
そして裁判官の報酬や昇進を決定する権力を持つのは最高裁の「裁判官会議」であるため、下級裁判所の裁判官たちにはその意向を“忖度(そんたく)”する傾向があるという。
本記事では、裁判官を20年務めた経験があり、今は弁護士として活動している井上薫氏の著書『裁判官の正体 最高裁の圧力、人事、報酬、言えない本音』(2025年、中公新書)から、裁判官の地域手当格差や最高裁の決定権が裁判官たちに及ぼす影響について書かれた内容を、一部抜粋・再構成して紹介する。
地域手当が下がって提訴した裁判官がいた!
公務員には地域手当というのが出ます。その任地によって決まっています。たとえば東京都特別区であればその基本給に20%増額する。この増額分のことを地域手当といいます。田舎へ行くと地域手当がゼロというところもあります。大都市は物価が高いからという理由で地域手当が出ていますが、その結果どうなるでしょうか。たとえば東京に行った人は報酬が20%上がるわけですよね。誰だって報酬を多く得る方がいいですから、東京に行きたくなるでしょう。
でも、もともとそういう地域手当がなかったとしても東京を希望する人が多い。文化、経済等いろいろな面で東京では機会が多いから東京を希望する裁判官が多いところ、それにプラスして地域手当が20%つくとなったら、その行きたい気持ちがますます大きくなりますよね。
反対に地方で地域手当がないようなところには行きたくないと思う裁判官がますます増えるでしょう。
これは2024年7月2日付けの朝日新聞デジタルの報道です。地域手当の格差は憲法違反だと主張して、津地裁の現職の裁判官が、国を相手取り減らされた分の支払いを求めて訴訟を起こしたというニュースです。この裁判官は名古屋から津に異動し、名古屋は地域手当が15%なのに、津では6%と定められていて、だいぶ減額になったとその差額分を支払えという訴訟です。
ただ、こういう訴訟はニュースになるだけあって、稀(まれ)なことです。私は他にこの種の訴訟が提起されたことは聞いたことがありません。
要するに、あんたの報酬はこれだけだよ、君の地域手当は何%だよ、この段階だよと決められたのに、それについて不服をいうという裁判官は他に聞いたことがありません。だからこそ、この訴訟を起こした裁判官は稀であって、ニュースバリューがあるので、大新聞のニュースになったということになるでしょう。
では、一般の裁判官は、こういう訴訟を起こすかというと実際には起こさないんですね。それはどういう理由からでしょうね。定年までの安全を祈り、先ほど来述べてきているように人事権を持っている最高裁に盾突くというか異議を述べるような行動は、後の人事評価を下げてポストや報酬の点で損をすると考えるのであまりそういう異議を出す裁判官はいないのでしょう。
この裁判官はどういう人なのかというと、もうこの訴え提起の段階で61歳であり定年65歳までの間に再任はないという人です。そうなると、もう怖いものなしですよね。定年まで安全が確保されているからこそ、こういう訴訟を起こすことができたと考えることができます。
そうでなくて、これからまだ定年までの間に再任されなければならないという予定の裁判官は、この種の訴訟を起こすことは無理だろうと思います。
裁判官たちの報酬を決めるのは「最高裁」
今見たように、裁判官の報酬月額は多数の階段に分かれていますが、その階段の中であなたの報酬はいくらだよと決める権限があるのは誰か?それは、司法行政をつかさどる最高裁判所の裁判官会議です。最高裁の覚えがめでたくなるように、各裁判官も努力しているところだろうと思います。これは別に裁判官に限らず、一般職国家公務員でも会社員でも同様だろうと思います。ただその結果、裁判官が独立の精神を忘れて最高裁のいいなりになるのではないかという危惧があるので、裁判官についてだけは問題視されるのです。
最高裁の判例変更があると全国の裁判官が一斉にこれに従う(義務はないのに!)例を見ると、ここで触れた問題はまんざら杞憂(きゆう)とは言い切れませんね。
地裁の裁判官などは、できるだけ最高裁の意向をくもうとします。ですから、そろそろ最高裁が判決を出しそうだというテーマに関しては、全国の地裁はいわば「指示待ち」の状態になり、判決を出さなくなります。そして、判例集をはじめとする専門雑誌をくまなく読み込み、最高裁の意向を探ろうとします。
具体的にある裁判官の報酬月額の階段をどこにするかを決めるにあたって最高裁の裁量権は極めて広いということです。最高裁にいわせると総合的評価ということなのかもしれないけれども、下級裁判所の裁判官は何が何だかわからないまま差ができてくるのです。
裁判官の報酬月額の一覧表(『裁判官の正体』より転載)
多くもらっている人は文句はないでしょうけれども、そうでない人は文句があるでしょう。でも実際問題として自分の報酬に文句があるからと訴訟を起こしたりという裁判官は他にはいません。
この報酬月額の一覧表を見てください。修習を終えて判事補になった初任給は23万7700円とありますね。これに若干手当がつくとしても、基本的にはこの報酬を想定してください。報酬の高さに惹かれて裁判官になる人は皆無なんじゃないでしょうか。これは人材確保という点でも必要なんですね。あまり低かったらもう人材確保なんて不可能です。はっきりいうと、この金額では優秀な人材を集めるのは難しいのではないかと思います。
もちろん後の昇給のことも考えますけども、とりあえずこの金額では司法試験を頑張った甲斐(かい)がないと思います。そういう意味で裁判官の報酬は多分に問題点を含んでいるように思います。