当時10代だった主犯格の元少年4人らも、現在は50代。
今年7月、当初から事件を記録してきたノンフィクション作家・藤井誠二氏の著書『少年の街』(教育史料出版会、1992年)や『17歳の殺人者』(ワニブックス、2000年。のち朝日文庫、2002年)を底本とする『少年が人を殺した街を歩く 君たちはなぜ残酷になれたのか』(論創社)が出版された。
本記事では、同書から、元少年らがあまりに残虐な行為をした背景にありながらも見過ごされがちな「シンナー依存」の問題について記した箇所を、抜粋して紹介する。(本文:藤井誠二)
欠けていた「薬物依存」の視点
「女子高校生監禁殺人事件」については、事件から10年が経過したいま(2000年当時)も、多角的に検証する必要があると僕は考えている。事件が発生した当時、一部のマスコミから「野獣」と指弾された4名の少年たちは、主犯格のAを除いて全員が社会に復帰しているが、なにが彼らをかくも残忍な行為に駆り立てたのかという疑問は、僕の記憶から決して消え去ろうとはしない。
当事件が起きた1988年末ごろから、10代の少年たちが引き起こす凶悪犯罪の動機が浮遊を始める。少年たちがおこなった残忍な行為と、そこに至る動機や背景とのギャップ。犯罪の主体と現実との乖離(かいり)。そんな様相を呈した事件がその後の10年間に頻発するようになるが、起点にあったのが同事件だと僕は思っている。
バブル経済という浮世に僕たちが浸った最後の時期を境に、少年たちの「非行」と「死」が短絡的に直結しはじめた。加害者と被害者のあいだにはなんの因縁もなく、被害者の方には一切の落ち度も必然もない。
「女子高校生監禁殺人事件」については、いままでにさまざまな論者や書き手がそれぞれの視点をもって表現している。
かくいう僕も『少年の街』という一冊を上梓した。その本の構成は、加害者の少年たちが生活していた街にうごめく彼らと同世代の声を丹念に拾い、街の様相を絡め合わせながら、事件を記録したものである。
僕自身の仕事も含めて、この事件の報道に欠けていた視点がある。それは、以前から精神科医やドラッグ・アディクションの専門家から指摘されていたことなのだが、「薬物依存の視点が欠けている」という批判であった。
事実、特に主犯格のAは事件を引き起こす2か月前から、女子高校生を死に追い詰めていく過程に至るまで、いくたびもシンナーを吸引している。
僕はシンナーの介在はひとつの事実としては描いていたものの、その部分を専門家に聞くなどして掘り下げることはしなかった。この小稿では、東京・日暮里に本部のあるDARC(ダルク/ドラッグ・アディクション・リハビリテーション・センター)の代表である近藤恒夫氏(当時)に、当事件について僕が抱き続けている疑問を提示するかたちで検証を進める。
残忍な凌辱行為…「シンナーの介在は予測できた」
事件の概要だが、発覚は1989年3月。その前年の11月、アルバイトから帰宅途中の女子高校生を少年数人がだますなどして拉致、その後、40日間以上にわたって少年自宅の自室に監禁。その間、強姦や輪姦、暴力行為を繰り返した。筆舌に尽くしがたい凌辱(りょうじょく)行為は凄惨を極め、女性から逃走する意志を奪い、日常生活が困難になるような状況に陥れた。少年らは食べ物や水さえほとんど与えることもなく、よって女性は次第に衰弱し、死亡に至った。
まず、近藤氏に、事件を最初に知ったときの率直な感想を求めた。
「事件を聞いたとき、あれほど残忍なことができたということは、とてもシラフでやったんじゃないなって思った。シラフではない状態で女子高校生を凌辱したに違いない、と。
人間はドラッグを使用したときに、普通じゃないことをやれるようになる。例えば、セックスなんかでも、クスリを使ってるときと、使ってないときとではぜんぜん違う。酒飲んでも、女に対して、普段ならできないような異常なことをすることがある」
シンナーの介在は当初から予測できた、と近藤氏は言う。
「シンナーだろうなって感じはしてた。もしシラフでやっているとしたら、強度の“精神異常者”が一堂に会するというのはまず考えられない。正気の沙汰じゃないわけだから。
そして、なにかを媒介しないとそこにグループはつくられない。
近藤氏は、自身の体験やDARCの活動を通じて、シンナー依存の少年たちの行動や内面性に一定の共通項があることを見いだしている。氏が僕に開陳したその論理は、当事件の展開と大筋において沿うものだった。
「一般的にいうと、シンナーを中学生ぐらいで覚えた子は、だいたい高校1年生でリタイヤする。その理由は、シンナーの持つ時間のスピードに関係している。使っているときの速さと、やめてからのかったるさの長さ――これに耐えられるか、耐えられないかということ。
耐えられないと高校に入学しても授業を受けられない。そうすると、だいたい1学期で学校に行けなくなる。そして2~3年次で昼夜が逆転してしまう」
この事件は、主犯格の少年に付和雷同的に、ほかの少年たちが引っ張られていった。主犯格の少年は柔道の選手であったため、喧嘩がやたらと強かったが、いったん怒りだすと、なにをしでかすかわからないという恐怖で支配していた。
「つまり、下の少年たちはそいつの陰に隠れるっていうか、安全地帯にいたというか、強い力の下にいるというのは居心地いいことだろう。きっと主犯格の少年にそういう強さはあったんだろう。リーダーシップっていうのか。
女子高校生を監禁し、ときどきクルマに乗せて町内を連れまわしたりしたということは、実行犯である数人の少年たちだけの秘密ではなく、彼らのすそ野にいた街の少年たちもその事実を知っていたことがわかっている。まるでギャング映画のワンシーンのようなことを実際にしでかし、虚勢をはるための道具に女性を利用したのである。
加害少年にとってのハクづけは、人より少しでも悪いことをすることだった。そうすれば一目置かれる存在になった。それが彼らの自己実現でもあり、勝ち取るべき価値だった。
「わかるような気がする。グループを形成したときには、普通だったら『こんなの面白くもねえ』って誰かが言えば、グループにならない。今回の場合は、誰かが自分より特技があるとか、違うところを持ってるとか、そういうところで敬われるわけではないんだから。
だから、やはり主犯格の彼はそういうふうにせざるをえなくなってきたんじゃないか。だんだん、教祖を演じるというか、そのためには普通のことをやってたんじゃ教祖になれないからね。それは、少年の世界だって大人の世界だって同じですよ」
そこにも、シンナーなどのクスリが関係している。
「彼は自分は万能感を持った人間であるということを信じ込んでいる。
自分は正しくて相手はバカだという、正しくないんだという。そういう論理が成り立たないといけなくなる。これは犯罪だとか悪いことをやっているんだとか、そういう意識を最初は持っていたかもしれない。でも、だんだんそれが大きくなってくると、正当化のために余計なことを背負うことになる。バカをつくんなきゃいけない。
「自由」や「善意」を喪失させる薬物依存
薬物依存が進行していく過程は「四段階の喪失」に分けられる、と近藤氏。第一に自由。「自由をまず失う。それは少年院にはいるとか刑務所にはいるとか、そういう自由が失われるということじゃなくて、心が囚われる。頭を使うか使わないかって、そういうことでずっといくわけだから、ある意味じゃずっと恋人を愛しているようなものでしょう。薬物の虜(とりこ)になって自由を失った少年と考えてほしい」
そして第二に成長、第三に創造性、最後は善意。
「大人になっていく段階の成長を失う。ほかのことを考えられないから。創造性を喪失するとは、自分の将来のイメージを失うということ。善意を失うことを通過していくと、自己中心になる。だんだんとひとりよがりになっていく。
彼らに善意のかけらでもあったら、ほどほどのところでブレーキがかかったんだろうけど、ブレーキがかからなかったひとつの理由はやはりクスリだと思う」
その上、「一見グループになっているけど、クスリを離れるとバラバラですよ。自分の世界にはいってるわけですから」と近藤氏は指摘する。輪姦の最中、その横でまるで自分には関係ないかのようにファミコンに興じているDというタイプもいた。どうしてそこまで己を閉ざすことができるのか、僕は疑問だった。
少年たちが少女を監禁していた40日間の後半になると、頻繁にリンチを加えていく。その時期、彼らの意識は完全に倒錯していた。例えば「オマエがいるから布団が汚れた」と因縁をつけてリンチが始まっていくのである。
「主犯格は完全に薬物依存になって、そういう状態になっていると思う。一人ひとりはそんなに凶悪な少年たちじゃないと思うんですよ。でも、クスリっていうのは人格をどんどん破壊していって、自己中心の人格を形成していく。自己中心にならないとそんなことできないでしょう。
それがエスカレートしていって、そうするとなにがいちばん怖いかというと、自分の人生や命も大事にしなくなるし、他人の命も大事だってことがわからなくなる。生命に対する意識が破壊される」
女子高校生を監禁した少年たちは、さんざん凌辱した挙げ句、次第に彼女の存在を「お荷物」にしていく。だんだん近づかなくなっていき、衰弱しきった彼女を部屋に放置するようになっていく。互いに責任を押しつけあっていくのである。
「もう責任を取る能力がない。だんだん、女子高校生が邪魔になっていくわけでしょう。それは自分たちが自由を失っているわけだから、その子がいるだけで自分たちがその状況をコントロールしていかなくてはいけなくなる。そうすると、誰がやるとか、おれはいやだとか始まる」
「非行」の背景には家庭や環境の問題も
近藤氏の論理は、僕がこの事件に対して抱いていた「疑問」のひとつをはからずも説明するものとなった。こうもシンナーなどの薬物は人間を変えてしまうのか。しかし、薬物と少年たちの「非行」をたやすく結びつけるのはよくない、と近藤氏は言う。
「薬物問題と非行問題は混同してはいけない。非行というのは、薬物依存の結果起こる症状だとして、症状をとらえて非行、非行と言っている。あるいは非行に走ったからシンナーを吸ったんだとかいう考え方。
シンナー吸って家を壊したりしている少年をとらえて、シンナーイコール非行少年ということになってしまっているけれど、そこは分けて、まずはどうしてシンナーを吸うようになったのかを考えて、問題をピックアップしなければならない」
近藤氏は、まず家庭の中で少年を取り巻く「不安」を理由に挙げた。
「家族の“ルール”というのはある意味では大事。昨日はほめられた。今日は酔っぱらった親父に殴られた。これを繰り返されると、子どもが予測つかないのね。
つまり、子どもというのは成長の過程で、こういうことした結果こういうふうに怒られるというふうに予測するようになる。それが予測できて先のイメージというか、自分のとった行動の意味、先の予測を立てる。
しかし、それができないと不安になる。いちばん悪いのは不安を持って生きること。だから、不安をなくすために薬物依存にいく。それは要因じゃないけれど、入り込む種になってしまっている」
この論理も、女子高校生を監禁した部屋の主であったCの家庭と符合する。彼の父親は毎日のように泥酔して帰宅し、ときには母親から息子の失態を聞き、体罰を加えることもあった。しかし、あるときを境にそのやり方を放棄。理由をたずねる息子に「そうある本に書いてあったから」としか答えなかった。裁判の中でそのCはこの件で父親に対して信頼が持てなくなったことを陳述している。
「この時期というのは、親よりも友だちをかばう時期。そしてグループになりたがる。そこで大事なのは、その中で自分がいいかっこできるかってこと。オートバイにいくやつはオートバイにいくだろうし、ヤクザの好きなやつはヤクザにいくだろう。
それは子ども一人ひとりが持っている才能の問題だから、そこにいくのがいいとか悪いとかそういう問題ではなく、その中での自分のプライドの問題だと思う。いいプライドを持てない子っていうのは、必ず環境のどこかに問題がある」
では、シンナーなどによるドラッグ・アディクションの共通病理に対抗するためにはどうしたらいいのだろうか。
「そういう少年が良く変わっていくためには、前に言った四つを取り戻すことが大切。でも、それは少年院や刑務所ではだめ。自由のないところでは、自由を選択できないんだから。自由とか創造性とかないところでは反省にならない。反省させられるハメになったとしか思わない。
ベストな方法とは、彼らがクスリを使ったときの年齢に戻らなくてはいけない。それが彼らの人生のスタート。その年齢からやり直すことです」
薬物依存が引き起こす人間破壊の論理で、この事件のすべてが説明できるわけではない。だが、僕たちが見落としていた数々の視点がそこにはあった。
では、翻って僕たち自身の在り様を見れば、「嗜癖(アディクション)社会」と言われて久しいことを再認識せざるをえない。
シンナーなどの薬物だけの話ではなく、強迫的にさまざまな嗜好物に依存していなくては生きることができない人々は確実に増加しているが、おそらくは少年たちが引き起こした取り返しのつかない出来事は、そんな来たる社会の一端を暗示していたと言えないか。
■藤井誠二(ふじいせいじ)
1965年愛知県生まれ。高校時代より社会運動にかかわりながら、取材者の道へ。著書に『殺された側の論理』(講談社プラスアルファ文庫)、『「少年A」被害者遺族の慟哭』(小学館新書)、『体罰はなぜなくならないのか』(幻冬舎新書)、『沖縄アンダーグラウンド売春街を生きた者たち』(集英社文庫)など多数。愛知淑徳大学非常勤講師として「ノンフィクション論」を担当。ラジオパーソナリティやテレビコメンテーターも務める。