生活保護制度について、「生活保護の額が国民年金よりも高いのはおかしい」「最低賃金で一生懸命働いても生活保護の額より低いのはおかしい」といったことがよく指摘されます。
事実、その通りなのですが、中にはこれらをもとに「生活保護が手厚すぎる」「生活保護受給者は恵まれている」などと「生活保護バッシング」を行うものさえあります。
しかし、それは批判を向ける対象を誤っており的外れであるのみならず、かつ生活保護制度への根本的な誤解に基づくとしか言いようのないものです。
そもそも「生活保護を受けている」というと「働いていない」と思われがちですが、それは大きな誤解です。現在の日本では、まじめに働いても生活が成り立たず、生活保護を受けざるを得ない境遇の人々が大勢います。とうてい「自己責任」などの浅薄かつ非人道的な言葉で切って捨てることができないほどの社会問題になっているのです。
今回は、生活保護を受けながら働く人々の実情をお伝えします。(行政書士・三木ひとみ)

働いても「最低の生活」さえできない人がいる

厚生労働省が毎年公表している「被保護者調査」によれば、生活保護を受けている人のうち、実に1割超が就労収入を得ています。その多くが「ワーキングプア」と呼ばれる人たちです。
最低賃金が上昇しても、家賃や物価の高騰がそれを上回る状況の下、「働いているのに生活が成り立たない」という人が後を絶ちません。非正規雇用や短時間労働、あるいは病気・障害、育児や介護といった事情で、十分な収入を得ることができないまま、ギリギリの生活をしている人たちがいるのです。
生活保護は、そうした人々を支える制度でもあります。働いて収入を得たら、それに応じて保護費を減額する形で不足分を補うしくみになっており、就労による自立を目指すことができます。制度の本来の目的にかなった、ごくまっとうな利用のあり方です。
働く生活保護受給者の実態を広く社会に知らしめ、理解を深めることが、誰もが必要なときに生活保護制度に一時的に頼ることができ、健全な社会復帰がしやすい環境を整える上で重要です。

「なぜその人が生活保護を必要としているのか」という視点で見ると、「働いているのに生活保護を受けるなんてずるい」ではなく、働いても足りないほど生活が苦しい社会がおかしいのではないかと気付けるのではないでしょうか。

「最低時給・フルタイム」では生活できない

たとえば、「週5日、子ども2人を保育園に預けて働いています。でも生活保護を受けています」という人は決して珍しくありません。
実際に、東京都の最低賃金である時給1163円(2025年6月時点)で、フルタイム近く働いた場合、どれほどの収入を得られるでしょうか。
2025年6月の平日(合計21日)に子ども2人を認可保育園に預けて1日6時間働いた場合、月収(額面)は14万6538円、税金や社会保険料(健康保険・年金)を差し引くと、手取りは約12万6000円となるのが一般的です。
この中から保育料に学童費。これまた高騰する電気・ガス・通信費に、子どもの食費、教育費…全てを払えば、もう生活は破綻寸前です。これは明らかに「社会の設計ミス」です。
「そんな仕事しか選べないのは努力が足りないからだ」などと正当化し、本人の「努力不足」や「自己責任」のせいにするのは無理があります。
そして、生活保護を利用している人の中には、このように、家庭や健康上の理由など、さまざまな事情からギリギリの生活をしている人もいるのです。
ちなみに、2025年6月時点の生活保護制度では、東京23区在住の「母親と子ども2人(未就学児と小学生)」の3人世帯が賃貸住宅に居住している場合、最低生活費は約18万5000円です(家賃は住宅扶助の上限額6万9800円として計算)。
フルタイムに近い働き方をしているのに、得られる収入は生活保護よりも低いのです。そこで、生活保護を利用することで、最低レベルの生活を維持するという方法があります。

働きながら生活保護を受ける場合、勤労控除や通勤交通費などの一定の控除がされたうえで、最低生活費と収入との差額が生活保護費として支給されます。医療費は生活保護の医療扶助で全額公費負担のため自己負担ゼロです。
それでも、SNSなどでは、「働いているのに保護を受けることは不正」とか、「税金で養われているのにスマホを持っている」などのバッシングが、よく見受けられます。また、偏見が影響してか、「(困窮していても)生活保護なんて受けたくない」という人、「生活保護を受けたら、子どもが学校でいじめられないか心配」という人も少なくありません。
助けを求めたことが「甘え」と叩かれる社会では、人目を気にしてビクビクしながら生活することになります。そんな社会で安心して暮らせるわけがありません。

働きながら生活保護を利用することの意味

働く生活保護受給者は、「怠けている」どころか、厳しい現実の中、自らの力で生活を立て直そうと奮闘している人々です。限られた体力、時間、育児や介護、病気、障害などさまざまな制約の中で、可能な範囲で社会参加しようと努力しているのです。
真面目に働く生活保護受給者の存在こそが、日本の福祉制度が本来めざす「自立に向けた段階的な支援」の理念を体現しています。
生活保護とは、「ゼロか100か」の制度ではありません。「全く働けない状態」から、「一部就労しながら支援も受ける」、そして、「支援を受けることから卒業する」。段階的に支えるのが、本来の設計です。
事実、私が生活保護の申請を担当した方の中には、以下のような人がいます。

  • 大学生の息子のいるシングルファーザーで、過酷な労働によって精神疾患を患った。働きながら生活保護を受け、息子(世帯分離した)も大学を無事卒業した(兵庫県・50代男性)
  • 幼い子どもを抱えたシングルマザーで、目の持病があり、アルバイトで働きながら生活保護を受け、子どもを育てている(福岡県・30代女性)
  • 自営業でコロナ禍等の影響を受けて事業に失敗して廃業し、精神疾患を患った。生活保護を受けながら職業訓練を利用し、社会復帰をめざしている(大阪府・20代男性)
  • バイクでの新聞配達業をしていたが目の異常により働くことが困難になり、配偶者も病気で入退院を繰り返すようになり、借金を抱えた状態で生活保護を受けた。転職活動に成功し再就職し、生活保護を卒業した(奈良県・60代男性)
これらの人たちは、もし、生活保護を利用しなかったら、どうなっていたでしょうか。
声を上げた人を、制度の誤解をもとに叩く社会では、本当に困っている人が支援を求めることができず、人知れず孤独死するリスクを高めるだけです。あるいは、人を精神的・肉体的に追い詰め、犯罪へと向かわせ、多くの犠牲者を出してしまう危険性すらあります(下関駅放火事件(2006年)、北新地ビル放火殺人事件(2021年)の実例があります)。
生活保護制度は、社会の最後のセーフティーネットです。このセーフティーネットは、働きながら利用することができます。そして、批判されるべきは個人ではありません。働いても生活が立ち行かない社会構造こそが、問われるべきなのです。
真面目に働く生活保護受給者がいるという現実を無視することは、将来自分自身や身近な人が助けを求めるときの障壁にもなりかねません。この制度を、誰もが偏見なく安心して必要なときに使えるものにするために、誤解や偏見を正し、いま、社会を見つめなおすときではないでしょうか。

「裁判をする元気があるなら働け」の言説が「不正」を誘発・助長する

生活保護に対する根強い「偏見」は、国家権力による不正を誘発し助長することにつながるという致命的なリスクを抱えています。
その典型が、「生活保護を受ける者が裁判を起こすなど言語道断」「裁判をする元気があるなら働け」といった言説です。
2013年から2015年にかけて行われた史上最大幅の「生活保護基準引き下げ」の取り消しを求める集団訴訟(「いのちのとりで裁判」と呼ばれています)の最高裁判決が、6月27日に迫っています。
本件訴訟では最近、地裁・高裁レベルで「原告勝訴」が相次いでいます(地裁20勝11敗、高裁7勝4敗)。行政裁判で原告が勝訴することは難しいと言われているにもかかわらず、です。
その背景として、生活保護基準の引き下げが最初から『減額ありき』で進められ、減額の根拠とされた厚生労働省による統計データに重大かつ恣意(しい)的な操作が加えられていたという「統計不正」が行われた問題があり、原告勝訴判決でもその事実が認定されています。
公的制度を支えるべき国家が、数字を操作してまで、憲法25条で保障される国民の「健康で文化的な最低限度の生活」を脅かしたのです。これは生活保護受給者に限らず、政府の信頼を損ない、すべての国民の知る権利と民主主義の根幹を脅かす重大な問題です。
原告たちは、まさに「国による不正」と対峙(たいじ)してきたのです。また、そうする以外に、人としての尊厳を守る手段がなかったのです。
ところが、「裁判をする元気があるなら生活保護を受けずに働け」「生活保護を受けているのに裁判などするな」という類いのバッシングの声が、メディア空間やSNS上で根強く存在します。
しかも、それを「正当化」する理屈として、根拠すらあやしい「生活保護の不正受給」「外国人の生活保護」等に関する“ガセ情報”がまことしやかに流布し、根強く信じられてしまっています(なお、いうまでもなく、そもそも訴訟の原告たちとは何の関係もないことです)。

この空気のなかで、社会全体が行政の透明性、民主主義の根幹にかかわる問題から目を背けさせられ、結果として、一般国民もまた、政策の不正を糺(ただ)し、権利を行使する機会を奪われてきたといえるでしょう。
「国家が不正を働いた疑い」という本質からそれ、「弱者が声を上げること」そのものを批判する。その行為は、大きな不正の事実から社会の目をそらす役割しか果たしません。「働くことができない」あるいは「働いても暮らせない」。それでも声を上げれば「甘え」と叩かれる。そんな社会で、一体どれだけの人が将来への希望を持てるでしょうか。
「いのちのとりで裁判」は、私たち国民一人ひとりに問いかけています。この裁判は、決して生活保護制度の問題にとどまるものではありません。国家権力の恣意・身勝手を許さず、国民が自らの尊厳を取り戻し、社会のモラルを守るための闘いです。
この国の制度の土台と、私たち自身の未来が、静かに試されています。


■三木ひとみ
行政書士(行政書士法人ひとみ綜合法務事務所)。官公庁に提出した書類に係る許認可等に関する不服申立ての手続について代理権を持つ「特定行政書士」として、これまでに全国で1万件を超える生活保護申請サポートを行う。
著書に「わたし生活保護を受けられますか(2024年改訂版)」(ペンコム)がある。


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