今年のNHK大河ドラマの舞台になっている江戸の町。その中で奉行所は、現代の司法機関である裁判所と警察・行政を兼ね備え、社会システムを支える要だった。
本連載記事はそこで働き、また関わりのあった人々を解説。ドラマでは語られることのないリアルな江戸の姿に迫る。(本文:小林明)

戦国時代から徳川家康に重用された吏僚

今回は江戸初期の名奉行とうたわれ、のちに京都奉行→京都所司代を歴任した板倉勝重(いたくら・かつしげ)を取り上げましょう。後世の人々がその活躍を判例集『板倉政要』にまとめた人物です。
勝重は1545(天文14)年、松平氏の家臣・板倉家の次男として、三河国(現在の愛知県東部)に生まれました。幼くして出家し、僧として生きる宿命のはずでしたが、父親と、父の跡を継いだ弟が戦いでともに死去したため、板倉家は断絶の危機に陥ります。
ところが僧侶となった男子がいることを松平の当主・徳川家康が知り、勝重は家康の命で還俗(※仏門を離れ再度俗世へと戻る)。徳川に仕えることになるのです。
このとき、すでに37歳でした。30代半ばまで仏門で修行した経験からくる思慮深さがあったのでしょうか、家康からの信任は厚く、1586(天正14)年に家康が駿府(静岡県)に城を移すと駿府町奉行に起用され、駿府および周辺の行政・民政・治安維持を担います。
その4年後の1590(天正18)年、家康は江戸に入府(※都に入る)すると、最初は幼少期からそばにいた忠臣・天野康景を関東代官に任じます。しかし、康景が他の役職に異動となるや、即座に勝重を代官に登用しました。
この代官が江戸の町奉行を兼任するようになり、勝重は施政・裁判にあたることになるのです。

勝重に裁きは誰もが納得したという

こんな逸話が伝わっています。
ある日、裁判を控えた勝重が役所へ向かう途上、女性が声をかけてきました。女性はその日、勝重が判決を言い渡す予定の男性の妻でした。
「どうか夫の罪を軽くしてあげくほしい」と懇願する女性に、「できるだけやってみよう」と勝重は答えました。ところが夫は裁判で要領を得ず、「うつけ」であることを露呈します。夕刻、勝重は裏口で待ち構えていた妻に向かい、「あれでは庇(かば)いきれない」と釈明。妻は「是非もありませぬ」と、納得して帰ったそうです(『江戸の名奉行』丹野顯/文春文庫)。
このエピソードは江戸町奉行の時代のものか、はっきりしませんが、裁判官と被告の家族の“距離”が現代では考えられないほど近く、いかにも裁判制度が整備されていない草創期の江戸らしい話と読むこともできます。また、勝重に対する大衆の親近感も垣間見られるでしょう。
他にも江戸幕府の正史である『徳川実紀』には、
「この人(勝重)に裁判をうけし者は、訴えに負けし者も、おのが罪を悔いた」
とあります。過大に誇張・脚色された可能性は捨てきれないとはいえ、善政を敷き、民衆から慕われた人物だったことをほうふつとさせます。

『板倉政要』にある公平な判例

1601(慶長6)年、勝重は京都奉行に任じられ、その2年後には京都所司代となります。京都所司代は江戸にいる将軍に代わり、朝廷を監視する立場にいました。
また、1601年は関ヶ原の戦いの翌年です。徳川家康に対する不満分子は西日本を中心にいまだに多く、いわばそれらに“にらみをきかす”重要な役職でした。
この京都所司代在職中の勝重と、その子・重宗(しげむね/同じく京都所司代を務めた)が下した公事(裁判)の判例集が『板倉政要』(いたくらせいよう)です。63例の記録が載っており、のちの幕府の法典『公事方御定書』(くじかたおさだめがき)のモデルになったといわれます。
一例を挙げましよう。
洛中(らくちゅう※京都の中心部)の外れに賭場がありました。そこで大負けした男が、「博打でだまされたのでカネを取り戻してほしい」と訴え出ました。
勝重は博打に参加していた全員を呼び出し、「そもそも博打は重罪である。全員、百日の入牢(にゅうろう)に処す。また博打に勝った者は、負けた者にすべて返金せよ」と言い渡しました。
勝っても返金させられ、かつ百日入牢。負けた者もカネは返してもらえても、やはり入牢。
どちらも公平に罰したわけです。博打は割に合わないと大衆に周知させる結果となり、賭け事は自然と少なくなったといいます。
また、「聖人公事捌」(せいじんくじさばき)」という説話も所収されています。
貧しい者がカネを拾い所司代へ届け出たので、告知の札(ふだ)を立て、落とし主を探しました。すると、ある町人が「私のもの」と名乗り出ましたが、たいした金額ではないから「謝礼として拾った方に渡してほしい」と言います。しかし、拾った方も「いらない」と突っぱねる。そこで所司代・板倉が自腹を切ってカネを出し、双方が同じ金額を受け取れるよう計らって落着した——。
ここには、この連載の「大岡越前」の章(https://www.ben54.jp/news/2052)で紹介した「三方一両損」の原型があります。
実は「三方一両損」は、さかのぼれば中国宋代の故事にある説話です。つまり説話から盗用し、勝重の話として創作されたに過ぎません。しかし大切なのは、民衆が自分たちを支えてくれる温情深い奉行がこの世に存在することを願っており、その願望に板倉勝重が合致して、話が創作されたという点にあるでしょう。
実際、『板倉政要』が編まれたのは元禄年間(1688~1704)で、勝重・重宗親子が生きた時代から30~40年たっていました。
板倉家の親子2代の善政が、30~40年の間に醸成され、『板倉政要』に結実したわけです。
「奉行が守るべきことのひとつは賄賂を受け取らないこと」(『名将言行録』)
勝重は、そう公言したといいます。こうした率直さを6代徳川将軍・家宣の侍講(将軍に学問を教える学者)・新井白石も、次のように高く評価しています。
「(勝重は)出世を望むことも、志が廃れることもなく、天下が皆その能を称した」(『藩翰譜』)
江戸時代初期に実在した清廉潔白な裁判官として、記憶にとどめたい人物——それが、板倉勝重なのです。
【参考図書】
  • 文芸と思想『翻刻「板倉政要」』大久保順子/福岡女子大学国際文理学部紀要
  • 『江戸町奉行』横倉辰次/雄山閣
  • 『江戸の名奉行』丹野顯/文春文庫
  • 『町奉行』稲垣史生/新人物往来社

小林 明
歴史雑誌・書籍編集兼ライター。『歴史人』(株式会社ABCアーク)、『歴史道』(朝日新聞出版)の編集を担当。また、『一個人』(一個人出版)への執筆をはじめ、webメディアでは『nippon.com』『ダイヤモンド・オンライン 』『Merkmal』などで連載。近著は『山手線「駅名」の謎』(鉄人社)。


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