NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺』に火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた以下、火盗改)の長谷川平蔵が登場し話題となっている。
『鬼平犯科帳』の主人公としても有名な時代劇のヒーローだ。
本連載のテーマである奉行所とは異なるが、火盗改も警察権と司法権を持った組織であり、約200年にわたる歴史には紆余曲折もあった。ドラマでは語られることのない火盗改のリアルな姿に迫る。(本文:小林明)

初期の火盗改は違法捜査や拷問があたりまえ

戦国時代は野盗(やとう/盗賊、追いはぎなどの意)となった武士が農民を襲うケースが、あとを絶ちませんでした。黒澤明監督の名作『七人の侍』に登場する“野武士”を思い描いてもらうとわかりやすいでしょう。
1611(慶長16)年頃、そうした輩を追捕(ついほ/追いたてて捕らえる)する役目を、幕府から命じられた者たちがいました。下野国(栃木県)・常陸国(茨城県)などの盗賊を取り締まった徳川家康の側近・久永重勝(ひさなが・しげかつ)などです。彼らが火盗改の“原型”です。
1657(明暦3)年には、江戸の大半を焼き尽くした火災が発生しました。死者6万8000人を出した「明暦の大火」です。この頃、付け火(放火)し、火災現場を荒らす「火事場泥棒」が横行。江戸の治安は悪化するばかりでした。
そこで幕府は5人の譜代大名を江戸の警備にあたらせましたが、それだけでは足りず、「先手組」(さきてぐみ/江戸城の門の警備および将軍の警護)、「持組」(もちぐみ/将軍を守る弓・鉄砲隊)といった部隊の組頭と、その配下の者たちも投入します。
8年後の1665(寛文5)年、この組頭が正式に「盗賊改」の長官に任命されます。
凶悪犯取締の専門部隊で、武闘派でした。配下の者は猛者ぞろい。取り締まりといっても切り捨て御免、つまりその場で殺害して良いとされていました。
初期の盗賊改で有名な人物は、1683(天和3)年に就いた中山直守(なかやま・なおもり)でしょう。盗賊改を拝命すると家の仏壇を壊し、「仏心は捨てた」というセリフを残したという伝説を持つ男です。通称・勘解由(かげゆ)だったことから、「鬼勘解由」の異名で恐れられました。
勘解由が考案した拷問の手法に「海老責め」があります。胡座(あぐら)をかかせ、両手を後手に縛り、顎が足首に密着するほどふたつ折りの姿勢にさせると、海老のように身体が曲がって見えます。しばらくすると全身の血行が滞って苦痛が遅い、そこを棒で叩くのです。
国学者の戸田茂睡(とだ・もすい)は、『御当代記』にこう記しています。
「江戸市中を見回り怪しい者を捕らえるのだが、誤ってつかまえた者もおびただしい数にのぼり、また拷問も死ぬまで加えるので、犯罪を犯していない者まで耐えかねて白状し、処刑された」
拷問は後年、あまりに非人道的なため厳しい制限を受けますが、勘解由の時代は無造作に行われていました。
誤認逮捕と冤罪、さらに極刑も日常茶飯事。
庶民は震えあがったといいます。不透明で強引な捜査と苛烈な拷問——盗賊改にはこうした印象が強く、評判はとても悪かったといいます。

「鬼平」長谷川平蔵の登場

直守が盗続改に任じられた1683年、直守の息子・直房(なおふさ)が就いたのが放火犯を捕縛する「火付改」で、息子も鬼勘解由という仇名を持っていました。
また1702(元禄15)年、「博奕改」(ばくちあらため)、つまり博徒と賭場を取り締まる職務も新設されます。そして1718(享保3)年、盗賊改・火付改・博奕改の3者を統合して発足したのが火付盗賊改方です。
組織が改変されても、一度浸透してしまった評判は改善されませんでした。
1787(天明7)年、そこにひとりの男が現れます。長谷川平蔵です。実は「平蔵」は親子2代にわたって名乗った通称で、父は宣雄(のぶお)、子は宣以(のぶため)が本名。父子とともに火盗改でしたが、1787年に就いたのは子の方で、「鬼平」として知られるのは宣以です。
宣以も犯罪者を容赦なく罰することから「鬼平」の異名を持っていました。検挙の実績は歴代火盗改でも優秀で、法政史家の滝川政次郎によると、当時の刑事判例集『御仕置例類集』(おしおきれいるいしゅう)には平蔵が扱った事件が200件以上も記録されているといいます。
また、火盗改の任期は1~2年ですが、平蔵は1795(寛政7)年まで9年にわたって就いており、幕府から信頼されていたことがうかがえます。

情に厚い面もあり、これによって火盗改の印象もだいぶ改善されたようです。例をあげましょう。
播磨屋吉右衛門(はりまや・きちえもん)は役人の下で働く目明し(めあかし/密偵)でした。裏社会にも通じており、地位を悪用して非合法売春組織を率いていたため、平蔵によってお縄となりました。
ところが吉右衛門は高齢で病弱でした。そこで小伝馬町の牢屋敷へ送るのをとりやめ、病人や未成年を収容する品川溜(しながわため)へ移し、なおかつ吉右衛門の配下を介護のために同伴させる異例の措置をとりました。
誤認逮捕もありましたが、誤っていた場合は素直に認め釈放し、不法勾留した日数分の仕事の手当を自腹で補償したエピソードもあります。
現代でも性犯罪被害者の“二次被害”がクローズアップされますが、平蔵はこれも防ごうとしました。
1791(寛政3)年頃、押し込み強盗の際に婦女子を陵辱する葵小僧(あおいこぞう)という凶悪犯が社会を騒がせていました。平蔵は葵小僧を捕らえると、通常であれば被害女性からの口書(くちがき/供述)を取るところをあえてせず、取り調べの記録も一切残さなかったといわれます。記録が漏れ、女性たちに二次被害が及ぶことを警戒したからだろうと、刑事政策史専門の重松一義が分析しています。
最大の功績は人足寄場創設への尽力です。
1789(寛政元)年、平蔵は無宿者(地方から江戸に流れついた農民)が犯罪に手を染めるのを憂慮し、大工・左官・鍛冶など職業訓練させる更生施設を作ることを老中・松平定信に進言し、実現させます。犯罪者に立ち直る機会を与えなければ、治安は改善しないとの考えに基づいていました。
人足寄場の運営資金は不足しがちでした。そこで平蔵は幕府から借りた資金を投資し、それによって得た利益を充当します。異色の才覚の持ち主だったといっていいでしよう。

「余儀なき不義」という裁きを下した火盗改

平蔵の8代あとの火盗改・池田政貞(いけだ・まささだ)も、重要な人物です。1796(寛政8)年就任、1801(享和元)年退任。在任約5年は火盗改としては長期です。
政貞は姫路藩・池田家の分家にあたる旗本でした。仕事熱心だったようで、『御仕置例類集』には199件の事件に関わったとの記録が残っています。火盗改は江戸以外の地でも警察権を執行して良いとされていましたが、積極的に介入する者は多くありません。しかし、政貞は地方農村で起きた犯罪検挙に活躍しました。
珍しい男です。
取り調べも丁寧で、裁きも上手。例えば1798(寛政10)年、相模国(神奈川県)で農民の妻が脅かされ、やむなく「不義」に及びます。実態は強制的な「押して不義」(レイプ)でしたが、形の上では「合意」と判断されかねません。
政貞はこれを「余儀なき不義」——つまり応じる他なかったとしたのです。ただし、このことを夫の隠していたことは「不埒」につき、「50日間の押込」(おしこめ/謹慎・幽閉)。この裁きを幕府の評定所(最高裁判機関)に諮ると、さらに減刑され「急度叱り」(きっとしかり)、つまり強いお叱りで済んだのです。
性犯罪は現在も、被害者に不利な判決が下ることがあります。政貞は江戸時代、そこに一石を投じた人物だったといえるでしょう。
創設当初は悪評、長谷川平蔵や池田政貞によってイメージアップした火盗改でしたが、幕末の1866(慶応2)年、軍政改革に伴い姿を消します。すでに「剣」から「銃」の時代に移行しており、治安部隊の火盗改も陸軍への移行を余儀なくされ、中山勘解由からの約200年の歴史に幕を下ろすのです。

【参考図書】
  • 『長谷川平蔵 その生涯と人足寄場』滝川政次郎/中央公論社
  • 『鬼平 長谷川平蔵の生涯』重松一義/新人物往来社
  • 『江戸の名奉行』丹野顯/文春文庫
  • 『火附盗賊改の正体』丹野顯/集英社新書



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