今から38年前の1987年1月23日、北海道札幌市白石区で、シングルマザーとして小学生から中学生までの3人の子どもを育てていたコトミさん(仮名・当時39歳)が、遺体で発見されました。死因は「栄養失調による衰弱死」、平たく言えば「餓死」でした。

コトミさんは3人の子どもを抱え、生活保護を求めていたにもかかわらず、その申請を拒否されていたと報道され、当時の日本社会に大きな衝撃を与えました。
事件から40年近くが経過していますが、未解決の課題を、今を生きる私たちに問いかけるものだと思われるので、あえて本記事で取り上げます。(行政書士・三木ひとみ)

社会を揺るがした「告発」と過熱する報道

1987年1月23日、札幌市白石区を管轄する白石福祉事務所へ、ナミエと名乗る女性(仮名)が2人の男性を引き連れて乗り込んできました。
用件は白石区の市営住宅でコトミさんが遺体で発見された事件に関するものでした。ナミエさんは大声で、「コトミさんが亡くなったのは福祉事務所の責任だ」などと20分ほど抗議を続けました。ナミエさんはコトミさんの元雇用主で、札幌市内で喫茶店を経営しているとのこと。
その後、ナミエさんの経営する喫茶店の関係者を名乗る男性から各新聞社に次々と電話がかかってきました。内容はすべて「福祉事務所が生活保護の申請を拒否したため、母親が餓死した、福祉事務所が母親を殺した」というものです。
ナミエさんはその日の午後に自身の喫茶店に新聞記者を集め、取材に応じました。内容は福祉事務所の対応への批判です。
明けて翌日の1月24日、毎日新聞を除く新聞各社がこの事件を報じます。いずれも大見出しで「母親餓死」の活字が目立つものとなっており、世間に衝撃を与えることになりました。
管轄の白石福祉事務所、本庁である札幌市役所の保護指導課には抗議電話が殺到し、本来の業務が遂行できなくなるほどでした。

この事件は「札幌母親餓死事件」と名付けられ、これ以降新聞のみならずテレビ・ラジオでの報道も始まります。STV(札幌テレビ)、HBC(北海道放送)、NHKなどで取り上げられ、それらにナミエさんが登場し、役所の批判を繰り返したのです。
事件から9か月後、STV制作のドキュメント番組「母さんが死んだ―生活保護の周辺」が全国放映され、生活保護行政の問題点を取り上げた作品との評価を受け、いくつもの賞を受けました。また1990年2月にはSTVのディレクター水島宏明氏によって「母さんが死んだ-しあわせ幻想の時代に」が出版されました。

生活保護の受給から廃止までの経緯

この事件で大きく問題視されたのは、コトミさんが明らかに困窮状態にあったにもかかわらず、生活保護を受けられなかった点です。
コトミさんには、過去に生活保護の受給歴がありました。離婚してシングルマザーとなった後、3人の子とともに児童福祉施設である伏見母子寮(札幌市中央区)に入寮し、生活保護を受給しながら、自立をめざして病院でパートとして働いていたのです。
その後、昭和56年(1981年)4月に同じ病院にてパートから正職員に登用。ここで転機が訪れます。
コトミさん一家は白石区に新築された市営住宅に入居できることになり、1981年8月に母子寮を出て市営住宅へ引っ越し。生活保護の管轄福祉事務所が、中央区福祉事務所から白石区福祉事務所へ移管されました。
ところが白石区へ引っ越しした同年12月、コトミさんの生活保護は廃止となります。理由は、正職員になったことにより「燃料手当」がもらえる事になったこと、ボーナスが支給される見込みとなったことでした。

しかし、実際には、収入が増加しても、最低生活費に満たないものだったとされています。その金額は上述の書籍「母さんが死んだ-しあわせ幻想の時代に」によれば月額8万円ほど。また、この書籍に批判的な観点から書かれた「ニッポン貧困最前線 ケースワーカーと呼ばれる人々」(久田恵)でも、月額5000円ほど不足していたと指摘しています。
今となってはどちらがより正確なのか判別が困難ですが、いずれにしても、「コトミさんが最低生活費に満たない収入しか得ていなかった」との認識は共通しています。

忍び寄る困窮と閉ざされていく心

生活保護が廃止された後、コトミさんは、困窮した際に知人から借金してしのぐ生活を続けました。
1986年春ごろ、長男が登校拒否状態となり、コトミさんは親子関係のケアのため、勤めていた病院を休職しました。必然的に収入を得る道がなくなります。
コトミさんはここで、周囲から生活保護を再度申請するように勧められました。しかし、生活保護の再申請をした記録はありません。周りに「生活保護を受けられるようになった」とうその話をしていたこともあったようです。
同年6月、休職していた病院を「このままでは申し訳ないから」と退職します。そして、昼はナミエさんの喫茶店で働き、夜は居酒屋で働くという生活を始めました。
コトミさんは消費者金融からの借入もしていたようで、勤務先の居酒屋や喫茶店にも督促の電話がかかってくるようになりました。
同年10月中旬から体調不良を理由に喫茶店に出てこなくなり、知人が何度も家に電話しても出なくなっています。子どもたちが近所の家にお金を借りに訪れていたとの話もあります。
コトミさんが、それほど経済的に困窮しながらも、生活保護の申請をした形跡がないのは、どういうことでしょうか。

福祉事務所での最後の相談と悲劇的な結末

この間、福祉事務所等、役所の職員は必ずしも、何もせずコトミさんを「見殺しにした」というわけではありませんでした。
11月11日、喫茶店店主のナミエさんから白石福祉事務所へ電話があり、翌日ケースワーカーがコトミさんの家を訪ねましたが不在。ナミエさんの喫茶店に電話をいれると1時間後に来てほしいとのこと。
1時間後にもう一度コトミさん宅を訪問すると、コトミさんがナミエさんとともに在宅していたので、ケースワーカーが聞き取りを始める事になりました。しかし、コトミさん本人はほとんど話さず、ナミエさんの話だけでは経済状況や事情がまったくわかりません。結局、ケースワーカーは、翌日の午前中に福祉事務所に来るように伝え、帰っていきました。
翌日、コトミさんが午後に福祉事務所を訪れ、前日のケースワーカーが不在だったため、別の面接担当員が対応しました。その担当員が現在の状況を聞く中で、「別れた夫に子どもの養育費を請求したか」と質問すると、コトミさんは「それは以前生活保護を受ける際にそちらで調べたでしょう」と回答せず。
担当員が過去の廃止台帳を見ると、コトミさんの前夫の住所とともに、当時前夫に扶養照会した際の事情が記載され、「借金の返済を終えたら、養育費を払う」という内容がありました。そこで担当員は「請求してみたらどうか」「払わないという念書を書いてもらっておくと後で役に立つからね」と前夫の住所のメモを渡したとのことです。

また、通常であれば翌月の12月に17万円近い児童扶養手当が支給されること、本人からお金に困っているという訴えもなかったことから、「どうにも生活していけなかったようだったらまた来るように」と伝え、この日はこれで相談を終了しました。
しかし児童手当はコトミさん自身が手続きをしなかったため、受け取られる事はありませんでした。
12月中旬、コトミさんは完全に電話に出なくなり、家を訪ねてきた知人の前にも姿を現さなくなりました。
そして年が明けた1987年1月23日、下の階に住んでいた知人のところへ長男と次男が「母さんの様子が変だ」と知らせに来ます。知らせを受けた白石警察署の職員が駆け付け、コトミさんは変わり果てた姿で発見されました。

コトミさんが再度の生活保護の受給申請をためらった「理由」とは

上述したように、世間からの批判が福祉事務所へ向いた一つの原因は、コトミさんが1986年春に病院を休職した後、何度か福祉局へ相談したものの、生活保護を再度受けることができなかった、という部分です。
資料を読み返すと、コトミさんが再度生活保護の申請を行った記録はありません。また、困窮状態に陥り生命の危険が生じた状態に至っても、生活保護を再度申請するのをかなりためらっていた様子がうかがわれます。
札幌弁護士会人権擁護委員会は、福祉事務所がコトミさんの緊急の状況を十分に把握せず、適切な措置を取らなかったと認定。憲法および生活保護法に違反した人権侵害であると断定しました。
しかし、「人権侵害」をひとえに福祉事務所だけの責に帰するのは酷だと考えられます。なぜなら、前述の通り、ナミエさんからの連絡に応じてという形ではあれ、福祉事務所の職員がコトミさんの話を聞く姿勢を見せたという事情が確認されているからです。
コトミさんは過去に生活保護を受給した経歴があり、3人の子どもを飢えさせないようにするためには、生活保護に頼ることがベストな方法であることは十分に理解していたと考えられます。

それでもなお、生活保護の申請すらためらい、ケースワーカーらが話を聞こうとしても話したがらなかったのには、よほどの「理由」があったとみるのが自然であり、合理的です。
その理由とは何か。考えられるのは以下の3つです。
第一に、コトミさんが病院の正職員になり収入が増えた際、最低生活費に満たないにもかかわらず生活保護を廃止した行政に対する、不信感と絶望が考えられます。収入が増えたとはいえ、なお生活保護が必要な状況なのに、その命綱が取り上げられてしまったということです。
第二に、過去に生活保護を申請した際と受給している期間中に、行政から、人としての尊厳を傷つけられるような屈辱的な扱いを受けた可能性が考えられます。
第三に、最後に福祉事務所を訪れた際に、職員から、前夫に養育費を請求してみるようすすめられたことです。過去に前夫に扶養照会を行った際の「借金の返済を終えたら、養育費を払う」との言葉がアテにならないこと、疲弊したコトミさんに前夫を説得して養育費を払わせるのがきわめて困難であること、いずれも明らかです。
なお、そもそも、前夫への照会は生活保護の受給決定に必須ではありません。
コトミさんと3人の子どもたちがおかれていた状況を前提とすれば、コトミさんが行政の対応に絶望し、生活保護の申請をあきらめてしまった以外の可能性は、考えにくいといわざるを得ません。
つまり、行政全体で組織的に、申請自体をあきらめさせる「水際作戦」や、受給者に対する苛烈な対応などが行われていたことが、高度の蓋然(がいぜん)性をもって推察されるのです。

コトミさんの生活保護申請を阻んだのは国の「適正化」政策?

その背景には、当時の福祉行政に大きな影響を与えた「昭和56年(1981年)厚生省123号通知」の存在がありました。この通知は、暴力団関係者などによる生活保護の不正受給を防止することを名目として「生活保護の適正実施の推進」を打ち出したものです。

これにより、生活保護の申請者や受給者に対して、資産や収入状況の徹底的な調査が求められるようになりました。銀行や保険会社、勤務先への照会も可能となり、さらにはこれらの調査を拒否する者には申請の却下や保護の廃止・停止を検討するという厳しい指示が出されました。これは、それまでの保護行政にはなかった異例の厳しさでした。
この「適正化」の波は、札幌市の福祉事務所にも押し寄せました。現場のケースワーカーたちは、「不正受給防止」という名目のもと、困窮者に厳しく対応せざるを得ない状況に置かれ、申請の抑制につながるような対応を強いられたのです。
暴力団関係者などによる「不正受給」は、生活保護制度の根幹を揺るがしかねない重大な問題であり、毅然(きぜん)と対処しなければならないのは当然です。
しかし、だからといって、たとえばコトミさんのような、明らかに暴力団等と無関係で、すぐ救済しなければ生命にかかわるほどの必要性・緊急性が顕著に認められるケースにまで、一緒くたにして厳しい態度で臨まざるを得ないようなルールを設けることは、生存権を保障した憲法の趣旨に照らし、疑問があります。
現在でも時折吹き荒れる、真偽すら怪しい「不正受給」の情報や根拠のないデマをうのみにした、統計や実態に基づかない「生活保護バッシング」とも通底するものがあります。「適正化」を錦の御旗にした、単なる「弱い者いじめ」です。
福祉事務所が国からの「適正化」というプレッシャーの中で、個別のケースに対し「機械的」な対応をせざるを得なかった、という側面も示唆しています。一概に福祉事務所のみ批判すれば済む話ではないと考えるべきでしょう。

一面的な報道では見えない事件の複雑な実像

当時のマスコミ報道では、コトミさんの餓死の結果が、福祉事務所の冷酷な対応と結びつけられる傾向がありました。たしかに、福祉事務所の対応には問題があり、批判されるべき点も多く存在しました。
しかし、報道では、コトミさん自身の複雑な背景や、彼女が自ら助けを求めることを拒否し状況を隠し続けた事実、当時の国の福祉行政が「適正化」の名のもとに「締め付け」を強化していた構造、それにより人としての尊厳が踏みにじられるリスク・弊害など、十分に伝えられてはいませんでした。
事件後、「文藝春秋」誌に掲載された「『母さんが死んだ』の嘘」という記事は、この事件の背景に「男性」の存在が深く関与していたこと、コトミさんが自殺に近い死を遂げた可能性を指摘し、初期報道の単純化を批判しました。その真偽は別として、マスコミが報じた「真実」が、必ずしも全貌を捉えていたわけではないことを示唆しています。
この事件は、単なる一人の母親の悲劇ではなく、個人の複雑な状況、行政の制度的圧力が絡み合った多層的な問題でした。私たちは、表面的な報道の裏側にある「真実」を探求することで、悲劇が繰り返されないための、より深い理解と解決策を見出すことができるはずです。

コトミさんの悲劇から私たちが学ぶべきこと

この札幌の事件は、単に行政の対応を批判するだけでは終われない、根深い問題を私たちに突きつけています。それは、「制度の網の目からこぼれ落ちてしまう人々を、どうすれば救えるのか」という普遍的な問いです。
コトミさんが自ら助けを求めることをためらった背景には、個人の尊厳の問題や、支援を受けることへの心理的な障壁があったのかもしれません。また、当時の「適正化」という名の下に進められた国の政策が、本来救うべき人々を追い詰める結果を招いた側面も否定できません。
この悲劇を二度と繰り返さないために、私たちは「申請がなければ動かない」という制度の限界を認識し、本当に助けを必要としている人に手を差し伸べる社会の仕組みを構築しなければなりません。一人の母親の死を風化させることなく、その教訓を未来のセーフティーネットにどう活かしていくか。その重い宿題が、今を生きる私たち一人ひとりに課せられているのです。
【参考図書】
  • 水島宏明「母さんが死んだ-しあわせ幻想の時代に」(ひとなる書房)
  • 久田恵「ニッポン貧困最前線 ケースワーカーと呼ばれる人々」(文藝春秋)


■三木ひとみ
行政書士(行政書士法人ひとみ綜合法務事務所)。官公庁に提出した書類に係る許認可等に関する不服申立ての手続について代理権を持つ「特定行政書士」として、これまでに全国で1万件を超える生活保護申請サポートを行う。著書に「わたし生活保護を受けられますか(2024年改訂版)」(ペンコム)がある。


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