インフレが止まらない中、実質賃金は下がり続けている。厚生労働省が発表した2024年度の「毎月勤労統計調査」(確報、従業員5人以上)によると、物価変動を考慮した1人あたりの実質賃金の月平均は前年度比0.5%減で、3年連続で減少した。

その一方で、景気が良いのが新卒の初任給額だ。業界トップクラスの大手企業が相次いで初任給額を引き上げ、大卒初任給が30万円を超えることは珍しくなくなってきた。一部には、新卒と現役社員の「給与逆転」現象も起きているのだという。
これに不満を持った現役社員は会社に対して、自分たちの給料も上げるよう法的に求めることはできるのだろうか。また、会社側は現役社員の不満とどう向き合うべきなのか。(ライター・樋口正)

新卒に「年収1000万円」提示する企業も

インフレが止まらない中、懐に余裕のある大企業を中心に、多くの企業で賃上げが行われている。
帝国データバンクが実施したアンケート調査によると、2025年4月入社の新卒社員について、支給する初任給を前年度から引き上げた企業の割合は71.0%、平均引き上げ額は9114円になったという。また、初任給額でもっとも多かったのは「20万~25万円未満」(6割)だった。
日本では長らくデフレ不況が続く中、初任給額は抑えられてきた。しかし、ここ1、2年でその状況がガラッと変わったといえよう。同調査によると、初任給額「20万円未満」の割合は24.8%で、前年度から10.4ポイントも減少したという。
現在30代半ばの筆者などは「大卒の初任給」と聞くと「20万円くらいだろう」というイメージを持っているが、ここ最近、大企業を中心に初任給額は30万円台の企業も続出している。
中でも異例なのは、大和ハウス工業だ。
2025年新卒の初任給から一律で10万円引き上げ、大卒初任給額は35万円になったという。他にも、大手銀行の中で初めて初任給額を30万円台に引き上げた三井住友銀行など、各界の人気企業の初任給額は軒並み30万円台を超えてきている。
また、NECでは能力のある新卒社員には1000万円以上の年収を1年目から支給するなど、トップクラスの新卒給与の上がり幅は尋常ではない。

給与の逆転現象が発生…中堅社員「ふざけるな」

冒頭で2024年度の実質賃金が3年連続の減少だったと紹介したが、直近の毎月勤労統計調査(2025年4月分速報、従業員5人以上)でも、実質賃金は前年同月比1.8%減で、4か月連続の減少となっている。
全体的な実質賃金が落ち込んでいるところ、新卒社員の給与ばかりが上がっては、現役社員は「面白くない」と感じるのが本音だろう。
実際に職場で新卒社員と現役社員との「給与逆転」が起きている筆者の知人(IT業界、40代)は、次のように吐露する。
「私の勤務先では、新卒採用で競り負けそうだからという理由で初任給が上がりました。ところが、入社数年目までの若手社員と給与が逆転することになって、若手社員には動揺が広がっているようです。
しかし、売り手市場の今、彼らにはいくらでも転職先があります。おそらく、この後若手の離職が相次ぐことになるため、結局は彼らの給与も上げることになると思います」
さらに、現役社員に追い打ちをかけて「精神的なダメージ」をもたらすのは、就職状況における世代間格差だ。
今の中堅社員は、いわゆる「就職氷河期世代」にあたる人も少なくない。日本経済新聞が6月3日に配信した記事「氷河期世代の賃金なお低く、70歳以上の労働市場整備を」において、東京大学の玄田有史教授(労働経済学)は氷河期世代の賃金が前の世代より低下した背景として、勤続給の影響や年功賃金のフラット化、若年期における人的資本蓄積の不足、そして継続雇用義務化に伴う賃金体系の見直しなど「複合要因」があると指摘している。
ただでさえ給与が低く据え置かれていた氷河期世代の中堅社員からしたら、今の新卒社員の「厚遇」はさらに面白くないことだろう。

上述した知人は、氷河期世代でもある。「正直、今の新卒の給料の上がり方については、ふざけるなと思っています」とやはり不満をぶちまけた。

「給与逆転」法的に争えるか?

もし、職場で「給与逆転」現象が起きた場合、会社に対して「新卒社員の給与を上げたのだから、他の社員の給与も上げてくれ」と求めることは可能なのだろうか。
労働問題に詳しい松井剛弁護士は「法的な請求は難しいと考えられる」と話す。
「労働条件、特に給与に関して会社と交渉することは、労働者の自由な権利です。会社に『納得できないから給料を上げてほしい』と打診することは全く問題ありません。また、団体交渉は憲法で保障されている労働者の権利のひとつであり、これを活用することも可能です。
しかし、給与の増額が法的に当然に認められるものとして裁判で請求できるわけではありません。なぜなら、既存社員の賃上げは労働契約における会社の合意事項ではなく、また賃上げを行わないことが債務不履行や不法行為といった損害賠償請求の根拠にも該当しないためです。
したがって、賃上げなどの要求は、あくまで会社に対して交渉を持ちかける形にとどまることになります」

法的リスクは少ないが…会社側に求められる対応

ただ、会社側も現役社員の不満を放置していて良いわけではない。松井弁護士が続ける。
「新卒の初任給引き上げは、採用難の時代においては合理的な施策と言えます。しかし、それによって既存社員に不公平感が生じるのは当然のことであり、その解消には慎重な対応が必要です。
もし新卒の給与を上げるのであれば、それ以前に入社した社員の給与もベースアップすることを検討すべきです。
評価制度を整えることは重要ですが、現在の賃金体系が評価によって既存社員の給与が新卒よりも高くなる仕組みになっていなければ、その評価制度は意味をなしません。
重要なのは、単なる評価制度ではなく、賃金の仕組み自体を根本的に見直すことです。特に、成果に応じて賞与を含めた待遇(金銭的な報酬)が変わるような仕組みを構築することが、社員のモチベーション維持と公平感の醸成につながります」
こうした動きは、実際の企業事例にも見られる。たとえば、総合商社大手の伊藤忠商事は2024年に新卒初任給を一律5万円引き上げると同時に、全社員の給与を平均で約6%引き上げた。
これは、優秀な人材の確保と既存社員の給与水準向上およびエンゲージメント向上を両立させようとする企業の具体的な取り組みであり、賃金の逆転現象や不公平感の解消に向けたひとつの理想的な形を示していると言えるだろう。

評価制度の運用、すべての企業がうまくいっていない?

評価制度の効果的な運用については、社労士の雲雀田(ひばりだ)孝志氏が、以下の2つの根本的な注意点があると述べる。
1.賃金制度と適切に関係していること
「評価制度が適切に賃金に反映されていないと、社員は評価制度を軽視し、形だけのものになってしまいます。手間だけかかって意味がありません」(雲雀田氏)
2.評価制度が会社の求める人材像と一致していること
「会社が『このような仕事をする社員を評価する』、もしくは『このような成果を出す社員を評価する』というひとつのメッセージが、評価制度の側面になります。ここがしっかりと反映されていない場合、1と同様に手間だけかかり、意味がないものになってしまいます」(雲雀田氏)
その上で雲雀田氏は、評価の視点やフィードバックの方法といった運用面については「すべての企業がうまくいっていないのではないかと思うほど難しい問題」とした上で、具体的なアドバイスを提示した。
「評価の視点については、評価者研修で具体的な評価方法を教育することと、2次評価により部門ごとの偏りを是正することを毎年繰り返して、制度を熟成させていくことが必要と考えます。
フィードバックの方法については、評価期間途中での中間面談を必ず行うこと、そして形だけのフィードバックにならないよう、フィードバック面談の内容を報告させることが効果的ではないでしょうか」
今後、企業が持続的に成長していくためには、採用競争力の強化と同時に、長年会社を支えてきた既存社員の待遇についても積極的な施策を展開していく必要がある。
彼らが納得して働き続けられるような、より公平で透明性の高い賃金・評価制度を構築していかなければ、結局のところ、人材は定着しないのではないか。

■樋口 正
ライター・Web編集者。経済メディアを中心に活動中。投資、教育、不動産、テクノロジー、ビジネス、恋活・婚活などのジャンルで記事を執筆・編集している。


編集部おすすめ