
しかし、刑罰とは被害者やその家族が加害者に「復讐(ふくしゅう)」するために存在している、というイメージは根強い。そのため、犯罪事件が報道されたら、ネット上では加害者に対する厳罰を求める声に溢れるのが日常茶飯事だ。だが、短絡的な加害者バッシングは、被害者の救済にも社会の改善にもつながらない。
本記事では、元代議士の山本譲司氏が中高生に向けて執筆した書籍『刑務所しか居場所がない人たち 学校では教えてくれない、障害と犯罪の話』(2018年、大月書店)から、犯罪加害者がハンディキャップを負っているケースや「自己責任論」が浸透した日本社会の問題について書かれた内容を、抜粋して紹介する。
「被害者の気持ちはどうなるの?」
「もしも自分が被害者だったら、犯人を決して許さない!」テレビの事件報道を見て、君も憤ったことがあるんじゃないかな。被害者の無念さを思い、あるいは自分の家族が被害者になることを想像したとき、犯罪加害者に対して、はげしい怒りがわいてもおかしくはない。
犯罪加害者に対する社会の風当たりは、とても強い。インターネット上では発信者の名前や顔がわからないことも手伝って、加害者バッシングの嵐だ。
「極刑(死刑のこと)にしろ」
「二度と刑務所から出すな」
そんな言葉が、ちゅうちょなく発信されている。被害者が犯人を罰したい気持ちを代弁するがごとく、徹底的に加害者を責め立てる。ちょっとでも加害者をかばう人があらわれようものなら、「自分の家族が被害にあっても、同じことを言えるのか!」と詰めよる。
少し前だけれど、2007年に大阪府八尾(やお)市の駅前で、知的障害のある男性が、3歳の男の子を歩道橋から突き落とす殺人未遂事件があった。当時、朝のワイドショーの司会者は吐き捨てるように言った。
「障害者の人権なんて言っているから、健常者の人権が守られないんですよ」
とても痛ましく、重大な事件であることはまちがいないけれど、この司会者の発言も過激だ。これじゃまるで、障害者と健常者が対立する存在みたいな言いかたじゃないか。
僕は、視聴者からクレームが来るんじゃないかと思って、テレビ局の人に聞いてみた。すると、予想は大ハズレ。
「局としてはまずいのですが、視聴者からは『さすが!』と司会者をほめたたえる声が届いています」
司会者の発言には称賛の声が集まった(イラスト:わたなべひろこ/『刑務所しか居場所がない人たち』より転載)
刑罰は「仇討ち」のためのものではない
被害者やその家族への救済は、たしかにたいせつだ。なんでもかんでも犯罪を許せとは僕も思わない。日本では、犯罪被害者に対する賠償制度がずいぶん遅れている。国の「犯罪被害給付制度」は、殺人や傷害致死事件などで被害者が死亡した場合、遺族に最高約3000万円が支払われる。けれど、給付にはいろいろと条件があって、2011~15年度の平均支給額は約540万円にとどまる(「毎日新聞」2017年5月30日、東京夕刊)。
被害者や遺族の気持ちを手当てする制度は、決して十分ではない。
でもね、きびしいようだけれど、被害者が犯人を憎む気持ちと、刑事罰のありかたは、切り離して考えなければいけない。
刑事罰は仇討ち(あだうち)のためではなく、社会の秩序を守るためのものだ。もし、憎しみの度合いによって刑事罰を決めたら、“目には目を、歯には歯を”のように、報復が連鎖する社会になってしまう。
いまの社会は、どうも犯罪の“入り口”しか見ていないように思える。事件が起きて、逮捕されて裁判が終わるまでは、マスメディアも、ネット上のコミュニティも大さわぎする。ところが、重い判決が出ればいっちょう上がりで、すぐに事件のことは忘れられる。あれほど声高に叫んでいた、被害者の心情についても置き去りだ。
罪を犯した人の多くは、人生のほとんどを被害者として生きてきている。身体や知能にハンディキャップがある、あるいは家庭が貧しくて、十分な教育や愛情を受けられずに育った人がとても多い。もちろん、そうした人たちの全員が罪を犯すわけじゃないけれど、周囲の支援がとぼしくて孤立すると、犯罪に至るリスクは高まる。
イラク人質事件で広まった「自己責任」の風潮
犯罪は加害者の“自己責任”で、本人だけが悪いみたいに思われているけれど、社会にも責任の一端があるんじゃないだろうか。自己責任の風潮が広まったのは、いつからだと思う? 君はまだ生まれる前だったかな。2004年に起きた「イラク日本人人質事件」がひとつのきっかけだ。
3人の日本人が、ボランティアや取材のために、当時戦争中だったイラクの紛争地帯に渡り、武装集団につかまった。
すると、当時の小泉純一郎首相は、早々に自衛隊を撤退しないことを表明し、外務省の竹内行夫外務次官(当時)は「自己責任の原則をあらためて考えてほしい」と発言した。
「自己責任」は、その年の流行語大賞になったほど社会に浸透したよ。弱い立場の人を切り捨ててでも、社会を防衛しようという空気が日本中をおおった。罪を犯した人の事情を無視して「悪い人」と切り捨てる空気は、その延長線上にあるように思う。
さて、この状況がずっと続いていいのかな?
いま、君にできることは、社会の常識を疑ってみること。被害者の心情を想像して、加害者をバッシングするだけで、安心して暮らせる世の中になるのか? そう自問自答することから社会は変わっていくし、君自身も成長するはずだ。
■山本譲司
1962年生まれ、元衆議院議員。2000年に秘書給与詐取事件で逮捕、実刑判決を受け栃木県黒羽刑務所に服役。刑務所内での体験をもとに『獄窓記』(ポプラ社)、『累犯障害者』(新潮社)を著し、障害を持つ入所者の問題を社会に提起。NPO法人ライフサポートネットワーク理事長として現在も出所者の就労支援、講演などによる啓発に取り組む。『覚醒』『エンディングノート』など小説も執筆(いずれも光文社)。