幼少期から親の機嫌をうかがい、断続的に心身の苦痛を強いられた児童は、発達過程で弊害が生まれる懸念が指摘される。対人関係の構築に支障をきたしたり、精神的なトラウマを負ったり、自己肯定感が低くなったりと、虐待の代償を負う可能性は高い。
また最近では、教育虐待を受けた当事者による、社会的事件も明るみに出た。
今年5月には、東京メトロ南北線の東大前駅(東京都文京区)で、男性客が刃物で襲われる事件が発生。
各紙の報道によると、殺人未遂と銃刀法違反容疑で逮捕された男性(事件当時43歳)は、「東大を目指した、教育熱心な世間の親たちに、あまりに度が過ぎると子どもがぐれて、私のように罪を犯すと示したかった」と供述したという。
もちろん残忍な容疑者の犯行は許されることではない。それでも、教育虐待を受けた当事者は罪を犯すほど鬱屈(うっくつ)とした思いを抱え続け、犯罪行為の動機の一部となった可能性が示唆されている。
幼少期から教育虐待により抑圧された結果、当事者はどのような生きづらさを抱えてきたのだろうか。世間がなすべきは、加害者の残忍性を取り沙汰することではなく、教育虐待を受けた当事者がどのような苦悩を抱えてきたのかを理解することではないだろうか。
今回、一人の女性が教育虐待の実体験を語るとともに、その後どのような苦悩を抱えてきたのか、赤裸々に明かしてくれた。(佐藤隼秀)
同級生からは泥棒やバイ菌扱い
ゆきさん(24歳・仮名)は、小学生の頃から、母に勉強漬けの日々を強いられてきた。テストの点数が上がらなければ「出来損ない」と怒鳴られ、罰として食事を抜かれることもあったという。勉学以外でも、母は何かとゆきさんの自由を縛る傾向にあった。
思春期になれば、当然のように化粧やネイルをしたい年頃だ。それでも母は、オシャレを覚えたゆきさんに過度に暴行を振るい、恋人を作ることも禁止した。中学2年生まで「性的にいやらしい」という理由から、ブラジャーすら与えなかったほどだった。
なぜ母はそこまで厳しく接するのかーー。理由こそ聞かされることはなかったが、父はアルコール依存症で働かず、母が家庭を支えていたという。母もまた家庭内のストレスを娘にぶつけたり、あるいは自慢できるような娘に育てたいという願望があったりしたのかもしれない。
しかし、膨らむ母の期待とは対照的に、ゆきさんの成績は伸び悩んだ。いまでこそ診断が下りているものの、ゆきさんは発達障害を抱えていたとされ、その影響で学習にも困難をきたしていた。
発達障害とは、子どもの発達過程において、認知機能や行動に遅れや偏りが生じる状態を指す。通常、発達障害は先天性のものであるとされているが、ストレスや家庭内での暴力など後天的に症状が悪化するケースも確認されている。
代表的な症例としては、コミュニケーションや対人関係の困難、注意欠陥多動性障害(ADHD)、読み書きや計算に支障をきたすと知られている。ゆきさんの場合、学校の授業時間に立ち歩いたり、忘れ物が多くて担任に叱られたり、同級生との会話でも一方的にしゃべってしまったりする兆候が見られた。
そんなゆきさんは、周りからどこか浮いた印象を与え、学校の同級生からいじめの標的にされがちだった。加えて、皮膚にあるひどいアトピーの湿疹や、両親が給食費を滞納していた事実も、いじめのきっかけに繋がったと振り返る。
「同級生からは『バイ菌』と呼ばれて敬遠されたり、『(給食)泥棒は学校に来るな』と言われたり、アトピーでただれた皮膚を引っかかれたこともあります。
もともとしゃべるのが苦手で、嫌がらせを受けても言い返せず、それを良いことにいじめはエスカレートしていきました。同級生は、わざと私のお道具箱やランドセルに物を入れて泥棒扱いしたり、物を拾おうとすると『菌がうつるから止めて』と言われたり……陰湿な嫌がらせを受け続けてきました」(ゆきさん)
母は、学校でのいじめを察すると、「勉強で見返しなさい」と教育虐待に拍車をかけた。皮肉にも、ゆきさんは、学校からも家庭からも自己を否定され続け、閉塞(へいそく)感に苛(さいな)まれていった。
出会いカフェに入り浸るように
家庭からも学校からも抑圧され続けてきたゆきさんは、18歳の頃から性的に逸脱し始める。連日、マッチングアプリや出会いカフェ(来店した男性客が合意のもと女性客を店外に連れ出せる店舗。売春のあっせん場所として知られる)で知り合った男性に体を許すようになったと当時を回顧する。「見ず知らずの男性と性交することで、親からの虐待や同級のいじめによるつらさを、その時だけ忘れられたんです。母から出来損ないと言われ、学校でバイ菌扱いされ続けてきた私でも、体を許せば男性は自分を求めてくれる。
それから母が望んでほしくない娘になろうとしていた節もありました。先ほど話したように、母は恋人を作ることすら禁じていたほど貞操観念が厳しく、それなら見境もなく男性に抱かれようとしました」
一方で、奔放な生活も長くは続かなかった。ある時、アプリで知り合った男性に執着され、援助交際している旨を両親に暴露されてしまう。おそらく、男性がゆきさんの隙をついて財布をあさり、身分証から住所を特定したのだろう。ゆきさんが援助交際をしていると記した手紙が、実家のポストに投函(とうかん)されていたのだ。
当然、ことの経緯を知った母は激高して、無制限での外出禁止を課した。
そこで、ゆきさんも吹っ切れて、実家を出ようと決意する。家出を敢行し、生計を立てるため、コールセンターやスーパーのレジ打ち、工場の派遣仕事など、アルバイトを転々とする。
しかし、発達障害の影響からか仕事が覚えられず、どの職場も続かなかった。職場ではミスを連発して居心地が悪くなり、同僚や先輩からいびられるうえ、自然とシフトも削られていった。
結果的に、ゆきさんは生活費を確保したい事情から、20歳頃からデリヘルでの勤務を始める。
「客はとにかく本番交渉(挿入)を迫る人が多く、要求を断れば暴言を吐かれ、お店のアンケートで最低のレビューを書かれることも多かったです。そのうえ生理的に不潔な中年男性や、連絡先交換を執拗(しつよう)に迫る“痛客”などを相手にせねばならず、勤務するたびに自身がすり減る感覚がありました」
風俗で消耗したくないが、それ以外の仕事は継続的に働くのが難しいーー。
行き詰まった現実から目を背けるため、ゆきさんはアルコールに入り浸るようになる。気づけば風俗の出勤時も、一日中缶チューハイを飲んで気を紛らわし、接客もそのぶんおざなりになっていく。
評判も下がり、週4~5回ほど出勤しても、1日に客は1~2人、稼ぎは月15~20万円と少ない。一人暮らしをするための必要最低限しか稼げず、生活苦も飲酒に拍車をかけた。
夫ができて、風俗を上がるまで
教育虐待、発達障害、学校や職場に適応する困難ーー。あらゆる障壁を抱え、生きづらさを抱えてきたゆきさんだが、そんな中でも続けてきた趣味があった。それが幼少期から習ってきたピアノだった。もともと母に通わされて教室に通っていたものの、不思議とピアノを習うのは苦痛ではなかった。むしろピアノを淡々と弾いていれば、腕前が上達していき達成感も得られる。小学校の頃はコンクールで入賞し、中学では合唱の伴奏を務めるほどの腕利きとなった。
そうした成功体験もあり、ゆきさんはずっとピアノを続けてきた。
そして4年ほど前からは、ストリートピアノ(街の広場や商業施設などに設置された誰もが自由に演奏できるピアノ)を弾き、その様子をYouTubeにアップロードしはじめた。
最初はあがり症を克服したいという思いで始めたが、次第に周りからの反応や評価も得られ、それが生きがいにつながっていた。実際にチャンネルをのぞくと、シューベルトやドビュッシーといったクラシックから、YOASOBIやNiziUといった流行ソングまで、演奏する様子がアップされている。
昨年には、ストリートピアノで演奏後、「YouTubeを拝見しています」と声をかけられた。それが今の夫となる。そして結婚を機に、それまで働いていた風俗から抜け出すこともできた。
「一歩踏み出せるきっかけになれば」
加えて、ゆきさんはXで、教育虐待の実情を発信している。前述した壮絶な半生を投稿することで、次第に自分と近しい境遇の人との交流も生まれ、それも救いになっていると話す。虐待を受けてきた児童は、多くの困難を抱える。心的外傷後ストレス障害(PTSD)やうつ病をはじめ、抑圧されてきたことで怒りや悲しみなどの感情表現が困難だったり、信頼できる人間関係を築くのが難しかったり、自傷行為など自己破壊的な行動を取ったりと、実生活を送るうえで支障をきたす。
また、当事者は生きづらさを抱えるなか、SOSを上げづらいのも一つの特徴だ。
こうした被虐待者は、社会から不可視化されがちだ。そして、前述した東大前駅の事件のように、鬱屈した感情が爆発するケースも起こりうる。
月並みかもしれないが、こうした歪みが解消されるには、学校や職場以外で発散できる場が重要ではないだろうか。
ゆきさんの場合はSNSやYouTubeでの発信が一助となったが、不登校や引きこもりであればオンラインゲームでのコミュニティに参加したり、他者とそれなりに接触できれば当事者同士の自助会もある。
もちろん当事者がそこまでたどり着くには大きなハードルがある。だからこそゆきさんは、家庭や社会で虐げられてきた、自分と近しい境遇の人が「一歩踏み出せるきっかけになれば」と発信を続ける。
「私はいま夫と静かに暮らしています。お金持ちではないし、発達障害やうつ病を抱えていますが、それでも自分を大事にしてくれる人が傍にいるのは幸せだと思えるようになりました。一般の人からすれば当たり前かもしれませんが、虐待を受けた当事者にとっては奇跡のような感覚です」とゆきさん。
過去の壮絶な経験や、そこから普通の日常を獲得した彼女の軌跡が、一人でも多くの虐待サバイバーを勇気づけてほしい。
■佐藤隼秀
1995年生まれ。大学卒業後、競馬関係の編集部に勤め、その後フリーランスに。ウェブメディアを中心に、人物ルポや経済系の記事を多く執筆。趣味は競馬、飲み歩き、読書。