当初、加害者として逮捕されたのはAという少年1人であったことから、警察は父の宮田幸久さんと母の元子さんらに「喧嘩だった」と説明し、新聞でも小さな囲み記事で「1対1の喧嘩」と報じられていた。しかし、稔之くんが死亡した30日、さらに6人の少年が加害に加わっていたことが判明する。
少年審判は非公開であり、息子を殺された両親は警察や検察、家庭裁判所からほとんど何も知らされないまま放置されていた。この状況に我慢ならなかった宮田さん夫妻は、真相を明らかにするため民事訴訟を提起する。
本記事では、ノンフィクション作家・藤井誠二氏の著書『少年が人を殺した街を歩く 君たちはなぜ残酷になれたのか』(2025年、論創社)から、事件の真相や加害少年が反省を示さない有り様について記した箇所を抜粋して紹介する。(本文:藤井誠二)
誠意のない態度の加害者側
宮田さん夫妻は事件から1年後の7月、加害少年7人およびその親権者を相手取って、損害賠償を求める民事訴訟を松本地方裁判所に起こす。すべては事実を知るためであり、被害者の慟哭(どうこく)を表現するためであった。幸久さんと元子さんは口をそろえる。「『子ども同士の喧嘩で、どっちもどっちだ』という警察の発表があったり、加害者たちの学校の教師が加害者の言い分だけを聞いて、稔之と透が相当なワルだということなどを職員会議などで話をしていることが私たちの耳にはいってきたんです。
それに加え、加害者の親たちの態度がまったく誠意のないものだったんです。というのは、『(加害者である自分の子が)宮田兄弟に(呼びだすために)電話をかけたときに、謝ってくれればこんな事件はなかったんだ』という声が聞こえてきたり、判決どおりに割り当てられた罪を償えばすむと思っていることが伝わってきたりしたんです。
中には、うちに線香をあげに来たときに『うちの子だって救急車を呼んでやったんですよ』とまで言う親もいた。自分の子どもたちに本当はなにがあったのかという事実関係を聞き取りもしないで、ただかばっているだけ。
そして、人を殺してしまう犯罪を犯した者は、やはり公の前で自分のやったことについて謝罪させたい。本当に反省しているのかどうか、公の前で証言させたい。それを直接、加害者から聞きたい。その証言が事実かどうかは別にしても、本人に直接答えさせたかったのです」
民事訴訟を提起するにあたり、加害少年の警察・検察での供述調書、家庭裁判所で作成された資料など膨大な証拠が取り寄せられた。宮田夫妻と訴訟を受任した弁護士はそれを精査し、事件の全容が浮かびあがった。以下、紙面の許す範囲で再現する。
中等少年院送致となったAは私立青雲高校を中退して働いていた。Aと同様の処分を受けたBは明科高校の2年生である。Aらのたまり場になっていた家のCらは大町北高校と池田工業高校の2年生たちだ。いずれも稔之君とはたいした面識はない。顔を見かけたことがある程度である。
明らかになった真相と隠蔽(いんぺい)工作
同年6月27日、大町北高校2年のC宅の離れの部屋に、Cを入れて6人の少年、高校2年生が集まっていた。彼らは小学校か中学校の同級生グループである。普段から「ムシャクシャ」していたAは皆に、「最近、頭にきてしょうがないから、喧嘩でもしてえなあ。おまえら、最近、ムカつくやついない?」と話しかけた。Bが「そういえば、宮田透がムカつく」と言いだし、Aも同意した。
といっても、Bは透君とはその4月に同じ高校に入学したことにより顔を合わせただけで、付き合いはまったくない。Aも同じだった。Bのムカつく理由は「あいさつしない」というだけで、Aのそれも電車の中で「にらまれた」と一方的に思い込んでいただけだった。
座は盛り上がり、Aが「それじゃあ、電話をして、おれが『シメて』やるわ」と透君に電話をかけた。電話口に透君が出た。Aは声を低くしてすごんだ。
「おい!調子づいているんじゃねえぞ、おまえのことはみんながムカついているんだ。BとC(高校2年)にあいさつしろよ!おい、兄ちゃん(稔之君のこと)はどうした?おまえのバックが出てきたって関係ねえぞ。
透君はただ「ハイ、ハイ」と答えるだけで電話を切った。
家に稔之君が帰ってきた。弟からこの脅迫電話があったことを聞き、稔之君はA宅に電話を入れたが、AはC宅の離れにいるため留守との返事だった。
そのため、透君が翌28日朝、高校の正門付近で登校してきたBに「バックはいるんスか?放課後来てもらえませんか」と声をかけると、Bは透君の胸ぐらをつかみ、「あいさつはどうした?ムカつくんだよ!」と言い残して昇降口に向かって行ってしまった。
翌29日、C宅の離れに集まった7人はビールを飲みながら、ようやく夜10時ごろつながった電話で、代わる代わる透君に脅しを入れ、宮田さん宅から目と鼻の先の会染小学校に兄弟を呼びだしたのだった。
一方的に因縁をつけられたかっこうになった宮田兄弟。稔之君は護身用にゴルフのアイアンを持ち、透君と「ジュースを買いに行く」と言って家を出た。
闇に包まれた会染小学校に着いた2人は瞬時にして暴力の嵐に襲われる。アイアンを奪われ、一方的に身体中、特に顔面やみぞおちを殴る蹴るの集団リンチを加えられた。
7人の少年らは近隣に気づかれないように場所を移動しながら、代わる代わる素手だけでなく、重い革靴やバイクのヘルメットで殴打し続けた。
途中から稔之君に集中し、血だらけになり立っていられないほどの状態になっても力ずくで立たせ、動かなくなるまでリンチを加え続けた。奪われたアイアンも凶器と化した。
立っていることさえできなくなった稔之君を、少年らは代わる代わるゲーム感覚で殴り、足蹴りし続けた。透君は苦痛と恐怖で近づくことができなかった。
稔之君が口から血をごぼごぼと吐きだしたため、Aらは地面に倒れ込んだ稔之君の顔に水をかけ、口から溢れる血を透君に口で吸い出させた。透君も鼻の骨が折れ顔面血にまみれていた。最後まで兄弟は無抵抗だった。
そして、Aらは、靴や衣服、校舎などについた血を洗い流すという隠蔽工作をおこない、先述したように透君に口止めをしている。通り魔的と言ってさしつかえない、通りがかりの暴力である。
被害者とはろくな面識もなく、ただ「ムカつく」から呼びだし、リンチを加えた。稔之君が虫の息になっても危機感を抱かず、すぐに救急車を呼ぶこともしていない。これらのことは警察・検察の供述資料を見なければわからなかった事実である。どこが1対1の喧嘩なのだろうか。
宮田さん夫妻はこれらの資料や自分たちが集めた話をまとめ、冊子をつくった。
そこには稔之君の幼いころからの写真や、冒頭のメッセージもおさめられている。それを地元池田町の小学校2校、中学校1校、加害者が通っていた各高校の職員全員に配付、地域の役場関係にも届けた。
また、全国母親大会などでも訴え、冊子を頒布した。遠方の希望者には郵送した。2000部がほぼさばけた。
まったく反省のない加害少年
97年7月、重大な事実が発覚する。Aに対する、原告側弁護人からの尋問のときだった。いくつかのやりとりのあと、弁護人は次のように質問を重ねていった。弁護人:あなたは、殴る、蹴るなどの暴行を人に加えたことが、いままでに何回ぐらいありましたか。
A:……。10回ぐらい。
弁護人:いちばん最近、暴力を加えたのはいつですか。
A:……。
弁護人:あの事件が終わって、少年院を出たあとは、やっていませんか。
A:やっていません。
弁護人:宮田稔之君の事件が最後なのですか。
A:はい。
弁護人:本当ですか。
A:本当です。
弁護人:あなたは、つい最近、諏訪で事件を起こしませんでしたか。
A:……。
弁護人:問題を起こしませんでしたか、と聞いているのです。
A:……。ありました。
弁護人:何日ぐらい前ですか。
A:1週間くらい前です。
弁護人:それは、どこで起きたことですか。
A:ボウリング場です。
弁護人:あなたはそこでなにをしたのですか。
A:人を殴りました。
弁護人:何人で何人を殴ったのですか。
A:4~5人で1人を、です。
弁護人:集団で殴った側にあなたもいたわけですね。
A:はい。
弁護人:相手を殴るほどの理由があったのですか。
A:勘違いということがありました。
弁護人:相手はケガをしましたか。
A:はい。
事件はこの公判1週間前の深夜1時ごろ、諏訪市(長野県)のボウリング場で起きていたのだった。
新聞報道はされていないため、公にはなっていなかった。
しかし、被害者の父親が以前から知り合いだった原告側弁護士に刑事事件にすべきかどうか相談したのだった。
その事件とは、Aらのグループにいた女性に、たまたま来ていたその子の同級生が声をかけ、それをナンパと勘違いしたAらが、ボウリング場の外に連れだしリンチを加えたものである。
僕は被害者家族に面会したが、もう一歩で稔之君が殺された状況が再現されるところだったのである。稔之君の事件と同様、理由はない。ただ、「ムカついた」だけだ。
弁護人:少年院を出て以降も、あなたは集団リンチを加える事件にかかわっていたわけですね。
A:……。そういうことになります。
弁護人:宮田稔之君を死なせてしまった3年前の事件と、いま明らかになった今回のリンチ事件を除いて、相手がいちばんひどいケガを負ったときには、どういう状態になったのですか。
A:鼻血が出て、顔が腫れたことがありました。
弁護人:あなたは松川の暴走族グループにはいっていたことがありますか。
A:はい。
弁護人:稔之君が亡くなった事件の当時は、どうだったのですか。
A:はいっていました。
弁護人:あのときは事件で加害者側にいた7人のうち、その暴走族グループにはいっていた人はいましたか。
A:いません。僕だけです。
弁護人:あなたは人を殴りたいと思って相手を探すのですか。
A:それだけではありません。
弁護人:それだけのときも、あったのですか。
A:昔はありました。
弁護人:喧嘩をする、というのはあなたにとってどういうことですか。
A:どちらかが謝るまでやる、ということです。
弁護人:相手が謝らなければ、暴力を止めないのですか。
A:相手の態度が悪くてシメる場合には、今度から態度を改めて、もうしないと誓えば止めていました。
弁護人:あなたの場合、相手に暴力を加える気になるのはどういうことからなのですか。
A:年上の者に対して、あいさつもせず生意気だという気がしたときです。
弁護人:いま考えてみて、どう思っていますか。
A:おかしい考えだと思っています。
弁護人:おかしい考えだと反省したはずなのに、また1週間前にリンチをしたのですか。
A:……。
弁護人:自分で考えてみてもおかしいと思うことをやるようになってしまったのは、どうしてだと思いますか。
A:暴力で勝つことが、かっこいいと思いはじめたからです。
Aは1年と3カ月の少年院生活でなんの反省もしていないことが判明したのだった。
また、のちに開かれた公判でおこなわれたBへの尋問では、Bが自分たちのおこなった事件の全体像をほとんど把握できていないことも露呈した。Bが少年院にいたのはたった3カ月である。
稔之君の命を奪っても、激しく揺れることのない彼らの「心」とはいったいなんなのか。
「少年院では、規則正しい生活をしなさい、我慢をしなさいということだけを教わったそうです。
それでは少年の反省にもならなければ更生の出発にもなりません。
民事訴訟を起こしたことで、少年法に従っていては見えなかった真実がたくさん見え、少年法の審判が本当に少年にやったことの事実や意味を理解させ、更生させることはできるのかどうかも問うことができたと思っています」
民事訴訟は両親の全面勝訴に
宮田さん夫婦に訴えられた被告側は、「被害者にも過失があった」として過失相殺論を展開した。つまり、非はむろん加害者側のほうが大きいが、被害者のほうにも「喧嘩をしかけられても仕方がない要素」が存在していたのだという理屈である。
28日の登校時における透君のBに対する挑発・非礼な態度が事件を誘発した側面があること、喧嘩になることも予想しながら現場に出向いたこと、そのときに護身用であってもゴルフクラブを携帯したこと、先に稔之君が手をだしたこと、などをその理由としている。
どれも言いがかりに近い抗弁と言える。登校時のやりとりは、その前日にAが透君に因縁をつけるためにかけた電話に端を発しているのだし、ゴルフクラブなどを稔之君が使った形跡も認められない。
また、先に手をだしたというのは甚だしい事実の歪曲(わいきょく)である。それらのことは、警察が作成した調書を読めばわかることである。
民事訴訟の判決は2000年3月にあった。宮田さんの全面勝訴であった。
請求したほぼ満額が認められ、被告側が主張した過失相殺の理屈も退けられた。
裁判所の判定は先に僕が述べたことに加え、「(稔之君らが)ゴルフクラブを準備しようがしまいが、初めから(稔之君らが)謝罪しない限りは徹底的に暴力を加えることを意図していた」とし、稔之君らが先に手をだしたことはおろか、まったく反撃も抵抗もしていないことを認定したのである。
事件を誘発した要因も稔之君側には一切ない、とも明言した。
判決は断言する。
【もともとは被告Aが喧嘩をする相手を探していたところ、たまたま透の話題が出て、同人の普段の態度に因縁をつけて、被告Aらが文句の電話をかけたことに端を発しており、被告らが透に右のような電話をかけなければ起こらなかった事件であること、本件暴行はほとんど被告らによる一方的な集団暴行であり、しかも、度を越したすさまじいものであったこと、被告らは稔之が息絶え絶えになっている状況を認識しながら、適切な救命措置もとることなく、証拠隠滅工作や被告A一人に責任転嫁を図ること(被告Aから、自ら責任をとるからほかの被告は逃げるようにとの指示があったとしても)に終始し、その結果、稔之を死亡させるに至らしめたものであり、被告らの行為は極めて悪質である】
判決は全面勝訴だったが、各被告の賠償割合(加害者責任割合)がはっきりしていないものだったため、宮田さん夫婦は控訴した。被告側も控訴。
「私は事実を明らかにすることと同時に、稔之を殺した少年たちに、人の命をこの世から抹殺したという罪を犯したら、それに対する罰があるのだということをわかってほしいのです。
『罪と罰』にはバランスがあるのです。人を殺したということは最大の犯罪です。
殺されたほうにはなんの手だてもとられないのに、殺したほうにだけ手厚い保護の手だてがとられ、罰が与えられない。少年法で裁かれ、少年院に短い期間だけ送られるということは罰ではないのです。
加害者がやったこと、被害者がやられたことに対する決着がないと遺族はなにも前へ進めないし、考えることもできないんです。罪に対する罰という決着です。
これは、厳罰化ではありません」
■藤井誠二(ふじいせいじ)
1965年愛知県生まれ。高校時代より社会運動にかかわりながら、取材者の道へ。著書に『殺された側の論理』(講談社プラスアルファ文庫)、『「少年A」被害者遺族の慟哭』(小学館新書)、『体罰はなぜなくならないのか』(幻冬舎新書)、『沖縄アンダーグラウンド売春街を生きた者たち』(集英社文庫)など多数。愛知淑徳大学非常勤講師として「ノンフィクション論」を担当。ラジオパーソナリティやテレビコメンテーターも務める。