最高裁まで争われ、今年6月、最高裁は原告の請求を棄却しました。
このニュースはネット上でも大きな反響を呼びました。この事件の背後に、福祉事務所による不適切とも思える対応や、若者の未来を左右する制度の矛盾が潜んでいたからです。
本記事では、この事件の経緯と、その背景にある問題点について、その後の展開にも触れながら解説します。(行政書士・三木ひとみ)
生活保護世帯の若者の自立をうながす「世帯分離」
長洲事件を深く理解するためには、生活保護制度における「世帯分離」という仕組みを把握することが不可欠です。世帯分離とは、同じ家で生活していても、生活保護受給世帯の世帯員として扱わないことを指します。
その主な目的は、生活保護受給世帯の子どもを制度上、別の世帯として扱うことによって、将来の自立を促進・助長することにあります。
たとえば、子どもが大学や専門学校などへ進学する際に、その学費や生活費を自分で稼ごうとした場合、生活保護世帯の一因のままだと「収入」として扱われ、保護費が減額されるという不都合があります。
世帯分離が認められれば、就労してもその収入は保護受給世帯の収入申告の対象にならずに済みます。厚生労働省の通知では、看護学校などの専修学校で学ぶ場合は世帯分離の対象に含むと明記されています。
かつては、生活保護受給者が義務教育修了後に就学することは「ぜいたく」とみなされ、原則として認められていませんでした。しかし、高校進学率の上昇を受け、1970年以降、大学や専修学校への進学についても、世帯分離を条件に認められるようになりました。
その趣旨は、子どもの経済的負担を軽減し、教育課程を修了させて十分な「働いてお金を稼ぐ能力」を取得させ、本人および保護世帯の将来的な自立を促進・助長するためです。
しかし、現場では依然として、生活保護を受けながら大学や専門学校で学ぶことは「ぜいたくだ」といわんばかりの運用が続けられているところがあります。
また、学生が学費や生活費を賄うため働いて、それによって収入が増えたことを理由に世帯分離を解除されるならば、かえって自立を妨げ、「貧困の連鎖」を断ち切ることが難しくなり、社会全体が大きなリスクを負うことになります。
なお、「生活保護受給世帯の子が大学へ行くなんてぜいたくだ」など、粗雑かつ浅薄な俗情からくるうっぷん晴らし以外に何の意味も持たない「生活保護バッシング」も一部に根強く、これに拍車をかける危険性をはらんでいます。
就学中なのに世帯分離が取り消しに…裁判に至る経緯
長洲事件で問題となったのは、熊本県長洲町に住む70代のタカノ ミチヒロさん・サトエさんの夫妻と、同居する孫娘のマヤさん(30代)との世帯分離です(いずれも仮名)。マヤさんは、祖父母のタカノさん夫妻と同居しながら、2年制の准看護科で学び、病院に勤務して自身の学費や生活費を工面していました。
タカノさん夫妻は生活に困窮しており、生活保護を申請。マヤさんとの世帯分離が認められ、夫妻の生活保護受給が開始しました。
その約2年後、マヤさんは晴れて准看護科を卒業し、准看護師の資格を取得します。
マヤさんは引き続き看護師を目指し、3年制の看護科に入学。学業と仕事を両立し、早朝から深夜まで病院勤務に明け暮れる日々を送っていました。この頃、マヤさんの収入は手取りで月12万~16万円ほど、総支給額で14万~19万円ほどに増加していました。
次の年の1月に、福祉事務所は、マヤさんの収入が増加し、健康保険や厚生年金にも加入できたことなどを理由に、世帯分離を解除しました。そして、翌年には「世帯の収入が最低生活費を上回るため」として、タカノさん夫妻の生活保護を廃止しました。
これは、マヤさんの収入で祖父母のタカノさん夫妻を養うべきだという意味合いです。
しかし、マヤさんの収入は看護学校の実習期間には激減することが分かっており、将来の学費のために貯金をする必要がありました。
生活保護を打ち切られたタカノさん夫妻は経済的に困窮し、病院受診を控えたり、ガス代が払えず近隣から借金したりする事態に陥りました。マヤさんは祖父母を養うために収入を使えば、看護学校での就学を続けられない状況に追い込まれました。
生活保護廃止から8か月後の2017年10月、生活が立ち行かなくなったタカノさん夫妻が生活保護を再申請した際、福祉事務所の職員が自宅を訪問。
マヤさんが怖がって部屋に閉じこもると、30分にもわたりドアを叩き「出てきなさい!」などと怒鳴り、家にお金を入れるよう迫ったとされています。この暴力的な行為により、マヤさんは精神的に不安定になり、1年間休学せざるを得なくなりました。
幸いなことに、マヤさんは1年間の休学を経て復学し、同じ病院で働きながら、ついに念願の正看護師の資格を取得しました。
2020年6月1日、ミチヒロさんは、生活保護廃止処分の取り消しを求め、熊本県を相手取って提訴に踏み切ります。
一審勝訴だが高裁で逆転敗訴、最高裁でも上告棄却
2022年10月3日、一審の熊本地裁は原告(ミチヒロさん)側の訴えを認め、県の処分を取り消す判決を下しました。中辻雄一朗裁判長は「収入増という表層的な現象しか見ておらず、県の判断は裁量を逸脱・乱用している」と指摘。判決は「世帯の自立という長期的な視点に欠け、違法」であると断じ、「生活保護を打ち切れば原告夫婦が経済的に困窮し、自立しようとした孫に支障が生じる可能性が高いことは容易に予測できた」としました。また、法律上は孫に祖父母を扶助する義務はないと明確に指摘しました。
これに対し、県は控訴。2024年3月22日、福岡高裁は地裁の判決を取り消し、県側の主張を認める逆転敗訴の判決を言い渡しました。高裁は「最低生活費を上回る世帯収入があったことなどから、世帯分離を解除する判断は違法とは言えない」としました。
また、「孫の就学・資格取得により、自立を一応達成することができた」「孫が看護師の資格取得を目指していたという主観的な事情は、自立の目的達成に関する判断を左右しない」などと判示しました。
この判決は、「一応」の自立で十分とすることは、将来的な自立を促す世帯分離の趣旨と整合しないと批判されました。
今年6月12日、最高裁判所は原告ミチヒロさんの上告を棄却し、福岡高裁の判決が「適法である」との判断を示しました。裁判官5人全員一致の判決でした。
最高裁の判断とそれに対する批判
最高裁の棄却決定に対し、SNSなどでは、「判決が間違っているのではなく法律が間違っている」という意見、現行法が時代錯誤であるという意見など、批判の声が殺到。なかには「最高裁の裁判官5人が全員一致で『孫は看護学校あきらめて祖父母の面倒を見ろ』と判決下したって、恐怖だね。『貧乏人は夢など見るな』とエリート様はお考えのようだ」という投稿もありました。
また、この判断により「貧困の連鎖を断ち切れない」との懸念も浮上。国が「ヤングケアラー推進」をしているのではないかという疑問も投げかけられました。
加えて、准看護師の資格は正看護師になるための通過点であり、実習期間は収入が激減するため、学費を貯めるのは当然の計画性だという指摘がありました。
熊本県社会福祉課は最高裁判決に対し、「現行制度ではこの判決が正しく、県の主張が認められたものと考えている。しかし、今後、頑張っている若者を応援できるような見直しが行われる場合には賛同する」とコメントしています。
このコメントはSNSで「は????」と皮肉を込めて受け止められました。
結局、世帯分離が行われ生活保護は再開
この一連の裁判の過程で、重要な事実として、熊本県は一度廃止したタカノさん夫妻の生活保護を、約1年後に再開しているという点があります。県が生活保護を再開した理由は、マヤさんが正看護師の資格を取得した方が自立の助長に効果的であると判断し、改めてマヤさんを世帯分離したためです。
マヤさんは休学を経て復学し、最終的に正看護師の資格を取得し、自立を果たしました。
この生活保護再開の事実とマヤさんの自立は、当初の福祉事務所の「世帯分離解除」と「保護廃止」の判断が、長期的な視点や自立助長の趣旨に欠けていたことを示唆しています。
弁護団の一人である尾藤廣喜弁護士は、「世帯分離の目的を達していないのに、勝手に解除してはいけないんですよ。行政は一貫性がなくてはいけないんです。自由裁量で(人の運命を)決めてはならない」と指摘していました。
今後の課題と問い直される制度のあり方
長洲事件は、たとえ法的には「適法」と判断されても、それが社会の実情や人々の尊厳、そして若者の将来の可能性にどう影響するかという、より本質的な問題を浮き彫りにしました。現在の生活保護制度は、大学や専門学校への進学者を世帯分離する運用を続けています。しかし、社会全体としては子どもの貧困対策法や修学支援新制度の導入、給付型奨学金や学費減免の拡充など、教育機会の保障と自立支援の方向へと進んでいます。
この事件は、必要な人が適切な保護を受けられ、そして自立を目指す若者の努力が踏みにじられることのないよう、生活保護制度の運用と法律そのものの見直しが強く求められていることを示しています。
貧困の連鎖を断ち切り、実質を伴った経済的自立を促すためには、どうすればいいのか。働きながら学業を続ける人については世帯分離の継続を支援する方向での運用を行うべきなのか。あるいは、そもそも世帯分離しなくても大学や専門学校へ進学できるしくみに改めるべきなのか。
この事件を通して、生活保護にとどまらず、一人ひとりの尊厳と将来を支える、社会保障制度のあり方の全体像を、改めて深く考える必要があります。
三木ひとみ
行政書士(行政書士法人ひとみ綜合法務事務所)。官公庁に提出した書類に係る許認可等に関する不服申立ての手続について代理権を持つ「特定行政書士」として、これまでに全国で1万件を超える生活保護申請サポートを行う。著書に「わたし生活保護を受けられますか(2024年改訂版)」(ペンコム)がある。