NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺』は寛政年間(1789~1801)が舞台だ。その最中の1792(寛政4)年から江戸北町奉行に就き、1811(文化8)年まで数々の事件の解決にあたったのが、小田切直年(おだぎり・なおとし)である。
後世、名奉行の1人として歴史に名を刻んだ人物の事績を振り返ってみよう。(本文:小林明)

武田氏の家臣の子孫

小田切氏は戦国時代、甲斐・武田氏の家臣でしたが、武田が没落したのち、当時の主(あるじ)だった小田切光猶(みつなお)が徳川家康に仕え、武蔵国橘樹郡(むさしのくにたちばなぐん/現在の神奈川県川崎市と横浜市の一部)に知行を賜りました(大名・旗本の家譜集『寛政重修諸家譜』)。
以降、徳川幕府の幕臣(将軍直属の家臣)として活躍し、直年が家督を継いだ宝暦の頃(1751~64)には、約2900石の旗本でした。
直年も幕府に重用され、1781(天明元)年に39歳で駿府町奉行、1783(同3)年に41歳で大坂東町奉行に任じられます。駿府・大坂の奉行は俗に「遠国(おんごく)奉行」といいます。駿府は家康にゆかり深い地であり、かつ幕府の直轄で東海道の要衝という重要な地でした。大坂も特別な場所です。それらを管理する役職を歴任したのですから、有能な吏僚(役人・官吏)だったといえます。
さらに1792(寛政4)年、江戸の北町奉行に就きます。このとき、50歳。直年の北町奉行就任にあたっては、紆余(うよ)曲折あったといいます。
前任の奉行が死去した際、後任に名前があがったのは火付盗賊改方の長谷川平蔵、あの「鬼平」でした。ところが平蔵は幕閣に敵が多く、また火盗改から外すと江戸の治安維持に支障をきたすおそれが生じるなどが懸念され、異論が噴出しました。
代案として浮上したのが直年でした。どんな職務も実直にこなす人柄が評価されたと考えられます。
事実、直年は前例にとらわれない柔軟な考えで難事件に対処し、名奉行の1人に名を連ねることになるのです。

同性愛者の心中という異例の事件を裁く

直年が奉行だった頃の判例を記録した『御仕置例類集』(おしおきれいるいしゅう)によると、彼の特徴は「犯罪者でも人としての名誉は重んじる」「なるべく刑は軽く」の2点にありました。心中事件などに、その傾向がうかがえます。
江戸時代、心中は重大犯罪でした。8代将軍・吉宗が道理に反するものと位置づけ、心中した者は遺体を晒(さら)し、埋葬さえしてはならない、また生き残った者がいた場合も死罪と、『御定書』(おさだめがき/法典)に明文化されていたほど、厳しく罰せられました。
直年が江戸北町奉行の座にいたとき、10歳の商家の少女と、19歳の奉公人が心中し、男だけが生き残るという事件が起きました。当時の最高裁判所である「評定所」の構成員は、男は『御定書』に従って市中引き回しのうえ獄門に処すのが当然との判断を示しました。
しかし直年だけが、どうも単なる心中ではないかもしれないとの疑念を抱き、異議を唱えました。調べた結果、少女が奉公人に性行為を強要したあげく、その最中に突然死したのが真相でした。そこで直年は、処刑はやむなしとしても、せめて埋葬はあって然(しか)るべきと主張したのです。埋葬と、遺体を晒すとでは、本人の名誉のためにも、遺族にとっても、意味がまったく違ってくるからです。

この案は結局退けられましたが、ケース・バイ・ケースによって刑を軽くしてやりたいとの考えが見てとれます。
また駿府町奉行時代には、男性同士の心中という、当時としては珍しい事件を裁いています。
30歳と18歳の2人の修行僧が、人にはいえない同性愛関係に陥りました。2人は富士の裾野で心中を図りますが、あいにく年長の方だけが生き残ってしまいます。このときも慣例に従い生存者を死罪に処する一方で、埋葬だけはできるように諮ったといいます(実際に埋葬されたかは不明)。
大坂東町奉行時代には、ある女盗賊に評定所が死罪を下すなか、1人だけ遠島(島流し)を主張した記録もあります。情状酌量を示す何かが、女盗賊にあったのでしょう。たとえ周囲と意見が異なろうが、過去の判例にこだわらず刑を軽くする——そうした考えの持ち主だったといえます。

凶悪犯・鬼坊主清吉を処罰し治安を回復

一方、法令通りに厳格な判決を言い渡して喝采を浴びることもありました。鬼坊主清吉(おにぼうず・せいきち)事件です。清吉は背中に鬼坊主の入れ墨を入れた強盗団の首領でした。
『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺』でも描かれていますが、直年が生きた時代は自然災害が相次ぎ大規模な飢饉(ききん)が農村で発生、江戸に飢民が流入してきました。
その結果、犯罪や米屋の打ちこわしが横行し、治安は悪化をたどる一途。直年や長谷川平蔵は、その対策に忙殺される日々でした。
鬼坊主清吉はそうした世相を背景に登場し、徒党を組んで路上強盗や引ったくりなど、荒っぽい犯罪を繰り返していましたが、江戸から逃亡したところを捕縛されたのが1805(文化2)年。身柄は護送され、取り調べを担ったのが直年率いる北町奉行所でした。
そして、直年は「市中引き回しのうえ獄門」の判決を言い渡します。江戸の平和を取り戻すための判決に、大衆は安堵(あんど)しました。
実直でフェアな直年でしたが、危機に直面したときもありました。1793(寛政5)年、元配下の同心2人が江戸を追放されます。罪状は札差(ふださし)へのどう喝や収賄でした。
札差とは、武士が給料として得た米を担保にカネを貸す高利貸で、評判の悪い金融業者でしたが、だからといって役人が威圧するような行為は許されません。米問屋などから吉原でたびたび接待を受け、金品を受理していたのも、問題視されたようです(『御赦例書[おゆるしれいがき]より)。
知らぬところで元部下が犯した不始末として、幸い直年におとがめはありませんでしたが、監督不行き届きで罰せられても、おかしくない事態でした。
それがなかったのは、日頃の清廉潔白な言動によるものでしょう。
直年の北町奉行在任は、19年に及びます。歴代の町奉行のなかでも4番目に長く、在任中の1811(文化8)年、69歳で死去しました。
69歳という高齢になっても奉行職にあったのは、幕府からも、庶民からも、厚い信望を得ていた証拠でしょう。
【参考図書】
  • 『江戸の名奉行』丹野顯 / 文春文庫
  • 歴史読本2007.7月号『名奉行仕置帖』丹野顯 / 新人物往来社
  • 『江戸の町奉行』南和男 / 吉川弘文館

■小林 明
歴史雑誌・書籍編集兼ライター。『歴史人』(株式会社ABCアーク)、『歴史道』(朝日新聞出版)の編集を担当。また、『一個人』(一個人出版)への執筆をはじめ、webメディアでは『nippon.com』『ダイヤモンド・オンライン 』『Merkmal』などで連載を担当中。近著に『山手線「駅名」の謎』(鉄人社)


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