江口寿史氏のイラスト、著作権的には“セーフ”の可能性も? 「トレパク」をめぐる“権利侵害”の判断ポイント
漫画家・イラストレーターの江口寿史氏が手掛けた、ルミネの開催する「中央線文化祭2025」のポスターが、SNSに投稿されたモデル・金井球(かない・きゅう)氏の自撮り写真を参考にして描かれていたことが判明した問題に端を発して、イラストにおける「トレース行為」の是非が議論を呼んでいる。
「正当なトレース」と「不当なトレース」の境界線は、どこにあるのだろうか。
(本文:友利昴)

トレース行為の適・不適の境界線は?

この件に関する報道では、「トレース疑惑」という言葉を使う媒体もあるが、まるでトレース自体に不正性があることを含意した書きぶりであり、正確性を欠く。
トレースという手法自体には違法性はないし、またトレースさえすれば誰にでもいい絵が描けるというわけでもなく、創作プロセスとして不適切でもない。過去には、水木しげる、池上遼一、かわぐちかいじ、井上雄彦などの大御所漫画家の作品にも指摘が入ったことがある。
しかし、トレースのやり方や程度によっては、オリジナリティやセンスに疑義が呈されることがあり、また違法性が生じる場合もある。その境界線はどこにあるのか。
イラストであれなんであれ、創作物においては、既存の作品に影響を受けながら新たなものが生み出されることは必然だ。文化は、「真似(まね)」の繰り返しでここまで発展してきた。
見方を変えれば、一旦、世に出した自分の作品が、適法な範囲で、誰かに真似され、新たな作品を生み出す手助けになることは、創作者である以上は受け入れなければならない。
これが創作の秩序であり、その秩序を守るのが著作権法などの法律である。
真似をすべて規制すれば文化の発展はない。また、真似であることをもって、あたかも不正を働いたかのように喧伝してクリエイターや関係者に損害を与えれば、名誉毀損(きそん)や業務妨害として法的責任を追及されるリスクすらもある。
不正行為となるのは、真似を通して「元の作品の表現上の本質的な特徴」を無断利用することだ。これが盗作であり、権利者の許可なくしてはできない。
これこそが、「作品の権利保護」と「作品利用による新たな創作奨励」の両者のバランスを考慮したうえで法が見出した適否の境界線である。
また、人物の肖像がかかわるときには、別の観点での境界線も意識しなければならない。人には自分の肖像をみだりに使われたくないという感情があり、これは法的にも保護されている。
創作物の場合は、世に新たな創作をもたらすために、作者本人がイヤだと言っても、一定程度他人に利用されることは織り込まなければならないが、肖像は異なる。
公人か私人か、群衆のなかの一部かなど、シチュエーションによっても基準は変わるが、社会生活上の受忍限度を超える使われ方、言い換えれば、普通はイヤだと思われるような使われ方は、許されないのだ。

特徴部分がいかに忠実に再現されているかがポイント

つまり、人物のポートレート写真を真似してイラストを描く場合、その適・不適の境界線は、著作権の観点からは「その写真の表現上の本質的な特徴が再現されているかどうか」、肖像権の観点からは「被写体人物の社会生活上の受忍限度を超えているかどうか」の2点である。
しばしば、「トレースしても左右反転させればセーフか?」「ポーズの一部を変えればセーフか?」「トレースせずに写真を見ながら模写すればセーフか?」などと言われるのだが、これらはいずれも境界線とは関係がない。
トレースせずに、写真を横に置いて見ながら、あるいは見ずに記憶して描いても、結果的に元の写真の特徴や、元の人物と分かる程度に再現されていれば問題である。逆に、トレースして外郭線などが重なるとしても、本人と分からない程度に写真の特徴が失われていれば何ら問題はないのである。
総じていえば、「どれだけ忠実に再現されているか」が境界線のポイントになる場合が多い。
そして、人物のポートレート写真をトレースして描かれたイラストについて、写真の表現上の特徴が忠実に再現されていると評価できるケースは、実は、意外と多くない。
なぜならば、人物の顔立ちやポーズ、服装自体は、通常、写真を撮る前から存在する、撮影者にとって所与のものであり、そもそも「表現」ではないからである。したがって、顔が似ている、服が同じといった共通点は、著作権との関係では省いて検討しなければならない。

写真の表現上の特徴は、陰影、彩度、焦点、背景などとのコントラスト、構図、アングル、シャッターチャンスの捉え(とらえ)などに宿る。このうち、陰影からコントラストまでは、漫画的なイラストでは捨象されることが多いだろう。
構図、アングルはイラストでも引き継がれるが、ポートレート写真の場合は、定番の構図、アングルが採用されることも多く、その場合は「ありふれた表現」として、その写真の特徴というには難しいケースもある。

江口氏の作画を断罪できない理由

争点化しやすいのは「シャッターチャンスの捉え」である。人物の横顔でいえば、その人が見せた一瞬の良い表情をいかに捉えたかで、写真の良さが決まる。その一瞬の表情がイラストで再現されているかどうかは極めて重要な論点だ。
今回の江口氏の作画において、元ネタとなった金井氏の写真の内容は、基本的にはかなり忠実に再現されているといえる。「素人目にも明らかに似ている」と世間で言われる通りである。
しかしプロが適否を考えるうえでは、髪型や顔の造作を除いて、写真が捉えた金井氏の表情に注目する必要がある。そしてその点が忠実に再現されているかというと、微妙な線なのである。
江口氏の作画は、元の写真に比べると、目の虹彩や瞳孔を強調して描いており、前髪もすっきりさせて眉が見えている。そして大きな相違点として鼻の角度が異なり、上を向いている。これらの差異によって、元の写真はどちらかといえば憂いをまとった表情を捉えているが、江口氏のイラストは前向きな表情を描いているといえる。

表面的にはよく似ていても、その特徴的な表現部分においては相違点があることも確かなのだ。ここが、今回の江口氏の作画を直ちに断罪できないポイントである。

トレパクが「冤罪(えんざい)」となった裁判例

実際の裁判例においても、「ポーズが同じ」「2枚重ねると線が一致する」というようなことだけでは、著作権侵害は認められていない。
以下のイラストは、いずれも人物のポートレート写真からのトレースであることは認められたものの、著作権侵害にはあたらないと判断された事例である。
特に下段の事例では、外部からトレースを指摘された絵の作者が、権利者に正直に謝罪したところ、高額の使用料を請求され、訴訟提起されたという経緯があったうえで、絵の作者の方が勝訴している。トレースをしたことに負い目を感じる必要がない場合もあるのだ。
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左:「聖教グラフ」1990年8月15日号、右:政治活動家ビラ

江口寿史氏のイラスト、著作権的には“セーフ”の可能性も? 「トレパク」をめぐる“権利侵害”の判断ポイント

東京地裁平成30年3月29日判決別紙より

江口氏に欠けていた配慮とは何だったのか

肖像権の観点ではどうだろうか。ポスターに自分の写真が使われたことに気付いた金井氏は、そのときの感情を「わたしの横顔が、知らないうちに大きく荻窪に……!?」と言葉にしている。
自分が以前SNSにアップしていただけの自撮り写真が、いつの間にか百貨店の広告に使われて街で大々的に掲載されていたとなれば、まさしく青天のへきれき(受忍限度外)というほかないだろう。
もっとも、今回の広告で使われたのは写真そのものではなく、イラスト化されたものである。一般論として、他人の肖像が元ネタであっても、イラスト化に際してデフォルメを施すなどして、もはや本人の肖像とは言えなくなっている場合は、別の評価もあり得る。
ただし、今回の江口氏のポスターに関しては、画風が写実的であり、さらに元ネタとなる本人の写真の存在が明らかになっている点を、重く見るべきだろう。
裁判例としては、ファッション誌に掲載されたアパレル会社経営者のポートレート写真を参考に描かれたヤンキー漫画について、肖像権侵害が認められたことがある。

この漫画は劇画ギャグで、作画にあたり一定のデフォルメが施されていたものの、特徴的な髪型等が一致していた。また、本人からのクレームに対して、作者や編集者が写真を参考にしたことを認め、単行本化に際し描き直されていた点なども判断要素として重視されたと考えられる。
以上のような考察を踏まえて、今回の出来事を総合的に考えると、著作権はギリギリのオンライン。しかし肖像権には配慮が足りなかったのでは、というのが筆者の見立てである。事後でも承諾を得たのは適切だったと思う。
そして江口氏は、決して著作権を知らないわけでも、他人の作品に無頓着なわけでもなく、おそらくご本人としての正当性に基づき適・不適を考えたうえで、その境界線のギリギリを見極めて模写をしていたのではないだろうか。
ただ、境界線を攻めた以上は、最終的な落としどころがどうなるにしても、トラブルを招いてもおかしくはない。また、写実的な作風で写真表現からの飛躍が目立ちにくいこともあり、オリジナリティという観点から疑問視される可能性もあるだろう(現に今回はそうなっている)。
それらのリスクを織り込んで、作家が自分の責任で境界線に挑んだ作品づくりをすることは結構であり、それを外野が責めるべきではないと思う。しかし今回のような、多くのステークホルダーが絡む広告案件で、あえてギリギリに挑む必要があったのかどうかは疑問である。
■友利昴(ともり・すばる)
作家。企業で知財実務に携わる傍ら、著述・講演活動を行う。
ソニーグループ、メルカリなどの多くの企業・業界団体等において知財人材の取材や講演・講師を手掛けており、企業の知財活動に詳しい。『江戸・明治のロゴ図鑑』『企業と商標のウマい付き合い方談義』『エセ著作権事件簿』の他、多くの著書がある。1級知的財産管理技能士。


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