「殺害」を決めてなお決まらぬ覚悟…殺人への“最終段階”で犯人を「もはやこれまで」と動かすものとは
精神科医、犯罪学者、作家――。3つの顔をもち、20世紀のベルギーで活動した、エティエンヌ・ド・グレーフ。

ド・グレーフは、第一次世界大戦を経て、精神科医としてのキャリアを歩んだ後、刑務所や大学に活動拠点を移動。第二次世界大戦中も、ナチス・ドイツ占領下のベルギーにて、犯罪学を研究し、講義は人気を博していたという。
明治学院大学准教授の梅澤礼氏はド・グレーフの思想について「国外では戦争が終わらず、国内では憎悪犯罪がなくならない、現代社会の理解にも役立つ」と指摘。本連載では、言語の壁などから、これまで日本国内ではあまり注目されてこなかった彼の研究を紹介する。
ド・グレーフは「人がなぜ殺人を犯すのか」を探る中で、殺人犯が実際の犯行に至る段階と、非キリスト教信者がキリスト教に改宗するまでに至る心理的プロセスとの類似性を見出した。そして、人間は突然殺人を犯すのではなく、三つの段階を経て実行へ移すと結論付けた。
最終回では、殺人へと至る「最終段階」で、犯人を後押しするものとはなにか、について迫る。
※ この記事は梅澤礼氏の書籍『犯罪へ至る心理』(光文社新書)より一部抜粋・構成。
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『犯罪へ至る心理』(梅澤礼、光文社新書)

“未来の殺人犯”がただひたすら待つものとは

非キリスト教徒がキリスト教への改宗への段階を歩む場合、ついには、もとの文化や風習を克服するに至ります。しかし、それでもまだ、自発的に動くには至っていません。改宗することを、もはや否定はしないものの、依然として先延ばしし続けるのです。
ここまでなしてきたことに比べれば、これからなすべきことはほんの少しであるとアリエー(編注:フランス人神学者のラウル・アリエー。ド・グレーフは自身の研究において、アリエーの研究『非文明人の改宗の心理』を参照した)は言います。
それでもやはり、何かしらのチャンス、口実、呼び声のようなものを待っているのです。
というのも本人は、繰り返されてきた内なる戦いに疲れ果て、自分の無力を確信し、絶望しきっているからです。もう戦えず、考えることもできない、いわば内的な死を迎えているのです。この段階を、アリエーは「危機(crise)」と名づけています。
ただしcriseには発作という意味もあります。何も警戒できていないこのときに、突然、自分に迫り自分を満たしてゆく大きな流れのようなものがやってくるのです。地に伏していたこの非キリスト教徒がふたたび立ち上がったとき、その人はもう非キリスト教徒ではなくなっているとアリエーは言います。
改宗ではなく殺人に向かう人間も、この第三段階に入りこんでしまうことがあります。そのときこの段階は、「やはり自分があいつを消さなければいけない」という言葉に集約されるといいます。
ですが、相手の死という基本方針が認められても、それにともなう危険や、名誉を失うことへの覚悟ができたわけではありません。そのため、未来の殺人犯も非キリスト教徒と同様に、何かが後押ししてくれないか、「もはやこれまで」と思わせてくれないか、後には引けない状況に陥らせてくれないかと、ただひたすら待つのです。

考えれば考えるほど“最終的な行動”に近づくことに…

猛獣を調教するときには、あと一歩進んだら牙を剥く「危機的距離」が意識されるといいますが、このこともふまえて、ド・グレーフも第三段階を「危機=発作(crise)」と名づけています。
本人はこのとき、不安定であると同時に過感受性の状態にあります。
さまざまな不調のなかで、「生きている限りあいつは自分にこのような思いをさせるのだ」と感じ、相手に対する非難はますます高まってゆくのです。こうなると、発作は時間の問題です。
そしてついに、新しい自分が勝つというよりも、それまでの自分が新しい自分に譲歩するのです。自分のなかで長らく停滞していたためらいとは対照的に、諦めと賛同とが一気に心のなかを駆けめぐるのです。
もちろん、これ以上進むまいとする人はいます。それでもこの段階まで来てしまうと、考えれば考えるほど最終的な行動に近づいてしまうといいます。仮にプロセスを止めることはできても、プロセスから本人を解放するには時間がかかるのです。

犯行を後押しするもの

では、何がこの人を後押しし、「もはやこれまで」と思わせ、後に引けなくしてしまうのでしょうか。
過感受性の状態、それも殺人を正当化する理由を無意識に探している状態では、たいしたことのない出来事も、まるで決定的な出来事のように誇張されてしまいます。いつもならなんということのない友人からの皮肉や、相談を受けた警察官の不用意な一言が、思いがけない影響を与えうるのです。
とくに注意しなければならないのが、酒を飲んでいる人や普段から強がっている人、それにもともと感受性が強い人です。酒を飲んでいる人はアルコールのせいで、強がっている人はコンプレックスのせいで、いっそう過敏になっています。
もともと感受性が強い人はというと、常日頃からまわりの理解を得られずにおり、攻撃されることに怯えています。
そうした日々を送ってきただけに、自分を愛してくれる(ように思える)相手を、全身全霊で愛そうとします。その相手が、いまやかつての面影を残さないほどに単純化され、ひどい言葉で呼ばれ、殺すきっかけを探されているということになるのです。

被害者の言動も「最後の一滴」に

実際、多くのケースにおいて、犯人を動かすのは被害者の言動でした。それは、いつもの口論の後にとどめとして加えられた言葉だったかもしれませんし、被害者としてはようやく取ることのできた毅然とした態度だったかもしれません。
それでも「あいつがそうさせたんだ」と言える状況を待ちかまえていた人にとっては、「花瓶をあふれさせる最後の一滴」となってしまうのです。
ほかにも、絶望しているときや命の危険があるとき、人は心のバランスを保つためにその状況に適応しようとします。危機的な状態にあればあるほど、無関心に、無気力になってゆくのです。
それなのに、何に対しても投げやりで、人間関係をも疎(うと)んじるそのようすは、被害者だけでなく周囲からも、心配されるどころか非難されたり解雇のきっかけになったりします。
こうして社会的圧力がなくなると、それまで抑制されていた感情や力も解き放たれやすくなります。つまり被害者も周囲も、犯行が起きやすい状況作りに、意図せず貢献してしまうことがあるのです。


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