1769~87(明和6~天明7)年の18年間にわたって江戸北町奉行を務めた曲淵景漸(まがりぶち・かげつぐ)という人物がいた。NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺』の時代を生きた男だ。

18年という長期間、要職に就き「名奉行」とうたわれた一方、天明の打ちこわし(1787)の鎮圧に失敗したことで罷免の憂き目もみる。後に復権を果たすも、キャリアに汚点を残すことになった。(本文:小林明)

犯罪者の更生に注力した北町奉行

「人と為り聡明(そうめい)にして獄を決する神の如し。任満ちて江戸に還る機、人民送りて嘆惜(たんせき)せざる」
1894(明治27)年の『小学高等作文教授本』、つまり学校で作文を書くのを指導する参考例集に掲載された一文です。ある人物について作文を書かせるなら、品位(人となり)が聡明で、訴訟を裁く(獄を決する)神であり、裁判官としての任期を終え江戸へ帰る際、多くの町人たちが嘆き悲しんで見送った——そう書くのが適正であると「教授」しています。
ある人物とは、曲淵景漸(1725~1800)。江戸時代の旗本で、先祖の曲淵吉景(よしかげ)は戦国時代に武田信玄に仕え、武田没落後は徳川家康の家臣となり、相模国(神奈川県)に500石を賜った武将でした。
曲淵家はたびたび加増され、景漸が19歳で家督を継いだときは1650石だったといいます。35歳で幕府幹部たちの監察役である目付に就き、41歳で大坂西町奉行を拝命し、甲斐守(かいのかみ/官職)に叙任されます。
さらに45歳で、江戸北町奉行に転じます。『小学高等作文教授本』にある「任満ちて江戸に還る」は、このときのことを指しています。「神の如し」「嘆惜せざる」はいかにも誇張でしょうが、明治時代は偉人の1人と位置づけられていたのです。
江戸でも名奉行として、庶民から熱い支持を得ました。
『近世外史』には次の逸話が載っています。
ある日(おそらく12月頃)、景漸は老中に「重罪人を江戸追放にしたり、犯罪者を牢(ろう)から出獄させたりするのを、翌年4月まで延期したい」と申し出ます。理由を問われ、「身寄りも収入のあてもない者たちを、冬の寒い季節に追放・出獄させるのは忍びない。暖かい時期なら屋外での肉体労働などしやすく、銭も稼げる。そうなれば10人のうち2~3人は更生するでしょう」
犯罪者の再犯率が高いのを鑑み、極寒期に社会に放り出すべきではないと訴えたのです。幕府はこの進言を採用したといいます。
1771(明和8)年には、南町奉行だった牧野成賢(まきの・しげかた)と連名で、奉行所の経費削減の稟議(りんぎ)を提出します(『明和撰要集巻二十五』)。牢獄に収容する囚人が増加傾向にあり、また「溜」(ため/病気の囚人を収容する施設)も混雑しており、このままではパンクする。奉行所の経費を減らしてでも牢獄に資金を回し、将来に備えるべき——という趣旨でした。

田沼意知刺殺事件を裁く

景漸が北町奉行だった1769~87年は、そのまま田沼意次が老中に君臨していた年代と重なります。元号でいえば宝暦・明和・安永・天明で、「田沼時代」と呼ばれました。このことから、意次から信任厚い人物だったとわかります。意次の息子で若年寄だった意知(おきとも)が、江戸城で刺殺された件(くだん)の事後処理をしたのも景漸でした。

1784(天明4)年3月24日、将軍の警護を務める新番士の佐野政言(さの・まさこと)が突然、意知に斬りかかりました。意知は複数の傷を負い、股(また)の傷は骨に達し、これが致命傷となって死亡します。
現場で取り押さえられた政言の身柄は北町奉行所、その後は小伝馬町牢(ろう)屋敷に移されました。取り調べを担当したのが幕府の最高裁判所である評定所の大目付・目付、そして景漸の3人でした。
実は評定所の構成員は、もっと多数です。しかし刺殺事件の現場には評定所の重役もおり、殺害を止められなかった彼らも処罰の対象となったため、3人で審議するほかなかったのです。
政言は、そもそも佐野家の家臣筋にあたっていた田沼家が、佐野から家系図を借りて出自を捏造(ねつぞう)しようとし、家系図の返却を求めても応じなかったなど、積もる遺恨があったと述べたといいます。
意知が死ぬと政言の取り調べは打ち切りとなりました。被害者が死亡した時点で詮議を取りやめ、加害者が「乱心した」として切腹させるのが、当時の慣例でした。政言は4月3日、牢(ろう)屋敷の庭で果てました。
景漸が苦労したのは、ここからです。刺殺現場にいながら暴挙を止められなかった者たちを処分しなければならなかったからです。
その面々は、政言の取り締まりから外された大目付2人、老中を補佐する若年寄、南町奉行、勘定奉行をはじめ、大名・旗本を加えた総勢20名以上に及び、それぞれに解任や一定期間の職務停止が言い渡されました。
息子を殺害された田沼意次は、信頼を置く景漸に厳重な処罰を命じ、景漸もまた意次の私情を廃し、慣例通り公正に幕閣たちを処罰したのです。

天明の打ちこわしの鎮圧に失態

順調なキャリアに暗雲が立ちこめたのが、飢饉(ききん)と米不足が引き金となって発生した天明の打ちこわし(1787)でした。意知の刺殺を機に田沼意次と松平定信の暗闘が起き政治に空白が生じた、よりによってそんなときに大衆の暴動が発生し、景漸が矢面に立たざるを得なくなったのです。
1787(天明7)年5月、景漸は「お救い米」を支給してほしいと奉行所に願い出た町人の代表者たちに、「飢饉のときは、昔は犬を食った。犬を食ったらいい」と暴言を吐いたと伝わります(『よしの冊子』)。
この「犬を食え」発言が本当に景漸から発せられたものだったかは定かではありませんが、北町奉行所が町人たちの数回にわたる嘆願に耳を傾けず、「何とかしのげ」というばかりだったのは事実でした。そう返答するしか、他に方法がなかったのでしょう。
しかし、大衆の怒りが頂点に達したところに奉行所がこんな冷たい対応をしては、混乱に拍車をかけるだけでした。そうしたことを背景に、真偽不明のまま景漸の失言として流布してしまったのかもしれません。
また、いざ打ちこわしが始まると、奉行所は鎮圧に何ら貢献できず、役立たずと嘲笑されました。実戦部隊を率い平定に寄与したのは、江戸城を警備する「御手先組」の弓組頭・長谷川平蔵だったのです。

実は景漸には大坂西町奉行だった1768(明和5)年、土地や家屋取引に正式な印や手数料を徴収する制度の導入を巡って、商人・町人が騒乱を起こした際、対応が杜撰(ずさん)だった前歴がありました。
このとき、大坂の町人代表が改善を願う訴状を提出したにもかかわらず、「おまえたちが互いに助け合えば済むこと」と、冷淡に叱りつけています。この態度が蒸し返されて、いかにも景漸なら「犬を食え」と言いそうだ——といううわさにつながってしまったとも考えられるでしょう。
どうも景漸には、非常時に融通の利かなくなる気質が見てとれます。「名奉行」の評価はガタ落ちとなり、新たに老中首座となった松平定信は6月1日、景漸を奉行から解任し、江戸城西の丸留守居役へ転任させます。
しかし、打ちこわしで捕縛した者に対して景漸が下した寛大な刑罰は、もっと評価されていいという法令史研究者もいます。事実、最も重い処罰でも遠島(島流し)で、死罪に処された者はいませんでした。
また、松平定信は本音では景漸の手腕を高く評価していたらしく、翌年(1788/天明8)には64歳で勘定奉行に任じます。
景漸はさまざまな面で評価が高く、例えば隅田川の治水対策を担い、1786(天明6)年5月、河川工事を実施しています。この工事は同年1月に起きた、隅田川岸の大規模火災からの復興を目的としたものでしたが、折しもこの2カ月後、大雨に見舞われ隅田川は決壊し、洪水が起きるのです。工事がなければ、被害はもっと甚大だったでしょう。
洪水後に隅田川の水位観測を綿密に行い、防災に努めようとしたのも景漸でした(『にほんのかわ』/日本河川開発調査会)
景漸は72歳で、勘定奉行を退くことを自ら願い出ます。
11代将軍・家斉は慰留し、翌年に円満退任。1800(寛政12)年、76歳で世を去りました。非常事態ではやや頼りなさを見せた町奉行でしたが、責任感が強く実務に長(た)けた男だったといえるでしょう。
【参考図書】
  • 『小学高等作文教授本』関口直吉、小俣孝太郎編
  • 『民政史稿 制治民政篇下卷』内務省地方局
  • 『江戸の名奉行』丹野顯/文春文庫
  • 『にほんのかわ』にほんのかわ編集委員会/日本河川開発調査会
  • 『江東区年表考』江東区史編纂委員会/江東区
  • 『寛政改革期の都市政策・江戸の米価安定と飯米確保』安藤優一郎/校倉書房


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