両陛下は11日にはモンゴル最大の祭典「ナーダム」の開会式に出席する予定。8日午後には、第二次世界大戦後、旧ソ連によってモンゴルに移送され現地で亡くなった日本人の慰霊碑を訪ね、供花する。
この天皇皇后両陛下のモンゴル公式訪問を前に、元読売新聞本社記者でモンゴル抑留の問題を取材してきた井手裕彦氏が6月19日、都内で会見。
現在両国が把握している、モンゴル国内16か所の日本人墓地のうち、これまで一柱の遺骨も収容できていないという埋葬地の場所等を確認したうえで、これら以外の新たな墓地についても証言を得られたとして、厚労省に情報提供を行ったと語った。
シベリア抑留よりも高い死亡率
第二次世界大戦末期の1945年8月、旧ソ連は日ソ中立条約を破棄し対日参戦を決定。旧ソ連と相互援助議定書を締結していたモンゴルも、日本に対し宣戦を布告。同年9月初頭まで続いた戦闘によって軍属・民間人を含む日本人約57万人以上が旧ソ連の捕虜になった。
捕虜とされた人々について、シベリア抑留で強制労働や栄養失調から5万5000人が犠牲となったことは広く知られている。一方、モンゴル抑留は、約1万4000人が連行され、約1700人が命を落としたにもかかわらず、その実態がほとんど知られていない。
「モンゴルに抑留されていた方によると、抑留の経験を話したとしても『抑留自体知らなかった』という反応が多いそうです。
ですが、抑留者の死亡率はシベリア抑留よりも高く、モンゴルでは抑留者の12.1%が亡くなりました。
それにもかかわらず、モンゴル抑留があまり知られていない背景には、日本政府の姿勢があると思います。
国は遺骨収集に関して旧ソ連の“一本やり”で進めており、遺族の方へは『ロシア連邦等で亡くなった』との通知が届くなど、『ロシア等』や『ロシア(外蒙古を含む)』といった形で、モンゴルについても処理されてきました」(井出氏)
抑留者ら、首都の都市建設などに従事
帝政ロシアの時代から囚人らを「生かさず殺さず」の手法でシベリアに送り、労働力として使用してきた旧ソ連と違い、人口が当時75万人程度であったモンゴルには、人口の約2%にあたる1万4000人の人材を受け入れるノウハウがなかった。そのため「食糧や医薬品、衣類等が不足し、シベリア抑留とは違う過酷さがあった」と井出氏は述べる。
こうした環境のなかで、モンゴルに抑留された日本人は、モンゴルの首都ウランバートルの都市建設などに従事。証券取引所やオペラ劇場、モンゴル国立大学、国立図書館などは日本人抑留者によって建てられた。
「ソ連からのプロパガンダもありモンゴル人には『日本人は鬼だ』という意識があったそうです。ところがいざ日本人が来てみると、真面目で礼儀正しく、日本人に対しての目がどんどん変わっていったそうです」(井出氏)
しかし、こうしたモンゴル人と日本人の“接近”を危惧した旧ソ連は日本人を帰還させると決定。代わりとして旧ソ連の囚人らが連れられてきたという。
16か所以外の墓地に、50代士官埋葬か
その後、1991年にモンゴル政府は国内16か所の日本人墓地に埋葬された1597人の死亡者名簿を日本政府に提供。これを受け旧厚生省は90年代に遺骨収集を実施。これまでに約9割の遺骨が収集されている。今回、井出氏が新たに情報を得た埋葬地は、モンゴル北部ズーンハラから、北に45キロ離れたバヤンゴル山のふもと。
当時、モンゴル軍の軍曹で日本人抑留者の監視にあたっていた99歳の男性は、井出さんに対し、1946年に50歳前後の日本人士官がこの地で亡くなったと証言した。
この日本人士官は食用のヘビを捕まえようとして毒ヘビに足をかまれ、医療設備がないなかで3日後に死亡。ただ、この士官の死は収容所当局に報告されておらず、モンゴル政府が日本に提供した死亡者名簿から漏れている可能性があるという。
また、すでに明らかになっている、モンゴル北部バローンハラの墓地については、43人の日本人が埋葬されているとの記録が残っている。
この墓地についても、井出氏は当時抑留者と交流があったという女性と接触。女性の証言によると、両墓地の区別は可能とのことだ。
「訪問きっかけに、歴史伝われば」
これらの井出氏からの情報提供を受け、厚労省側の担当者は「過去の資料と照合し、現地にいって話をしたい、調査に取り組みたい」との意思を述べたという。「モンゴルと日本は死生観が違ったり、ロシアを介した複雑な外交的立場にあったりします。にもかかわらず、日本人墓地を開発もせず、土地を残してくれており、公園化したいとの話も聞いています。
もちろん天皇皇后両陛下のご訪問が政治利用されることはあってはなりません。ですが、今回の訪問をきっかけに、日本人とモンゴル人それぞれに、この歴史が伝わり、友好関係が深まれば、遺骨収集についてもプラスになるのではないでしょうか」