
武若氏はかつて、約10年間、陸上自衛官として数々の「災害派遣」に携わり、その後も軍事フォトライターとして自衛隊の活動を取材している。
本連載では災害派遣現場の実情を、武若氏自身の経験や取材を通じて紹介。第3回は2007年7月16日に発生し、15名が死亡した新潟県中越沖地震での災害派遣について取り上げる。
夏が始まったばかりの時期に起きたこの震災では、約3万5000戸が停電。避難者は最大で約1万3000人となり、避難所の暑さ対策は喫緊の課題であった。
そこで自衛隊は米国から寄贈されたエアコンを在日米軍と合同で避難所に設置する支援活動を展開。夏日の続く被災地で、通訳を命じられた武若氏は任務に奔走する。当然、汗だくになるが、被災者に提供している「野外入浴セット」を自衛官が使うことはできない。
作戦を継続する上で自衛官自身が体の衛生状態を良好に保つことは必須だが、果たして――。
※この記事は武若雅哉氏の書籍『元自衛官が語る 災害派遣のリアル』(イカロス出版)より一部抜粋・構成。
米軍の新聞記者からインタビューを受ける
日米の作業員たちでアレコレ話しながら作業は続けられた。1日で構築できるのは避難所1か所か2か所のみだ。遅いと思われるかもしれないが、窓枠の大きさや地上からの高さはそれぞれの避難所によって異なる。それぞれに対応する必要があるため、エアコン台はすべてオーダーメイドだ。
ある程度作っていくと作業自体にも慣れてくる。しかし、私に与えられた仕事は通訳だ。あまり道具を使うことはなく、物を運ぶ手伝いをしたり、両者が円滑に作業できるようにサポートすることが私の任務である。
作業開始から2日目のことだった。米軍の機関である星条旗新聞(スターズ・アンド・ストライプス紙)が取材に来てくれた。そこで、現場にいる英語が話せる自衛官として、私がインタビューを受けることになった。
白髪の大きな体のアメリカ人記者は、丁寧にゆっくりと私に質問してくれた。これにはとても助かった。一般の媒体ではないが、軍の新聞記者からのインタビューだ。私の返答次第では、日米同盟に亀裂が走るかもしれない。
しかし、そんな緊張感はあっという間になくなった。身の上話から始まり、部隊のこと、今回の派遣のことなどを簡単に回答しているだけでいつの間にか終わってしまった。不用意なあやしい曖昧な発言で、これまで築いてきた日米同盟を破壊せずに済んで良かったと安堵(あんど)した。
こうした作業をしているなかで話題になるのが食事である。お互いに持ち寄った戦闘糧食の交換会や試食会は、現場での定番となった。米軍側は「日本のレーション(編注:combat ration/戦闘糧食)は美味しい」と言い、自衛隊側は「米軍のレーションは美味しい」と言う。
そしてお互いに自国のは美味しくないとブーイングを言う。そしてゲラゲラと笑い合う。草の根単位の日米同盟はこうして深化していくのだ。
被災地における自衛官の入浴事情
夏日が続く被災地での活動。汗だくになるためシャワーを浴びたいが、なかなかそうもいかない。後方支援隊が持っている野外入浴セットは、被災者のために使われている。自衛官が入る余地はなく、入れたとしても残り湯でさっと汗を流す程度だ。
なお、現役生活を約10年続けていた私だが、陸自の野外入浴セットを使ったことはない。長期の演習などで展開してくれれば良いのだが、そういった連携はない。
本来は隊員のための装備として調達されたはずだが、被災者専用装備になっている。もちろんそれでも構わない。必要としてくれる国民がいるのであれば、優先的に使ってもらおう。そのための防衛装備品だ。
一度も使ったことがないので、レビューを書くことはできないが、入浴後に感想文を書くスペースを少しだけ見せてもらったことがある。そこに綴られていたのは、被災者の方々からの心温まるお言葉だ。
「ありがとう」
この言葉を聞ける(読む)だけでこちらの心も温まる。
「大きくなったら自衛隊になる」
ぜひぜひ。私たちはいつまでもあなたの入隊を待っています。
「やった!風呂に入れる!」
野外入浴セットは被災者のためとはいえ、自分が入れないのは衛生的に良くはない。そう思っていると「海自さんが風呂を貸してくれるから〇〇時に集合!」と声がかかった。やった!風呂に入れる!小躍りしながら支度を調えると港まで歩いていく。そこに停泊していたのは、海自の「おおすみ」型輸送艦であった。
輸送艦「おおすみ」(出典:海上自衛隊ホームページ)
一度に入れる人数に制限があるため、グループごとにまとまって艦内へと案内されていく。脱衣所で汚れた戦闘服を脱ぎ、浴室内に入ると、そこは天国のようであった。
浴室内に特別な飾りがあったり、酒が置いてあるわけでない。艦内の風呂は普通の無機質な浴室なのだ。そんな当たり前の施設が特別に感じられるほど、このときのお風呂は心に染み渡るものがあった。
次のグループが待っているためゆっくりはしていられないが、限りある時間を有効に使わせてもらい、体をきれいにすることができた。
こうして心身ともに回復した私は、翌日の作業に向けた準備を整え、寝袋の中に潜り込んでいったのだった。