
奈良観光の名物といえば、奈良公園でのんびり暮らすシカたちを真っ先に思い浮かべる人は多いだろう。
これまで、そんなシカが殺傷されるような事件が発生すると、天然記念物を保護する「文化財保護法違反」で取り締まりが行われてきた。たとえば、2010年にはボーガンで矢を放ちシカを死なせた男が、2021年にはシカを斧でたたいて死なせた男がいずれも同法違反で有罪判決を受けている。
なぜ今、新たに「加害行為の禁止」を明文化したのか、今回の運用改正に至った背景を追った。(ライター・油井やすこ)
暴行動画が拡散、明文化のきっかけに
「きっかけとなったのは、昨年7月に拡散された動画でした」と話すのは、奈良県観光局奈良公園室の室長補佐を務める豊岡健士さん。奈良公園そばの歩道付近と思われる場所で、男性がシカに殴る・蹴るの暴行を加える様子が収められたショッキングな動画(現在は削除)が、インターネット上で瞬く間に広がった。男性に対する罰則を求める声も上がったが、冒頭で記した通り、奈良のシカはこれまで文化財保護法(196条)で守られてきた。しかし同法は、天然記念物であるシカに「滅失」「毀損」「衰亡」の効果を発生させた場合にのみ処罰対象となり、有形力の行使自体を直接罰する法令の規定はなかった。
動画に対する大きな反響を受け、奈良県が選んだのは条例の制定や改正等ではなく、既存の県立都市公園条例の施行規則での禁止事項にシカへの加害行為を追加するという方法だった。
条例の制定・改正は、議会での審議・議決を経なければならず、長い時間を要する可能性がある。これに対し、条例の施行規則に基づく禁止事項は知事が定めるものなので、現状に応じた柔軟な対応が可能となる。
新たに加えられた禁止事項には、罰則規定こそないが、奈良のシカに対して「みだりに、その身体に外傷が生ずるおそれのある暴行を加え、又はそのおそれのある行為をさせること及びそれに準ずる行為」を加害行為と定めた。
豊岡さんは「たとえば、鹿に追われて身の危険を感じた人がとっさに払いのける行為まで禁止するものではありません。あくまで、不必要な加害行為を抑止するのが目的です」と説明する。
改正の背景には、SNSで拡散された動画を模倣するような行為が広がるのを防ぎたいという狙いもある。
奈良公園内の暴力行為は「確認されていない」
しかし、施行規則に基づく運用改正を急がなければならないほど、奈良公園でのシカへの暴力行為が常態化していたのだろうか。「実は、動画の拡散以前も拡散以後も、鹿に対する日常的な暴力行為があったとは把握していません」(豊岡さん)
県では毎日2回の公園巡回を行い、シカの保護を担う「奈良の鹿愛護会」やボランティア団体の見守り活動も随時行われている。交通事故などで傷ついた鹿の救護体制も整っており、トラブルがあれば地元警察とも連携して対応にあたってきた。しかし、殴る・蹴るなどの行為の目撃情報や通報の事例は今のところないという。
奈良の鹿愛護会の副会長・中西康博さんも、「これまで条例や施行規則が不十分だと感じたことはなく、日常業務に支障はありませんでした」と口をそろえる。
今回の運用改正は、実際に頻発していた問題に対応するというより、今後の抑止と啓発を目的とした、いわば“予防的な一手”という訳だ。
増えているのは過度な接触による事故
実際のところ、奈良公園で今課題となっているのは、暴力行為よりも観光客がシカに過度に接近することによる事故だという。2024年9月に発生した、シカが関わる人身事故は43件で、前年同月の2.5倍となった。観光客の増加やSNSでの認知度上昇に伴い、件数は増加傾向にある。
特に注意が必要なのは5~6月の出産期や秋の繁殖期だ。
子育てをする鹿が多いこの時期、公園内では「コジカにさわらないで」と日英中国語で注意喚起されている(撮影:油井やすこ)
また、施行規則に基づく運用では「鹿せんべい」以外の食べ物をシカに与える行為も禁止されている。鹿せんべいはシカの健康を考慮して作られた専用の餌だ。善意のつもりで野菜やお菓子を与えると、シカの健康に悪影響を与えたり、シカが人間の食べ物の味を覚えてトラブルの原因になったりする恐れがある。
県や愛護会をはじめとする関係機関は、多角的な啓発活動を展開。奈良公園内の各所に鹿との接し方の注意点を明記した看板を設置し、観光案内所や奈良公園近くのバスターミナルにデジタルサイネージを設置するほか、SNSを活用した動画コンテンツや県の専属VTuberによる呼びかけも行うなど、来園者への注意喚起に努めている。
豊岡さんは「来園者と奈良のシカたちの安全を守るためにも、適切な接し方を国内外の人々に広く知っていただければ」と話す。
奈良で培われた人とシカとの「適度な距離感」を次世代へ
奈良公園の鹿は長年人と共存してきたため「おとなしい」と思われがちだが、あくまで野生動物だ。道ですれ違っても騒がず、お互いを意識しながらも必要以上に干渉しない――奈良の人々は古くから鹿との適切な距離感を自然に身につけてきた。「奈良のシカはかわいい存在ですが、誰かが飼育しているわけではありません。
新たな運用改正は、奈良らしい穏やかな風景を未来につなぐための一歩となるだろうか。観光で奈良公園を訪れる私たちにも、この千年続く貴重な共生文化への理解と敬意が求められている。
■油井やすこ
奈良県に近接する京都府南部在住。IT企業勤務やフリーペーパー編集部での経験を経て、2013年よりフリーライターとして活動を開始。関西エリアの情報誌やWEBメディアを中心に、地域ニュース、店舗取材、インタビュー記事などを手がけている。