
ド・グレーフは、第一次世界大戦を経て、精神科医としてのキャリアを歩んだ後、刑務所や大学に活動拠点を移動。第二次世界大戦中も、ナチス・ドイツ占領下のベルギーにて、犯罪学を研究し、講義は人気を博していたという。
明治学院大学准教授の梅澤礼氏はド・グレーフの思想について「国外では戦争が終わらず、国内では憎悪犯罪がなくならない、現代社会の理解にも役立つ」と指摘。本連載では、言語の壁などから、これまで日本国内ではあまり注目されてこなかった彼の研究を紹介する。
第1回は「戦争」という状況下で、人々が犯罪に走るプロセスについて、ド・グレーフの分析を取り上げる。
※ この記事は梅澤礼氏の書籍『犯罪へ至る心理』(光文社新書)より一部抜粋・構成。
『犯罪へ至る心理』(梅澤礼、光文社新書)
「ナチス・ドイツも精神を病んでいたのではないか」
講義と診察で多忙を極めつつも、戦争の渦中に投げ込まれた精神科医・犯罪学者として、ド・グレーフは人間について追究しようとしました。精神障害者を「遺伝的疾患の持ち主で、次世代にも病を広げるもっとも危険な連中」として断種したナチス・ドイツについては言うまでもありません。たしかにド・グレーフの『犯罪学入門』の初版にも、改訂時に削除されたとはいえ、遺伝に関する章があります。それでもやはり、精神疾患も犯罪もさまざまな経緯で生まれるものであって、断種で解決できる問題でないことは明らかでした。
まるで動物の改良について話すかのように断種を支持する人々は、人間を外側から判断するだけで、人間の内側で起こっていることを、理解することはおろか、しようとすらできないのだとド・グレーフは言い切っています。
ほかにも数々の非道な行いを目の当たりにしたド・グレーフでしたが、ふと、ベルギーで起きたある事件のことを思い出します。ある老女が、精神を病んだ末に、人は人を無駄にするべきではないと言って、死んだ実の子を食べようとした事件です。
だとしたら、殺した人々の金歯と脂肪を利用したと言われていたナチス・ドイツもまた精神を病んでいたのではないかとド・グレーフは考えます。ナチス党員のなかには、非アーリア人に対する盗み、略奪、暴力、断種、殺人といった集団犯罪をそそのかす、いわば犯罪的人格を持つ人々が相当数いるようでもありました。
占領下で犯罪的な性質をあらわにした人々
ですが、そうした行為をなぜほかの人々も一緒になって実行してしまったのかというのも、無視してはならない問題でした。戦争と犯罪というと、絶大な権力を持つ人間ばかりが注目されがちです。たしかに権力者のなかには、ラカッサーニュ(編注:フランスの医者・犯罪学者)が「カエサル的変化」と呼ぶところの精神的な変化が現れるもので、政治家でも植民地の権力者でもギャングのリーダーでも、後になって振り返ると自分でも直視できないような行動に出てしまうことはあります。
それでもド・グレーフは言いました。
私が指摘したいのは、権力の座にいる人間に起こる変化よりも、権力に加わった人々に起こる適応である。ドイツ占領中、一部の人々は降って湧いたような僥倖を前に、思いのままにふるまい、占領が終わるころには、「つねに正しくすべてが可能な総統」と同じ精神性を身につけていた。平時のような判断ができなくなっていたのは、ナチス・ドイツやそれに与する人々だけではありませんでした。
ドイツ軍が動き出すと、こうした精神のバランスを欠いた人々は、権力を行使する喜びを味わうべく追従した。彼らは、よくない行動をしているのだということがわからず、むしろ正しく行動していると確信していた。その精神は曇り、道徳的判断はできなくなっていたのだ。
1942年には、暴利行為や契約違反といった違法行為がベルギーのあちこちで見られました。
灯火管制も強盗を増加させたし、ドイツへの不服従だけでなく、反対に対独協力を理由にした暗殺も起こりました。普段ならば何の問題も起こさないような人たちが、犯罪的な性質をあらわにしたのです。
犯罪的な本能
それはどんな人間でも、戦争のような時期にあっては、もっとも原始的でもっとも根源的な本能に突き動かされてしまうからなのだろうとド・グレーフは考えました。彼の耳には、ドイツ軍の行進のリズムが響いていました。息を切らせることもなければ止まりもしないかのようなその行進のリズムは、人間の奥底のリズムにぴったりと合っているようでした。そのなかで醸し出される一体感は、かつてドイツの哲学者マックス・シェーラーが指摘したように、指導者との突発的な一体感ではなく、一人一人の動きが独特のリズムで規制され、全体的な熱狂状態のなかで、個人の精神も身体も一つに溶け合ってしまうような一体感でした。
こうして、憎しみや恨みでできたスローガンを共有する人々が、それぞれの本能を同じ方向へと向けていたのです。
だから、敵とはファシズムそれ自体ではないとド・グレーフは言います。ファシズムとは、単に社会の形にすぎないのです。同じように、独裁政権もまた敵ではありません。ある政党や代表者は、ただ指揮をしているだけなのです。群衆は、圧政の犠牲者であるかのように見えて、実際には自らの本能に従っているのです。
「かつての弓は、今日の核兵器」
敵、それは私たちのなかに存在する。それは私たちのなかに、種の起源から存在している。それはナチズムの後も残り続けるだろう。私たちはそれを次の世代へと残してしまうのだ。それが敵であるとさえ、私たちは認めようとしないかもしれない。ナチス・ドイツが崩壊しても戦争の危険はなくならないし、犯罪もまたなくならないというのです。戦後、毒殺犯について説明するなかでも、ド・グレーフは次のように説明しています。
なぜならそれは私たちのもっとも根源的でもっとも触れられたくないところに、私たちの奥深くにあって、それを意識することは私たちを苦しめるからである。
現在では多くの人が、占有した力を使用することに抵抗している。しかし多くの人といっても大多数というわけではないし、誘惑に抵抗しきれるコミュニティもほとんどないだろう。ファシズムの台頭からも、核兵器の使用からも1世紀近くが経とうとしているいま、ド・グレーフの言葉は、私たちが目を背けようとしているところを容赦なく突いてきます。
かつての弓は、今日の核兵器だ。一部の人間が、本来同胞であるはずのほかの人間たちにとっておそろしい力を占有したとき、それを使用しようとしたとしても、なんら不思議はない。それが毒薬か爆弾かというだけの違いなのだ。