、教育や福祉的な態度でもって議論する場合でも順法精神を自明としながら、使用者に寄り添うような身ぶりで「違法は違法、法に違反すれば家族や他者にも迷惑がかかる」ことが強調されがちだった。
しかし本来的に問題とすべきなのは、法維持的暴力の渦中にある人々の、複数形の生きざまとどのように対話すべきなのかということなのである。
こうした論点で、主語を曖昧にして「私は別として他者がみれば」とする代理のレトリックは、生それ自体から目を背ける際のいつもの決まり文句になる。それは実際には、他者と私が同時に含まれるデモクラシーへの責任を回避し、私という主語、私のなかにあるアサイラムから、自らの実存を保留する身ぶりでしかない。
それで結局のところ、筆者と読者は傷つきうる生とどのように向き合うのかが問題なのだと思う。