
国民の「体感治安」に敏感なのは警察だけではない。
今回は、法学者の丸山泰弘教授の著書『死刑について私たちが知っておくべきこと』(2025年、ちくまプリマー新書)から、犯罪件数と体感治安との間のズレや、90年代以降に厳罰化が進んだ背景について書かれた内容を抜粋して紹介する。
犯罪件数は約20年で5分の1にまで減少
テレビやネットニュースなどから連日のように犯罪報道がなされており、それらのメディアにアクセスしないという生活をしない限りは、少なくとも1日に1回は犯罪情報に触れる毎日を過ごされているのではないでしょうか。このように毎日犯罪報道に触れることで「日本の犯罪は増えている」、もしくは「日本の犯罪は凶悪化している」という思いを持っている人も少なくないかもしれません。
しかし、日本の犯罪認知件数(捜査機関が「犯罪があったかも」と思料(しりょう)した数)は2002年をピークとし、現在まで減少し続けています。
ただ、コロナ禍において行動の制限がなされた時期の減少はさらに著しかったため、行動制限が解除された直後である2022年や2023年などは少し増えたように見えるものの、中長期にわたって減少していることにはほとんどの犯罪学者は異論を唱えないのではないでしょうか。
実際に認知件数だけでなく検挙件数も減少し続けており、さらに警察庁と総務省統計局の資料から見ても、人が被害者となった刑法犯の認知件数と被害発生率ともにピーク時の約5分の1までに減少しています。
このようなデータがあるにもかかわらず、いまだに多くの人が「日本は犯罪が多い」と感じているか、もしくは「治安が悪くなった」と感じる体感治安が悪い状態のままなのではないでしょうか。
以下では、日本の厳罰化志向と1990年代から指摘されている「刑事政策暗黒時代」の背景について見ていきたいと思います。
1990年代から「厳罰化志向」が高まる
比較的経済が安定していた時期や、高度経済成長中であった時代は、現在の犯罪の多さに比べて日本でも過激に厳罰化が声高に主張されているわけではありませんでした。しかし、1990年代に入ると、世間の注目を集める災害や事件が連日メディアを騒がすようになりました。
例えば1995年には阪神・淡路大震災が起き、多くの命が失われ、日常生活を送っていてもいつ大きな災害に巻き込まれて命が失われることになるかもしれないという不安が襲うようになりました。同じく1995年にはオウム関連事件が連日報道され、特に地下鉄サリン事件などが世間の注目を集めました。
その後、時を置かずして1997年に神戸連続児童殺傷事件、1998年に和歌山毒物カレー事件、1999年に光市母子殺害事件や桶川ストーカー殺人事件などが相次いで報道されるようになっていきました。
こういった災害や事件が起きたことで、「明日は自分の身に起こるかもしれない」という不安を背景に、犯罪に対する感情をむき出しにした報道が連日行われ、犯罪をする人への不安や憎悪が醸成されていきました。
法律は被害者を守らない?
同時に、被害者運動が活発化したことで、厳罰化を望む声が多くなっていきました。確かに、これまで事件の当事者でありながら、刑事訴訟の当事者としての地位ではなかった犯罪被害者に対する権利の拡大や、被害者保護のムーブメントが生じ、注目されるようになったことは大事な現象であったと言えるかもしれません。
なお、それに伴いよく見られる言説として、「法律は加害者ばかりを守って被害者を守っていない」というものがありますが、これは少し論点が違います。
法律が加害者である被疑者や被告人を保護するように見えているのは、対国家権力においてであり、捜査が一方的に強制的に行われ、冤罪(えんざい)事件を生み出さないためであって、被害者から加害者を守るためというものではありません。
身体拘束を受けることが多い日本の裁判において、一個人が強大な捜査権限を持つ警察・検察と刑事訴訟を行う際に、自身の弁護をするための法規制であることが多いです。つまり、事件の当事者の一方を守るためだけに法律が存在しているのではないのです。
言い換えれば、多くの場合は被害者の保護と加害者の刑罰を考えることは、必ずしも相反するものではないと考えています。
刑事政策の「暗黒時代」
この厳罰化志向が進んだ時代背景として、新自由主義的な政治が行われていたということが指摘されます。特に1990年代からは、犯罪について犯罪学や刑事政策を学んだ犯罪対策のプロが研究し対応を語るのではなく、ただ研究的な背景のないまま厳罰を訴える政治家が当選し、多くの市民もそれを望んでいきました。これは「ペナルポピュリズム」と言われ、日本だけでなく世界でもみられる傾向でした。こういったことを受けて、加害者の社会復帰は念頭に置かれず厳罰化志向が醸成されていくこの時期を、刑事政策研究者からは「刑事政策暗黒時代」と表現されたりもしていました。
上記のように2002年に認知件数はピークに達していたのですが、検挙人員は戦後すぐの頃や1980年代の頃に比べると突出しているわけではありませんでした。
これは犯罪被害実態調査からも興味深い結果が見えてきます。国際的な比較研究の一環として行われている国際犯罪被害実態調査(International Crime Victimization Survey)に日本でも法務総合研究所が2000年より参加し、4~5年おきに実施しています。
この調査はいわゆる捜査機関などの公式な統計に表れない暗数の調査ができるというところにポイントがあります。暗数は捜査機関に認知されていないもので、実際の数量と統計上に扱われている数量との差があることを調べる際に必要な視点になります。
例えば、読者の中に雨が降ったり止んだりするぐずついた天気の日にビニール傘を持ってコンビニやファミレスに行った際に、出入り口の傘立てに入れておいた自分の傘が無くなったという経験のある人はいないでしょうか。
経験のある人は本記事を読みながら手を挙げてみてください。仮に電車で記事を読んでいるという人も手を挙げてみてください。その人たちの中で、傘が無くなったことを警察に届け出た人はさらに手を挙げ続けてみてください。
おそらく先ほど手を挙げた99.9%の人が手を降ろしたはずです(電車で恥ずかしい思いをしながら手を挙げていた人も降ろせたのではないでしょうか)。
この時点でほぼ先ほど手を挙げた人の数だけ完全犯罪が成立し、捜査機関も知り得ない暗数が発生しています。
このように実際の犯罪の数と、捜査機関が公式に採っている犯罪の統計とには差があります。この差がどれだけあるのか推察するために行われている国際比較調査が犯罪被害実態調査です。
犯罪は減っても「体感治安」が悪化した
2024年の調査では約77%の人が、ここ10年間の日本の治安が「悪くなったと思う」と回答した(警察庁作成「令和6年の犯罪情勢」から)
さらに興味深いのは、この犯罪被害実態調査では実際に自身に起きた犯罪を聞き取るだけでなく、犯罪不安に対するアンケートも同時に行っていることです。
特に犯罪認知件数が急激に増加し、体感治安が悪化していた2002年前後でこれらの調査を見ると、2000年と2004年で興味深い傾向が出ています。「とても安全」や「まあまあ安全」と答える人が減少し、「やや危ない」や「とても危ない」と答える人が増える傾向が見られます。
しかし、実際に犯罪に遭っている人は減少しているというものでした。つまり、自分は具体的な被害には遭っていないが、日本のどこかでは治安が悪くなっていると考えている人が多かったということを示しています。
こういった体感治安の悪化や、犯罪が凶悪化しているという思い込みの世論によって厳罰化が進んでいきました。
実際に同じ犯罪類型であっても従来の刑期よりも長期の判決が言い渡されるようになっていき、刑務所は過剰収容時代に突入していくことになります。従来では1年で釈放されていた人が、2年や3年の刑期を受けることで、施設の中に人が溢(あふ)れていくからです。
これらの影響は、判決で言い渡される刑期の長期化や刑務所の過剰収容だけでなく、仮釈放の許可数が減少することや、仮釈放の許可が出たとしても従来よりも刑の執行率がとても高い(例えば、刑期の7割程度で仮釈放が認められていたようなものが、刑期の9割の執行があって初めて仮釈放許可が下りる)といった形でも表れていきました。
つまり、実態が伴わない犯罪不安と厳罰化を訴える刑事政策が求められ、(良い側面もあるものの)犯罪被害者の権利擁護が求められる声が高まった結果、とても加害者の社会復帰までは気が回らないという状況になっていき、捜査・判決・矯正(刑事施設)・社会内処遇(保護観察)のそれぞれの場面で厳罰化の影響を受けるという状態になっていたのです。