最高裁判所は6月27日、2013年~2015年に政府が行った生活保護基準の引き下げが「違法」なものと断じる判決を下しました。最高裁が政府の行為を違法と明確に断じることはめったにありません。
そのことが、政府による「不正」がいかに重大で、かつ、原告らの人としての尊厳を踏みにじるものだったかを示しています。
しかも、本来、生活保護はすべての人にとっての「万が一の備え」である社会保障制度の一つです。誰しも事故、病気、失業、離婚、介護といった予期せぬ出来事により、一時的に、または一生涯の支援を必要とする立場になり得ます。その意味で、政府の「不正」はすべての国民をないがしろにする背信行為です。
ところが、SNSやニュースサイトのコメント欄には、「裁判する元気があるなら働け」などと、不正を行った政府ではなく原告を誹謗(ひぼう)中傷する、自身の立場や分際をわきまえない、的外れで荒唐無稽かつ非人道的な言葉があふれています。
また、そもそも生活保護制度を本来必要としている人のうち約8割が利用できていないといわれているにもかかわらず、統計上、保護費総額の0.5%にも満たず(※)、悪質性が低いケースも多く含まれる「不正受給」が過度にクローズアップされ、しかも「私の知人が…」などの真偽さえ不明な「不正受給事例」がまことしやかに流布します。
※2023年度の保護費総額2兆7901億円のうち、不正受給の額は97億3563.8万円(全国厚生労働関係部局長会議資料(社会・援護局))
背景には間違いなく、「生活保護」という言葉に対する「ずるい」「甘えている」「自業自得」といった根強い偏見と誤解があります。それらを排除するにはどうすればいいのでしょうか。(行政書士・三木ひとみ)

働きながら生活保護を受ける人々

「保護を受けているのに働いているなんてズルい」といった声がネット上ではいまだに散見されます。しかし、働きながら生活保護を受けることにまったく問題はありません。むしろ「できる範囲で働いて、生活の一部を自分の力で支えること」は、生活保護の本来の理念にぴったり合っています。
他方で、「働いても、働いた分は全部、生活保護費から引かれるんでしょう?」という誤解も根強くありますが、実際には収入分を差し引いて保護費が調整されるだけです。
また、「就労基礎控除」や「必要経費控除」などが制度上しっかり存在しており、働くことに対して一定のインセンティブが設けられています。

これは、「支える側」から「支えられる側」になったとしても、またそこから「自立」へと歩み直せることを前提とした制度だからです。
生活に困っていることが変わらない以上、制度から締め出されるようなことはありません。生活保護費の給付は生活費の不足分を補うものなので、就労による収入を申告して、不足分を給付してもらうことに何ら問題はありません。

収入申告のルールと制度の趣旨

ただし、収入を申告しないと、仮に故意でなくても不正受給と判断される可能性があります。そうなると、保護費の返還を求められるだけでなく、支給停止や、場合によっては刑事罰が科せられることもあり得ます。
アルバイト、パート、内職、日雇い、クラウドワークスなどの在宅収入、副業、さらには友人からの謝礼的な金銭の受け取りまで、どんな形であれ金銭的な価値を伴う収入を得た場合は、すみやかに担当のケースワーカーに申告する義務があります。
給与明細のコピーなどを添えて提出するのが一般的ですが、なくても申告できます。
そういう人が、ついアルバイト代の申告を怠ってしまったら、結果として生活保護を打ち切られたらどうしようかと、ウソにウソを重ねることにもなりかねません。
私は行政書士として、しばしば過去の収入未申告の相談を持ち掛けられることがあります。その場合は、「とにかく今すぐ、事実を申告してください」と伝えます。現に生活困窮しているのに、生活保護が廃止されることはありません。
保護を継続しながら、過去の収入申告漏れによってもらいすぎた保護費を、毎月無理のない金額で分割返済する方法もあります。
中には、ギリギリの生活で節約を重ねても月半ば食費がなくなってしまい、とりあえず日銭を稼げるアルバイトを探し、障害や病を隠して働こうとする人もいます。

最高裁が違法と断じた、政府が2013年~2015年に行った生活保護基準引き下げのしわ寄せが、こんなところにも表れているのです。
しかし、健康と命を危険にさらしてまで働かなくても、正直に、ありのまま、ケースワーカーに相談すれば助けてもらえます。食糧が月半ばになくなった場合、次の保護費支給日まで絶食するわけにはいきません。必ず行政が支援してくれるしくみになっているのです。
しかし、ケースワーカーとの上下関係のようなものができあがってしまっていて、怖くて聞けないという声もよく聞きます。
また、先入観や誤解に基づく心ない「イチャモン」以外の何物でもない誹謗中傷がネット上に出回っている現状は、受給者の自立支援の妨げにもなっています。
前述の政府による違法な生活保護基準引き下げの罪深さは、政府が法制度をねじ曲げ、そういった理不尽な俗情に迎合・結託し、あおった点にもあります。

根は同じなのに…健康保険と生活保護の「イメージの違い」と偏見

生活保護制度は、健康保険と同様に「みんなで支える仕組み」である社会保障制度の一環です。本質的には、どちらも共助の理念のもとに成り立っている制度です。
それなのに、健康保険は「使って当然」と認識され、生活保護は「使いたくない」「恥」と思われるどころか、利用する人がバッシングまでされるのは、なぜでしょうか。
一つの要因として、前述した誤解に加え、制度そのものの『見える化』がされていないことが考えられます。
たしかに日本では、税金の仕組みが分かりづらく、何にいくら使われているのかが市民の実感としてつかみにくいのが現状です。そのため、生活保護に限らず、公的サービス全般に対して「何に使っているのかわからない」「高い税金を払っても、自分には何の恩恵もない」という不信感が募りやすいのです。

たとえばスウェーデンでは、納税者が自分の払った税金の使途を簡易的に知ることができるオンラインツールが用意されています。透明性があるからこそ、高い税負担にも納得感が得られます。
日本が北欧とまったく同じ制度設計をとることはできなくても、生活保護に限らず税金がどのように使われているのかを、より分かりやすく示すことは可能なはずです。
ただし、それだけでは、日本社会にはびこる生活保護に対する偏見や誤解の強固さは説明しきれません。
「健康保険なんて使いたくない」という言葉を、いまだかつて聞いたことはありません。一方、同じ仕組みの「生活保護」はどうでしょうか。捉え方の違いはどこから生じているのでしょうか。その誤りを正すには、何をどうすればいいのでしょうか。

偏見を助長する「保護」ではなく「生活保険」という言葉を

本来、生活保護は「最低限度の生活の保障」と「就労支援(=自立支援)」という二本柱で成り立っています。ところが、名前の持つイメージから、日本ではどこか、特別な人のための制度という認識が根強くあります。
その誤解こそが、制度を利用することへの「恥の意識」や「遠慮」を生み、支援を必要とする人の命を、時に手遅れにしてしまうこともあるのです。
「生活保護」という言葉には、「保護してやる」「救済してやる」というニュアンスが含まれます。受ける側はどうしても、申し訳なさや恥ずかしさを感じてしまうのです。

言葉の力は、時に人生を左右します。「保護してやる」という響きをもつ「生活保護」という言葉が、どれだけ多くの人に「自分は社会のお荷物だ」と思わせてきたか。
また、どれほど多くの人に「働かざる者食うべからず」「自己責任」などの粗雑で勘違い甚だしい妄言・暴言を吐かせてきたか。
生活保護制度の価値をゆがめているのは、その名称がもつ無意識のラベリングかもしれないのです。
生活に困っている人々を支援するための公的な扶助制度は、日本だけでなく世界中にあります。
イギリスでは「所得補助(Income Support)」、フランスでは「積極的連帯所得手当(Revenu de solidarite active(RSA))」、ドイツやスウェーデンでは「社会扶助(ドイツ:Sozialhilfe、スウェーデン:Socialbidrag)」、アメリカでは「一時扶助(Temporary Assistance for. Needy Families(TANF))」と呼ばれ、それぞれの国で工夫をこらしながら、困っている人の生活と自立を支援しています。どれも「保護」というニュアンスはありません。
そこで提案したいのが、「生活保険」という呼び方への変更です。「保険」であれば、「困ったときの備え」「お互いさまの仕組み」といったニュアンスが生まれます。

「言葉」が意識を大きく変えることも

言葉の持つイメージは決して侮ることはできません。
かつて、「精神薄弱」という言葉が法令で使われ、教科書にも載っていた時代がありました。「そんな呼び方は失礼だ」という市民運動が起き、「知的障害」という言葉に改められました。
用語変更にかかった年月は38年。それでも変わりました。
「家長制度」が「DV(ドメスティック・バイオレンス)」という言葉に置き換えられたことで、かつて「しつけ」や「家のこと」として見過ごされていた暴力が、ようやく社会問題として可視化されました。
同様に、「ヤングケアラー」という言葉が注目されるようになった背景には、長らく当然とされてきた「献身」や「家族のための自己犠牲」という美名に隠れた害悪や欺瞞(ぎまん)性が認識されてきたことにあります。とりわけ女性や子どもに暗黙のうちに強いられてきたことが、ようやく言葉によって問い直され始めたのです。
このように、言葉が変わることで社会の認知が一気に進み、支援の手が届くようになった例は少なくありません。名称変更は、偏見を和らげる「はじめの一歩」として、確かな力を持っているのです。
名称を見直すことは、法改正がなくても、行政文書や報道、支援現場での表現から徐々に始めることができます。「生活保険」という呼び名が定着すれば、言葉が人の心に与える影響も、社会のまなざしも、きっと少しずつ変わっていくはずです。
現状、日本では、決して少なくない人が生活保護制度のあり方を正しく理解せず、あるいは意図的に曲解し、それに基づいて制度自体を誹謗中傷しているといっても過言ではありません。日本社会の成熟度の低さとモラルの欠如を世界に露呈しているといわざるを得ないのです。
なお、最近はやりの“排外主義”の風潮に乗ってまことしやかに流布されている「外国人には簡単に生活保護を出すのに日本人には厳しい」「外国人への生活保護は最高裁の判例で違憲とされている」などといった、少し調べればすぐ虚偽とわかる悪質極まりないデマも、同根のものです。

生活に困っている人がその制度を利用して「申し訳ない」とつぶやく社会ではなく、「制度があって、本当に助かった」と胸を張って語れる社会でなければなりません。制度は人を救うものであって、傷つけるものであってはなりません。
「助けてください」の一言さえ発することができない社会は殺伐として脆弱(ぜいじゃく)です。「助け合い」のもとで一人ひとりの尊厳が尊重される、力強い社会を作り上げていかなくてはなりません。


■三木ひとみ
行政書士(行政書士法人ひとみ綜合法務事務所)。官公庁に提出した書類に係る許認可等に関する不服申立ての手続について代理権を持つ「特定行政書士」として、これまでに全国で1万件を超える生活保護申請サポートを行う。著書に「わたし生活保護を受けられますか(2024年改訂版)」(ペンコム)がある。


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