5月30日の参議院本会議で、改正航空法が可決・成立した。施行後は、これまで大手航空会社のパイロットだけに義務付けられていたCRM(Crew Resource Management)訓練が、空港を使うすべてのパイロットに義務付けられるようになる。

法改正のきっかけとなったのは、2024年1月2日に羽田空港で起きた航空機衝突事故だった。
ところが、当事者である海上保安庁もJALも、事故前からすでにCRM訓練を実施していたという。
そこでこの記事では、そもそもCRM訓練とは何か。今回の法改正によって、本当に空の安全は向上するのかを考えていきたい。(近畿大准教授(安全心理学)・島崎敢)

事故きっかけに生まれた「CRM訓練」

CRM(Crew Resource Management)を直訳すると「乗員資源管理」である。なんだか堅苦しい言葉だが、その本質はシンプルだ。「人間の能力には限界がある」という前提に立って、限られた人員で安全に飛行機を飛ばすための方法論である。
考えてみてほしい。飛行機は離陸してしまえば、着陸するまで外部からの支援をほとんど受けられない。パイロットと乗務員だけで、すべての問題に対処しなければならないのだ。しかも、人間が同時にできることには限りがある。計器を見ながら、無線で話しながら、操縦しながら、異常を察知して、判断を下す。これらを完璧にこなすことはきわめて難しい。

だからこそ、限られた「人的資源」をどう配分し、お互いをどうカバーし合うか。これがCRMの核心だ。
CRM訓練が生まれたきっかけのひとつには、1978年12月28日のユナイテッド航空173便の事故がある。
ポートランド国際空港に向かっていたこの便で、着陸装置に問題が発生。機長はその問題解決に没頭するあまり、燃料残量への注意がおろそかになっていた。この時、実は副操縦士も航空機関士も、燃料が危険なレベルまで減っていることに気づいていた。しかし、彼らは機長に強く進言することができなかった。
なぜか。そこに「権威勾配」があったためだ。経験豊富な機長と、部下である副操縦士や航空機関士との間には、見えない上下関係があった。
「機長が集中しているのに、横から口を出していいのか」「自分の判断が間違っているかもしれない」――そんな遠慮や躊躇が、重要な情報の共有を妨げた。その結果、173便は燃料切れで墜落し10名が亡くなる大惨事となった。

もし副操縦士が「機長、燃料がやばいです!」と強く言えていたら。もし機長が「今から自分は着陸装置に集中するから、君は燃料を見ていてくれ」と役割分担していたら。この事故は防げたはずだ。

CRM訓練の「3つの段階」

こうした事故を教訓に生まれたCRM訓練だが、具体的に何をするのか。ICAO(国際民間航空機関)の基準によると、大きく3つの段階がある。
第1段階:まずは頭で理解する
最初は座学だ。過去の事故事例を分析し、「なぜこんなことが起きたのか」グループで討議をする。
「あなたは副操縦士。ベテラン機長が明らかに間違った判断をしようとしている。どう伝える?」
あなたは「機長、それは違うと思います」と言えるだろうか。
第2段階:体で覚える
次はシミュレーターを使った実践訓練だ。たとえば、こんなシナリオが用意される。
「エンジン火災発生。
同時に油圧系統に異常。管制塔との通信も途絶えがち。さあ、どうする?」
機長役と副操縦士役に分かれて、この状況を模擬的に体験する。誰が誰にどう情報を共有し、どのような判断を下すか。限られた時間の中で優先順位をつけ、人的資源を配分していく。
頭ではわかっていても、いざやってみると、パニックになったり、重要な確認を忘れたりする。これを何度も繰り返して、体に染み込ませる。
第3段階:日常に定着させる
そして最後は、普段の運航の中で実践し続けることだ。たとえば、離陸前のブリーフィングで「今日は天候が不安定だから、もし〇〇が起きたら、君が△△を担当してくれ」と役割分担を明確にする。そして、些細なことでも、気になることを率直に共有できる雰囲気を作る。

羽田空港事故、当事者らはCRM訓練を受けていた

国土交通省はこれまでCRM訓練を、JALやANAなどの定期航空運送事業者のパイロットに対して、年1回以上行うように指導してきた。一方、小型機の遊覧飛行や、官公庁(海上保安庁、消防、警察など)の航空機のパイロットは、この対象外であった。
しかし、海上保安庁は独自にCRM訓練を実施していたという。
海保で行われていたCRM訓練の頻度や内容等の詳細は現時点では不明だが、国際基準である「3年以内の受講」に沿っていた可能性もある。その場合、JALやANAなど民間と比べて訓練からの間隔が長くあいていたことが考えられる。
一方、民間で行われたCRM訓練にも不十分な点があった可能性が指摘されている。羽田空港での事故対策検討委員会による中間報告書では「平成12年度から定期航空運送事業者に対してCRM訓練が義務化され、パイロットに対する教育・訓練等が長年継続されている」にもかかわらず、「今なお滑走路誤進入事案等が発生していることを踏まえ」、「CRM訓練の実態把握・分析を行い、CRM訓練の一層の充実を図る必要がある」とされている。
報告書では問題点の詳細について明らかにされていないが、2つの可能性が考えられる。
1つは、各自が行ってきたCRM訓練の頻度や内容は適切だったが、事故当時、さまざまな要因が重なって訓練の成果が発揮できなかった可能性。そしてもう1つは、頻度や訓練内容に何らかの不足があった可能性だ。
実際、CRM訓練は導入以来、各組織が独自にアレンジしてきた歴史がある。それぞれの任務や組織文化に合わせた柔軟な対応という面はあるが、質のばらつきを生む要因になっていたかもしれない。
この点については今後の調査が待たれるところだが、今回の航空法改正では、CRM訓練の実施者を国土交通大臣の登録を受けたものに限定するなど、一定の品質を保つこともうたわれており、これが十分な効果を発揮してくれることを期待したい。

「ヒューマンエラーをなくす」訓練ではない

世の中には「訓練を徹底し、人間が集中さえしていればヒューマンエラーはなくなる」という間違った精神論がある。
今回の法改正を受けNHKの報道が、CRM訓練について「ヒューマンエラーをなくす訓練」と間違った説明を用いていたことからも、この誤解がいかに根深いかがわかる。
このような精神論は、CRMが目指す安全文化とも真っ向から対立する。

先述した通り、CRMの核心は、権威勾配を低くして、誰もが必要な情報を共有できる環境を作ることにある。機長も副操縦士も、整備士も管制官も、全員が「自分はエラーをする存在である」ことを認め、お互いのエラーをカバーし合う関係を築くことが目標だ。「エラーは人間の怠慢や不注意の結果だ」と考える文化では、この関係は成立しない。
繰り返すが、人間は必ずミスをする生き物だ。疲れていればなおさら、プレッシャーがかかればなおさらだ。だからこそCRMでは、一人がミスをしても、他の誰かがカバーできる仕組みを作る。「エラーをなくす」のではなく、「エラーが致命的な事態につながらないようにする」ことこそが重要なのである。

ハードウェア対策も不可欠

そして忘れてはならないのが、羽田の事故が発生した要因はCRMの問題だけではないということだ。
滑走路進入を防ぐストップバーランプが使われていなかったこと、管制塔の警告システムで警告音が鳴らなかったことなどの要因も重なった結果である。
法改正によるCRM訓練の義務化は一定の効果を発揮するだろうが、人間の注意力や判断力に依存する対策だけでなく、確実に効力を発揮するハードウェア対策も不可欠だろう。
また、「訓練を実施したから安全」という考えも危険である。これは現場で働く人々に過度な負担と責任を押し付けることになりかねない。

訓練だけで安全が確保されるわけではない。ハード面・ソフト面を含めた多層的な安全対策が求められている。
■島崎敢
1976年東京都生まれ。早稲田大学大学院にて博士(人間科学)取得。同大助手、助教、防災科学技術研究所特別研究員、名古屋大学特任准教授を経て、近畿大学准教授。元トラックドライバー。全ての一種免許と大型二種免許、クレーンや重機など、多くの資格を持つ。心理学による事故防止や災害リスク軽減を目指す研究者で3人の娘の父親。趣味は料理と娘のヘアアレンジ。著書に「心配学~本当の確率となぜずれる~」(光文社)等。


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