
本記事では、このロングセラー商品が生まれた背景にある秘話と、知財をめぐる知られざる戦いの歴史を紹介する。
※ この記事は、作家・友利昴氏の著作『江戸・明治のロゴ図鑑: 登録商標で振り返る企業のマーク』(作品社、2024年)より一部抜粋・構成しています。
妻の“工夫”から生まれた「亀の子たわし」
いつからこの世に存在したのかを考えたこともないほど、日本人の生活史に溶け込んでいる商品のひとつ「亀の子たわし」。もっと昔からあってもおかしくないような気もするが、初めて世に出たのは明治40年(1907年)のことだ。創業者の西尾正左衛門は、東京に自生するシュロ(ヤシ科の樹木)の繊維を使った製品を販売しており、主力製品は靴拭きマットだった。強靭でコシのあるシュロの繊維は、靴底にはさまった泥や砂利を落とすのに適していたが、やがてこの事業が伸び悩む。
打開策を考えていたある日、正左衛門は、妻・やすが、靴拭きマットの材料になるシュロ棒(針金を用いて棒状に加工したシュロ繊維)を折り曲げ、楕円状にして障子の桟を掃除していることに気付く。ここから、彼はシュロ棒を丸めてたわしとして売り出すことを思い立つ。
たわし自体は以前から存在したが、縄や藁を束ねて丸めてつくったものが主だった。それらと比べて耐久性と洗浄力が格段に優れ、かつ持ちやすい商品になると確信した正左衛門は、原料をより耐久性に優れたパームヤシの繊維にして「新たわし」を完成させる。商品名を「亀の子たわし」としたのは、その見た目が亀に似ているからである。
亀の子たわしのロゴマーク(『江戸・明治のロゴ図鑑: 登録商標で振り返る企業のマーク』より)
いくつもの裁判で類似品と戦う
この発想は見事に当たり、また正左衛門の熱心な営業活動の甲斐もあって、亀の子たわしは順調に売り上げを伸ばす。さらに知的財産にも意識が高かった正左衛門は、特許権、実用新案権、商標権を次々に取得し、盤石な保護体制を築いていた。商標権に関しては、「亀の子たわし」の登録だけにとどまらず、こんな工夫も。明治44年(1911年)に、正左衛門は「鶴たわし」「小判たわし」「かめたわし」(容器の「甕」である)「亀甲たわし」「亀の子ぶらし」「鶴亀たわし」と、「亀の子たわし」から連想されるさまざまな商標をいくつも登録している。これらが、「亀の子たわし」をもじった便乗品、類似品を一気に網にかけるための戦略だったことは想像に難くない。

正左衛門が自ら商標登録した類似商標(『江戸・明治のロゴ図鑑: 登録商標で振り返る企業のマーク』より)
だが、こうした努力にもかかわらず、正左衛門は多くの類似品に悩まされることになる。いくら知的財産権をたくさん取得していても、亀の子たわしの構造はあまりにも単純だった。まねしようと考える不届きな同業者は後を絶たなかったのだ。
そのため、正左衛門は、自社商品を守るためにいくつもの裁判で類似品業者と争わねばならなかった。なかには、「自分の方が先に『亀の子たわし』のアイデアを実施していた」として、正左衛門の特許権が無効だと主張する業者もおり、攻防両面での必死の戦いが続いた。
こうした争いに疲弊した正左衛門は、やがて発想を転換。類似品をムリヤリ締め出すのではなく、顧客にむけて「亀の子たわし」のブランド力をめいっぱいアピールすることで、類似品との差別化を打ち出す戦略を採ったのだ。
その具体策のひとつが、大正8年(1919年)、それまで裸のままで売られることが常だったたわしを、高級感の演出のために、紙で個包装して販売するというアプローチだった。
そんなことをしたらコスト高を招き、消費者はますます安価な類似品に流れてしまう、と心配するむきもあったというが、正左衛門のこの戦略は見事に当たる。
明治42年(1909年)に発売された、味の素社のうま味調味料「味の素」と並んで、明治時代の日本の二大発明とも称される「亀の子たわし」は、今日も亀の子束子西尾商店の基幹商品として現役だ。