その後待っていたのは、高次脳機能障害を負った被害者をさらに傷つける、終わりの見えない試練でした。保険会社も、医師も、司法さえも、「詐病だ」「精神的なものだ」と疑い続け、心ない言葉を浴びせました。知り合いからも「あの子、詐病で金を狙ってるんちゃうの?どこが悪いん?」などと何度も言われました。
そんな中、すべてを無条件に受け止め、支えてくれたものがありました。それが、「生活保護」です。経済的に困窮したときに申請できる、最低限の生活を保障するための仕組みです。事故の痛み、制度の冷たさ、世間の偏見、それでもなお暮らしていけるように、最後に残された命綱でした。
ユウタくんの母・マリコさん(仮名・当時40代)は「もしこの制度がなかったら、きっと息子と一緒に生きることをあきらめていた」と振り返ります。
交通事故が、社会の仕組みが、何度も親子を押しつぶそうとした20年。それでも生きてこられたのは、生活保護という制度があったからです。(行政書士・三木ひとみ)
謝罪も見舞いもない加害者
救急車が到着したとき、ユウタくんは意識を失い、瞳孔が開いていたといいます。病院で処置を待つ間、母マリコさんの耳に届いたのは、加害者男性の小さな声での「申し訳ありませんでした」だけでした。問いかけても視線を落とし、何も答えず、やがて父親を名乗る人に連れられてどこかへ行ってしまった加害者。しばらくしてマリコさんが「今から先生から説明がありますが、加害者の方はどちらに?」と尋ねると、加害者の父親を名乗る人物はこう言い放ちました。
「赤ちゃんが家におるから帰らせたよ。しゃあないやろ」
被害者が意識不明のまま、手術室にいるというのに。帰る理由が「赤ちゃんがいるから」? その無責任さに、マリコさんの胸に初めて憎しみが芽生えました。
「どういうこと!? 意識不明の人間がいるのに、心配もしないの!?」
怒りの声を上げても、返ってきたのは逆ギレでした。
「だから、わしがここにおるやろ! 赤ちゃんがいるんやから帰るのは当たり前やろ!」
その言葉が、マリコさんの胸に深く突き刺さりました。
1か月ほどたったある雨の日、加害者の妻が玄関先にやってきました。手に持っていたのは、雨でぬれかけたシュークリームの箱。
「すみません、雨で赤ちゃんがぬれるのでお見舞いにこれだけ持ってきました」
具合を尋ねることも、謝罪の言葉もなく、形だけの訪問でした。
「申し訳ありませんが、持ち帰ってください」
マリコさんは、そう告げて箱を突き返しました。それが、加害者側の人物と会った最後でした。
弁護士に相談すると「脅迫になるから加害者側にはなにも言うな。電話もするな、家にも行くな」と強く言い渡され、無力感に包まれました。
医師から突き放される
病院に運ばれ、ユウタくんはなんとか一命をとりとめました。数日後には会話もできるようになり、マリコさんはいったん安堵(あんど)しました。しかし、すぐに違和感が募ってきました。ユウタくんと会話がかみ合わなくなり、「しびれる」「立てない」と訴えるようになりました。しかし、医師はただ「頭を打ったからでしょう。そのうち戻りますよ」と冷たく言うばかりです。
急にぼーっとしたり、目の焦点が合わなかったり、会話が途切れ途切れになったり…。リハビリもままならず、歩くこともできず、奇妙な行動が目立ち始めました。
心配になって何度も医師に相談しましたが、「脳波も異常ない」「精神的なものだ」と繰り返すだけ。セカンドオピニオンを求めて大阪中の病院を回っても、答えは同じでした。
それでも諦めず、やっとたどり着いた病院でこう告げられます。
「中心性脊髄損傷だと思われます」
首の脊髄に深刻な損傷があると診断されたのです。それまでの病院は「異常なし」「レントゲンの傷だ」と取り合わず、脊椎の影を見ても見逃していました。
やっと診断がついて退院が決まったときも、ユウタくんは車いすのままでした。
「うちは玄関が2階です。歩けるようになるまで入院させてください」と願い出ても、主治医は「精神的なものですから、家に帰れば歩けるようになります。早く退院してください」と冷たく突き放しました。
その主治医が何度も加害者側の自動車保険の担当者と話し込む姿を、マリコさんは見ていました。長期入院をいやがった損害保険会社の意向が働いているのではないか…。そんな疑念が湧きました。
高次脳機能障害の症状に苦しむ
転院先のリハビリ病院でも、主治医から突然呼び出され、「徘徊(はいかい)しています」と告げられます。「廊下をさまよい、夜中に自販機の前で立ち尽くし、けいれんし、記憶障害や言語障害もある。おそらく高次脳機能障害でしょう。高次脳機能障害の病院を紹介しますので、そちらにかかってください。
高次脳機能障害、初めて聞く病名でした。退院後、家に戻ると主治医の話のとおりでした。夜中の徘徊、奇声、弓なりに反り返り『うおー!』と叫ぶなど、奇妙な行動が毎日続き、家族は眠れない夜が続きました。
そんな状態でも、加害者側の損害保険会社からは「そろそろ治療を終わらせてもらえませんか」と打ち切りの連絡が入る始末。紹介された専門病院に行っても「精神的なものかもしれない。精神科に入院しますか?」と言われました。
うちの子は精神疾患じゃない! 絶対になにか原因が隠れているはず!
マリコさんは必死で大阪中の病院に診察に行き、原因を追い求めましたが、保険会社からは「またドクターショッピングですか」と嫌みを言われました。
ある朝、「おはよう」と声をかけると、ユウタくんは「…すみません、どちら様ですか?」と答えました。マリコさんは涙が止まりませんでした。
後遺障害について保険請求を行っても、「中心性脊髄損傷と記憶障害は無関係」「他覚的所見なし」とされ、後遺障害は認められませんでした。最初の病院で中心性脊髄損傷の診断がついておらず、首に映った黒いものが「レントゲンの傷」とされていたことが原因でした。
患者が自分の家族でも、同じ診断をするのか? なぜ誰も本気で向き合わないのか?
医師も、保険会社も、誰も本気で向き合わず、ユウタくんを守ろうとしませんでした。信じていたものが次々と崩れ落ち、マリコさんは完全に人間不信に陥っていきました。
地裁判決に希望をもち、高裁判決で絶望
マリコさんが途方に暮れていたとき、交通事故被害者の救済を支援している、弁護士の講演会の記事が目に留まり、わらにもすがる思いでその講演会に参加しました。その講演をきっかけに、ようやく出会えた専門医が親身になって検査を重ね、ユウタくんの障害を次々と見つけてくれました。言語障害、短期記憶障害、半側空間無視、右半身の感覚麻痺、側頭葉てんかん…。ようやく病名が明らかとなったとき、事故からすでに2年がたっていました。
その後、マリコさんは弁護士に相談し、加害者を相手取り、後遺障害についての損害賠償請求の裁判を起こしました。この時点で事故から6年近くが経っていました。その弁護士は「絶対に勝てる」と言いました。
そこからさらに数年後、地裁は、ユウタくんの高次脳機能障害を認め、2億円の賠償を命じる判決を言い渡しました。「約10年もの長い間、演技ができるはずがない」と判示され、ようやく救われた気がしました。
ところが、高裁は違いました。
「最悪や! 裁判長が、出世しか考えてないと有名なヤツに当たった!」と、弁護士は渋い顔をしました。
「そんな裁判長なら認めてくれへんの? 負けたらどうしよ? あの子の生活が…2億円がゼロになったらどうしょ?」
すると弁護士は、「いきなりゼロになることはない。仮に負けても、少し減額や和解になるはずです」と言いました。
マリコさんも、それを信じるしかありませんでした。
ところが、判決はたった一言でした。
「原告の請求を棄却する」
2億円が、ゼロになったのです。
冷たい判決が、マリコさんとユウタくんの希望を奪い去りました。
被害者と加害者、そのはざまで
ユウタくんがリハビリに励む中、ある日、母子は交通事故被害者の救済に取り組んでいることで有名なアラカワ弁護士(仮名)のもとを訪れました。ユウタくんがぽつりと呟きました。
「前みたいに運転したいねん」
マリコさんはあわてて答えます。
「まだ無理ちゃう? 危ないわ。また事故を起こしたら、今度は加害者になってしまうかもしれへんよ?」
するとアラカワ弁護士は、穏やかな口調で言いました。
「乗ったらええよ。事故したら、花束ひとつ持って見舞いに一回行けばええ。そのあとは保険屋がやる」
その言葉に、マリコさんは言葉を失いました。しかし、アラカワ弁護士の表情がどこか悲しみに満ちているのがわかりました。
後で知ったのは、アラカワ弁護士の息子さんもユウタくんと同じように重い高次脳機能障害を負い、車いすから立ち上がることさえできなかったということでした。
アラカワ弁護士もまた、理不尽な事故と、冷たい制度の狭間で、苦しみ、悲しみ、怒り、そして諦めに似た感情を抱いてきたのでしょう。
その日のアラカワ弁護士の言葉は、今も胸に残っています。
「被害者も加害者も、ただの人間や。守られるのは加害者ばかり、そう見えるかもしれんけど、被害者の苦しみを忘れんといてほしい」
加害者は謝罪も見舞いもなく、普通の生活に戻り、笑って暮らしている。それなのに、被害者であるユウタくんは「詐病」と呼ばれ、心身を壊され、社会からも孤立しました。
生活保護という最後の砦
マリコさんは20年たった今も寝つきが悪く、寝てもすぐに目が覚めます。1時間に1回は起きてしまいます。夜中に目覚めると同時に、何とも言えない感情が、からだの奥の奥から吹き上げてくるような感覚になり声をあげて泣くこともあります。寝ているだけで、深い悲しみが真夜中に急に押し上げてくるのです。
「ごめんなさい、ごめんなさい。お母さんが悪かった! つらい思いをさせてしまって! 守ってあげられなかった! ごめんなさい!」
そんな気持ちが胸にあふれ、マリコさんは声を上げて泣いてしまいます。
それは悔しさではなく、「この子は、これからどうやって生きていけばいいのか」という恐怖が、全身を締めつけたからです。
「先生、この子はどうやって生きていけばいいんですか?」
そう尋ねると、弁護士は一言だけ言い残しました。
「生活保護しかありません」
電話はそれきりで切れました。
その瞬間、全てが終わったように思えました。
裁判所も、保険会社も、医師も、誰も息子ユウタを守ってはくれなかった。むち打ちでさえ補償されるのに、ユウタが負った高次脳機能障害は「詐病」だと扱われ、中心性脊髄損傷も「他覚的所見なし」と否定され、カルテには「ドクターショッピング」と書かれていました。
加害者は謝罪も見舞いもなく、平穏に笑って暮らしているのに、被害者であるユウタはリハビリに通いながら孤立し、社会からも責められる毎日です。
それでも、マリコさんは決意しました。
「息子には、せめて生きてほしい」
裁判にも、保険会社にも、医療にも、何も期待できない。それなら、国が用意した最後の砦(とりで)に頼るしかない。そうして、役所の窓口を訪ねました。でも、そこでも、理不尽が待ち受けていました。
役所の窓口や周囲の人々の「ハラスメント」に耐え、生活保護受給
「そんな重大な事故に遭って、保険料とか慰謝料とか沢山もらったんでしょう?」役所の窓口でそう言われ、マリコさんはぼうぜんとしました。
かつてのマリコさん自身も「生活保護なんて恥ずかしい」「みっともない」と思っていました。
元夫のDVから逃げ、幼い2人の子どもを抱えて貧しさに耐えていた若い頃でさえ、保護を受けようと思ったことはありませんでした。
お米がなくなれば友人に頼り、水分の抜けたカチカチのパンを食卓に出し、息子に泣かれ、電気やガスを止められ、1日100円の食費さえなかった日もありました。それでも、「生活保護には頼らない」と必死に働いていました。
けれど、今回は違いました。19歳という若さで、事故により脳に重い障害を負い、記憶も働く力も奪われ、誰も彼を救わず、支えもなく奈落の底に落とされたのです。
「この子の『親なき後』を考えると、私が生きているうちに、自立できる術を身につけさせなければならない。そのために、今は生活保護に頼るしかない」
そう腹を決めたのです。
親戚や周囲からは批判されました。
「格好悪い」
「自分で面倒を見ればいいのに」
「障害者なのに家を出すのか」
「自立なんて無理だろう」
そんな言葉を何度も浴びました。
それでも、勇気を出して役所に行き、そこでさらに傷つけられたマリコさんは、行政書士に相談し、生活保護の手続きを進めました。
それから10年。今では、あの選択が正しかったと心から思っています。
「生活保護は、人生を取り戻すためのステップです」
ユウタくんとマリコさんは、そう言い切ります。
恥ずかしくも、みっともなくもありません。本当に困ったときに、生活保護という制度がある日本。誰もが生きられるように、やり直せるように、国が用意してくれた大切な選択肢です。
「もし生活保護がなかったら、今の私たちはいません」
事故で家庭も何もかもを失った親子が、再び立ち上がれたのは、この制度があったからでした。
今も続く理不尽、そして伝えたい思い
生活保護を受けてから、ユウタくんは少しずつ日常を取り戻していきました。リハビリを重ね、できることをひとつずつ増やし、時にはアルバイトや就労支援にも挑戦しました。それでも、理不尽や偏見は決して消えませんでした。ある日、無灯火の自転車と接触しただけで、高校生に「おかしいんちゃうん!」と怒鳴られ、警察に事情を説明しても「親が見張っとけ!」と冷たく言われました。
ユウタくんは短期記憶障害や言語障害のため、相手の言葉をうまく理解できず、ただ黙ってにらみ付けるように立ち尽くすしかありませんでした。それを周囲からは「態度が悪い」と見られ、非難されます。
具合が悪く役所の障害者用トイレを利用した時も、他の障害者から責められました。高次脳機能障害のために何を言われているか理解できずに黙っていたところ、周囲の人からも「どこが障害者や!」と罵倒されました。
言葉が出ないユウタくんは、マリコさんに電話。役所に駆け付けたマリコさんが障害について説明しても「親子でうそつくな!」と罵られ、結局は泣き寝入りするしかありませんでした。
就労支援B型の施設では、どれだけ頑張っても月に1万5000円ほどしか工賃が出ません。ある日は、職員に突然「サボるな!」と怒鳴られ、抗議すると「健常者と間違えた」と、形だけの謝罪があるのみでした。
知人の紹介で始めた掃除のアルバイトでも、言語障害から仲間外れにされ、「気色悪いやつ」と陰口をたたかれ、孤立して辞めざるを得ませんでした。
どこに行っても、見えない障害を理解されず、常に攻撃の対象にされました。
マリコさんの不安は今も尽きません。
「もし裁判所が正しく請求を認めてくれていたなら、そのお金で『親なき後』の備えができていたのに…」と、夜も眠れない日が続きます。
「加害者は笑って暮らしているだろう、赤ちゃんだった加害者の子はもう20歳、きっと働いているだろう。なのに、ユウタは今も苦しみ続けている」
そう考えると、胸がつぶれる思いがする、とマリコさんは言います。
奪われても、何度でも立つ
ユウタさんが味わった苦しみは「終わったこと」ではありません。今も続いているのです。「どうか、被害者の苦しみを忘れないでください。誰もが加害者になる可能性があります。だからこそ、被害者に寄り添う気持ちを持ってほしい。ユウタのように、声を上げられない人がいることを、覚えていてください」
事故の日、逆ギレしてその後の謝罪にすら来なかった加害者。「詐病」と決めつけ、診断を怠った医師。賠償金をゼロにした裁判所。わずか100万円ほどしか出さなかった保険会社。
守ってくれると思っていた人や制度は、誰も守ってはくれませんでした。
「唯一、私たちを受け入れてくれたのは、生活保護だけでした」
マリコさんはそう振り返ります。生活保護は、最低限の生活を支える制度です。けれど、他のすべての救済から外れた人にとって、生活保護は絶望の中で唯一のよりどころです。
今、ユウタくんは生活保護を受けていません。障害と向き合いながらリハビリに通い、就労支援A型の職場で額に汗して働き、月に10万円ほどを稼いでいます。社会保険にも入れず、生活は決して楽ではありません。これまでにも、働いたり、生活保護に頼ったりを繰り返してきました。それでも、今は自分の足で立っています。
生活保護は、ユウタくんの生活を守る最後の砦であり、同時に、背中を押し、もう一度立ち上がるための踏み台でした。
頼っていいんだと思えたからこそ、何度倒れても、また立とうと思えた。
生活保護は、ユウタくんとマリコさんにとって「生きることをあきらめなくていい」という、静かで力強い支えでした。
奪われるばかりの人生で終わらせないでほしい。生きるために、頼れる制度があることを知ってほしい。
それが、マリコさんがいま伝えたい思いです。
どんなに理不尽な目に遭っても、偏見にさらされても、傷ついても。人は、何度でも立ち上がれます。生活保護という制度が、そのための支えになります。
だから、もしこの先、あなたが苦しみの中で立てなくなったときは、どうか思い出してください。いつでも、何度でも頼れる生活保護が、日本にはあるということを。
■三木ひとみ
行政書士(行政書士法人ひとみ綜合法務事務所)。官公庁に提出した書類に係る許認可等に関する不服申立ての手続について代理権を持つ「特定行政書士」として、これまでに全国で1万件を超える生活保護申請サポートを行う。著書に「わたし生活保護を受けられますか(2024年改訂版)」(ペンコム)がある。