「三菱鉛筆」と「三菱グループ」資本関係は“一切ない”のに、なぜ同じロゴマーク? 商標登録の“意外なルール”とは
日本の代表的な企業グループ「三菱」と、誰もが一度は使ったことのあるだろう文房具メーカー「三菱鉛筆」。ともに明治時代から続く老舗の企業体だが、実は両者の間に資本関係は一切ない。
だが、ご存じの通り、どちらも象徴的な「スリーダイヤ」のロゴマークを使用している。なぜ、このようなことが許されているのだろうか。
一方で、同じロゴマークの使用が許されず、せっかく商標登録したロゴマークを取り消されてしまった企業もある。それが、縁起の良い福助人形のマークで知られる「福助足袋」だ。
現在、広く親しまれているロゴマークが誕生した背景には、かつて「丸福」と名乗り順調に業績を伸ばしていた同社が、ある問題によって「丸福」のロゴマークが使用できなくなってしまったというエピソードがある。
本記事では、これら有名企業のロゴにまつわる歴史とともに、商標をめぐる奥深い世界を紹介する。
※ この記事は、作家・友利昴氏の著作『江戸・明治のロゴ図鑑: 登録商標で振り返る企業のマーク』(作品社、2024年)より一部抜粋・構成しています。

同業他社に商標で負けるも…一念発起で成功した福助

【図1】は、現在は足袋だけでなく、下着やストッキングなども手掛ける「福助足袋」の初期のロゴマークである。明治33年(1900年)に商標登録されてから、2025年の今も、125年にわたり、デザインの基軸が変わっていない(【図2】参照)。その由来は、もちろんその名の通り、縁起物として伝わる「福助人形」だ。
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【図1】福助足袋の初期のロゴマーク(『江戸・明治のロゴ図鑑: 登録商標で振り返る企業のマーク』より)

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【図2】現在の福助のロゴマーク(登録商標第6532961号)

明治33年(1900年)の元旦に、創業者・辻本福松の子、豊三郎が伊勢神宮に初詣でに行った帰りに立ち寄った古道具屋で見つけた福助人形に心を奪われ、家に持ち帰ったのがきっかけとされている。デザインは父・福松の手によるものだという。
この商標には裏話がある。
福松が大阪・堺で足袋業を創業したのは、実は福助の商標を採用する18年も前の明治15年(1882年)のこと。しかし当時は「福助」ではなく、「丸に福」の印を用い、「丸福」と名乗っていた(【図3】参照)。
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【図3】「丸福」時代のロゴマーク(『江戸・明治のロゴ図鑑: 登録商標で振り返る企業のマーク』より)

創業以来、順調に業績を伸ばし名声を高めていた丸福足袋だったが、明治32年(1899年)に問題が起こる。福松よりも先に「丸に福」のロゴマークを使用していたと主張する和歌山県の足袋業者・阪口茂兵衛から、マークの使用中止を求められたのだ。
実は「丸に福」を先に商標登録していたのは福松の方だった。しかし当時の商標条例では、商標制度開始以前から商標を使用していた事業者の既得権の保護のために、他人の商標出願以前に、同じ商品について自分が同一の商標を使用していた証拠があれば、商標登録の方を取り消す旨の規定があった。
福松は争ったが認められず、この規定により福松の「丸に福」の商標登録は取り消されてしまう。
長年親しまれたロゴマークを変更せざるを得なくなった福松は失意に陥るが、友人から「商標で負けても商売で勝てばよい」と励まされたことで一念発起。冒頭の通り、いさぎよく商標を「福助」に改め、今日に至るまで120年以上の歴史を積み重ねている。

「三菱グループ」と「三菱鉛筆」同一のロゴが許されたワケ

120年前に商標が他者とカブったことで、ロゴマークの変更を余儀なくされた事業者がいれば、2つの事業者が同じマークを使ったままで、120年以上併存している例もある。
三菱グループといえば、銀行、重工業、自動車、家電などで知られる日本の代表的な財閥系企業グループである。その「三菱グループ」と、文房具の「三菱鉛筆」は、実は創業時から現在に至るまで、何の資本関係もない。
だが、ともに社名に「三菱」を冠し、同じスリーダイヤの商標を使っているのだ。これはどういうわけだろうか?
「三菱鉛筆」と「三菱グループ」資本関係は“一切ない”のに、なぜ同じロゴマーク? 商標登録の“意外なルール”とは

【図4】三菱鉛筆のスリーダイヤ。三菱財閥も同じロゴマークを使用している(『江戸・明治のロゴ図鑑: 登録商標で振り返る企業のマーク』より)

実は、三菱鉛筆の商標登録は三菱グループよりも早かった。
創業者の眞崎仁六は、上京して貿易商社で働いていたが、出張で赴いたパリ万国博覧会で出会った欧米産の鉛筆に心を奪われる。以来仕事の傍ら鉛筆製造の研究に打ち込み、明治20年(1887年)に眞崎鉛筆製造所を設立した。
スリーダイヤのロゴマークを採用したのは明治36年(1903年)頃のことで、早くも同年に商標登録された。創業以来、営業に苦労していた眞崎が、ようやく、当時郵便行政を所轄していた逓信省という大口の顧客を得たことを契機に考案したもので、眞崎家の家紋である三つ鱗紋と、逓信省に採用された三種類の鉛筆の図案(【図5】参照)を組み合わせたことが由来とされる。
「三菱鉛筆」と「三菱グループ」資本関係は“一切ない”のに、なぜ同じロゴマーク? 商標登録の“意外なルール”とは

【図5】三菱マークの由来となった「三つ鱗紋と鉛筆」(『江戸・明治のロゴ図鑑: 登録商標で振り返る企業のマーク』より)

実は三菱財閥(岩崎家)によるスリーダイヤの採用はそれよりも早く、原型は明治3年(1870年)からあったとされるが、最初の商標登録は大正3年(1914年)と、かなり後れを取っていたのだ。しかし、同じように先行する使用者がいた福助足袋の「丸福」の登録商標は取り消されたのに、なぜ三菱鉛筆の「三菱マーク」は取り消されなかったのだろうか。
それは、「丸福」は、足袋という商品同士もカブっていたが、当時、造船や金融業を中核事業としていた三菱財閥は、鉛筆の事業を行っていなかったからに他ならない。当時の法律上、商標がカブっていても、取り扱う商品が異なる場合には、商標権を取り消すことはできなかったのだ。
商標登録は商品の分野毎に行われる。
異なる会社がそれぞれ似たようなロゴマークやネーミングを異なる業種で使用していることは、当時においても今日においてもよくあるし、業種が異なれば特段の混乱も生じない。
これが、三菱鉛筆のロゴマークと、三菱グループのロゴマークが同じデザインのまま長年併存し続けている背景である。「ラーメンからミサイルまで」と言われる総合商社だが、文房具だけは三菱鉛筆に譲らざるを得なかったというわけだ。


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