今年3月、少年犯罪で子どもの命を奪われた遺族らでつくる「少年犯罪被害当事者の会」(大阪市)が毎年開いてきた我が子らへの追悼集会「WiLL」が四半世紀の歴史に幕を閉じた。背景には遺族の高齢化や活動資金不足があるという。

同会は1997年、代表の武るり子さん(70)と夫の和光さん(故人)の呼びかけで、大阪や沖縄の4家族が集まって発足した。現在は約30家族が参加している。会の活動は刑事罰の対象年齢引き下げや、少年審判の一部で遺族らの出席が可能になるといった少年法改正のほか、犯罪被害者等基本法の成立にもつながった。
本記事では、ノンフィクション作家・藤井誠二氏の著書『少年が人を殺した街を歩く 君たちはなぜ残酷になれたのか』(2025年、論創社)から、武夫妻が長男・孝和君を面識のない少年の一方的な暴力によって失い、少年犯罪被害当事者の会を発足するに至るまでの経緯を記した箇所を抜粋して紹介する。(本文:藤井誠二)

息子が負傷したとの突然の知らせ

大阪市西淀川区野里は、大阪駅から一駅とは思えないほど、下町情緒を残している。駅前の商店街を抜け、軒先だけでモツ焼きなどを売る店が点在する道をしばらく歩くと住吉神社がある。境内では、近所の小学生たちだろう、子ども用のマウンテンバイクを傍らに置いてふざけ合っている。
この神社に1996年11月初旬、身を切られるような寒さの中で毎夜、お百度参りをする、がっしりとした体格の男性の姿があった。男性は神社の目の前に住む武和光さんだった。神主にお百度参りのやり方を教わった和光さんは、紙縒り(こより)を100本つくり、本殿にお辞儀をして頼み事をし、紙縒りを置く。それを100回繰り返す。和光さんはコートを何枚も羽織り、しかし裸足で、ひたすら氷のような石畳の上でお百度を踏んだ。
和光さんの心中は頼み事と呼べるようなものではなく、一心不乱の祈りだった。
和光さんがお百度参りをするあいだ、彼の長男の孝和君は、国立大阪病院の集中治療室で眠り続けていたのである。脳に激しい損傷を受けた孝和君は口に呼吸器をつけ、幾本ものチューブが身体につながれていた。
1か月前に16歳になったばかりの孝和君は、命の灯火を消すまいと壮絶な闘いを、傍らで両親が見守る中で続けていたのだった。孝和君に脳に損傷を受けるほどのケガを負わせたのは、見も知らぬ高校生らだった。
事件が起きたのは、1996年11月3日。孝和君の通う大阪市立此花(このはな)工業高校の文化祭の日だった。いつもは朝寝坊の孝和君が6時半に起きだし、朝ご飯も食べずにはりきって出かけていった。
午後3時40分ごろ、武さんの家に孝和君の同級生から電話がはいる。母親のるり子さんが受けた。
「武君が自転車でこけた。鼻血をだしてて、言っていることがおかしいので、すぐに来てください」
孝和君は学校の近くに住む同級生の家に運び込まれており、和光さんとるり子さんは車を走らせた。到着すると、孝和君がよろよろと鼻血を出しながら出てきた。

そこにいた友人が「学校の帰り、武君がハンドルを握って僕が後ろに乗って、自転車の2人乗りをしていたら、前から急に車が来た。僕がびっくりして飛び下りたら、自転車がひっくり返ったんです」と、孝和君に代わって事情を話した。
孝和君は軽度の血友病で、出血したときには止血処置を丁寧におこなわないと、後遺症が残る危険性があった。だから、両親はケガをする確率の高いスポーツは避けさせ、物心ついてからは「ケガをしないように」とくどいほど孝和君に言いきかせてきた。
和光さんは「なにがあっても喧嘩はするな。ケンカはお互いやる気にならなくては成立しない。相手が向かってきたら、おまえは逃げろ。逃げるやつを追いかけてまで殴るやつはおらんから」とことあるごとに息子に念を押してきた。
血液製剤を毎日打たねばならないほど重度ではなかったが、打撲や捻挫をすると大きすぎるコブやアザができたり、関節に血液が溜まってしまい、そうなると血液製剤を注射する必要があった。
とうぜん負傷した孝和君を見て両親は焦った。すぐに車に乗せ、病院へと急ぐ。孝和君は1人で車に乗り込んだとたん「頭が痛い、気分が悪い」と言いはじめたが、なんとか両親との会話には応じることができた。

幼いころからかかりつけている国立大阪病院に到着したのは午後4時半ごろ。処置室の前で待っているうちに、孝和君は再び「頭が痛い」と言いだし、次第に「吐きそうや」と苦しみはじめる。
CTスキャンを撮るためにストレッチャーに乗せられたときは話もできない状態になり、嘔吐。撮影中は苦しいのか激しく暴れ、和光さんが中にはいって身体を押さえた。途中、呼吸が止まったようになり、アンビューバッグ(手動で肺に空気を送り込む風船)が運び込まれた。
水飲みたい、お茶飲みたいと孝和君は言い、胃液のようなものを吐きだした。その後、集中治療室に移されたが、脳内の出血はそれほどひどくはなかったため、医師は両親に「自宅に帰ってもよろしい」と伝えた。両親はひとまずホッとしたのだった。
自宅に戻った両親に、孝和君の容体の急変を知らせる電話がかかってきたのは深夜2時だった。医師が言う。
「呼吸が止まってしまいました。すぐ来てください。
手術をしなくてはなりません。」
後日、和光さんは「血友病だからですか」と聞いているが、それは関係ないと医師は答えた。
手術は明け方からスタートし、午前9時に終了。頭蓋内にできた血のかたまりを除去するための開頭手術だったが、手術は成功したと医師は言った。しかし、孝和君は人工呼吸器をつけ、ピクリとも動かなかった。意識も戻らない。ただ、心臓は動いていた。
翌5日になり、一昨日、両親に孝和君がケガをした事情を説明した同級生らがやってきて、開口一番、「すみませんでした。噓をついていました」と謝った。
そして、「自転車でこけたのではなく、孝和君は他校の子の暴力にやられたのです」と告白したのである。孝和君の友人らが、彼の両親に噓をつかざるをえなかったのは、加害者の少年らの仕返しが恐ろしかったからだった。

謝る少年に殴る蹴るの暴行

孝和君の友人らの証言や、その後に独自に収集した情報をつなぎ合わせると、武さん夫婦が知りえた状況はこうだった。
文化祭が終わって片付けをしていた孝和君のクラスに、大阪府立大正高校の生徒ら4人がやってきて「○○知らんか」と何人かに聞いて回っていた。孝和君も聞かれたが、後ろを向いていて作業をしていたため聞き取れず、「えっ?」と言って振り向いた。

すると4人のうちのAが、その態度が気に入らないと怒りはじめ、孝和君の襟首をつかんだ。Bは椅子を振り上げた。しかし、仲間の1人Cが「もうええやん、帰ろう」となだめたため、廊下にいたDとともにその場を去っていった。
ところが、それで事態は終わらなかった。大正高校などの生徒たちは校門で孝和君を待ち伏せしており、Aが孝和君に「ちょう来い」といらだった感じで声をかけてきた。
が、生活指導した教員が駆けつけ、「なにかあったんやったら、堪忍したってください」と下手にAに言ったので、いったんはAらは離れていく。教員はいまのうちに帰るように指示、孝和君と友だちは自転車の2人乗りをして、ほかの友人ら数人と校門を出た。
ところが700メートルぐらい走ったところで、校門で待ち伏せしていた連中に追いつかれてしまう。「どっちがタイマンはるんや」とAが孝和君の同級生に聞くと、Bが「こいつや、こいつや」と孝和君を指さした。
それを聞いたAは孝和君を路地に連れ込み、右手の拳で鼻と上唇のあいだ(人中)を殴りつけた。孝和君はひたすら謝ったが、Aは聞く耳を持っていなかった。自転車に一緒に乗っていた孝和君の友人がBに「止めたってください」と頼んだが、「おまえ、タイマン止めるんか」と逆にBがすごんだため、友人はそれ以上なにも言えなくなった。

さらにAは左の拳でまた孝和君の人中を殴り、左足で頭に回し蹴りをくらわせると孝和君はひっくり返って意識を失った。抱き起こして正気に戻した友人も、今度はBに2回殴られた。
その間、Aはすぐ横でパンチや回し蹴りなどのデモンストレーションをしていた。身長180センチを超えるAは空手の心得があったようだった。最後にAは煙草を吸い、その灰を孝和君の頭や足に落とし、吸い殻を投げつけて立ち去って行った。
孝和君は集中治療室で眠り続け、11月15日になって危篤状態に陥る。和光さんは警察に電話をかけ息子が危篤状態になったことを告げ、「すぐにAを捕まえてくれ」と訴えた。なんとしても息子が生きているうちに、犯人の少年を捕まえてほしかったからである。そして夕方5時、Aの身柄が拘束された。
そして和光さんは、容疑者が逮捕された時点で病院の近くのコンビニエンスストアから次のような文章を各社に送った。息子の命があるうちに息子の名誉を守りたいと考え、本当はもっと早い時期にマスコミに対し事件の事実を伝えようと思っていたのだが、警察から捜査の障害になると言われていたため自重していたのである。
【11月3日午後3時半頃、此花工業高校に通っている1年化学工業科B組の武孝和という生徒がいんねんをつけられ、あやまっているにもかかわらず、本人もけんかを避けようとして逃げても追いかけてきて、なぐる、けるの暴力をふるい意識不明の重体で現在危とく状態です。
今後このような事件がないようにマスコミ各社のご協力をお願いします。なお相手は現在此花警察署に逮捕されたようです。国立大阪病院に入院していますので、現在私たちは家をあけています。】
末尾には、武さんの住所と電話番号を明記した。
その夜の11時43分、孝和君は意識を取り戻さないまま、息を引き取った。直接の死因は肺炎だったが、硬膜外出血により脳死状態に陥り、肺に血がたまったことにより合併症も引き起こしていたのである。
るり子さんは「なんとかしてー!噓やー!」と声のかぎりに絶叫し続けた。孝和君の弟たちも「お兄ちゃーん、お兄ちゃーん」と叫び続けた。和光さんは悲憤を声にださず、体を震わせた。家族は瞬時にして、絶望のどん底に蹴落とされ、ズタズタにされた。
和光さんのマスコミへの呼びかけにはすぐに反応があった。直接取材に来たのは、毎日と読売。朝日と産経は来なかったが、4紙とも16日の朝刊で事件を報じた。
マスコミにファックスを流したとき、武さん夫婦はこんな、凄絶な覚悟ともいえる会話を交わしている。
「おれたちはこれから見せ物パンダになってもいいな。プライバシーはないぞ。すべてをさらけ出さないと闘えないんだ。」
「いいよ。わかってる。」

「喧嘩の挙げ句死亡」と記事に

ところが、取材に来なかった社だけが、「調べでは、府立高校生は今月3日、同じ高校の友人らと大阪市内の市立高校の文化祭に行き、たまたま出会った面識のない同市立高校1年の男子生徒(16)に話しかけた際、『返事の仕方が悪い』と口論になった」(朝日)、「大阪市此花区内の路上で今月3日、高校生同士がけんか、殴られた男子生徒が意識不明の末、死亡する事件があり」(産経)と書いた。
つまり、被害者である孝和君が、あたかも加害者の高校生らとけんかの挙げ句に死亡したという書き方になったのだ。朝日と産経は警察の「生徒同士のけんか」としたプレスリリースだけを鵜吞みにして書いたため、事実とズレてしまったのである。
武さん夫妻は朝日と産経に誤解であることを伝え、両紙とも直後の朝刊で「被害者は争いを避けようとして、抵抗しないで一方的に暴行を受けた」という表現に変更した。
11月16日夕方、司法解剖を終えた孝和君の遺体が自宅に帰ってきた。2週間ぶりの帰宅だった。17日に通夜、18日に告別式がおこなわれた。孝和君の通っていた高校では事件後ただちに独自の調査を開始し、12月4日にはB5判5ページの「武孝和君の被害に関する報告書」をまとめたが、警察からはなんの報告もない。
司法解剖の際、和光さんは警察官に「相手は誰か」とたずねた。すると警察官は、日本は法治国家だから仇討ちは許されず、少年法があり、加害少年の立ち直る可能性を助けるものだといった意味のことを告げるだけで、肝心の事件概要や加害者の供述については教えてくれなかった。
少年法?なんのことだろう。和光さんは家にあった古い六法全書から少年法の部分を拡大コピーして読みはじめたが、わが子が突然家の中から姿を消してしまったという現実に打ちのめされ、加害者に対して家裁の決定が出るまでは、落ち着いて読むことができなかった。
それに、いくらなんでも被害者側に情報を教えてくれないとは思えなかったからである。いつか警察か家裁から呼び出しがあって、説明があるものと思っていた。
しかし、いくら待てども連絡はない。武さん夫妻は家裁の調査官を訪ね、遺族の心情を話し、事件について聞こうとしたが、調査官の返事は「家裁は事実関係を云々するところではなく、加害少年が生きていくことを考える場で、親御さんの心情を聞きたいわけではない」というものだった。
2人は愕然(がくぜん)とした。それでも、反論しなかったのは、家裁の心証を悪くしたくないという自己規制がはたらいたからである。
そこで武さん夫妻は、事件を報じた新聞記事を刷り込んだチラシを1万2000枚作成し、2月1日~2日の両日、此花区に配達される新聞に折り込んだ。
【ご存じないですか?平成8年1月3日(日曜日)、此花工業の文化祭で、こういう事がありました。此花工業高校の門の前で7~8人が午後2時ごろから3時過ぎまで待ち伏せし、700メートル以上追いかけて、謝っているにもかかわらず、一方的に殴る、けるの暴行を加えました。なお相手の子は空手を習っていた大正高校の一年生です。(中略)心ある方は、どんな小さなことでも結構ですので情報をお寄せください。】
反応はすぐにあった。加害少年の日頃の素行情報が何件か寄せられ、さらに警察から「どうしてこんなビラを作ったのか」という問い合わせがきた。警察からなにも教えてもらっていないので、真実を知るためにはこのような方法しかないと和光さんが答えると、警察が事件の概要を説明してくれることになった。が、それはあくまでも警察の「超法規的措置」であった。
それによると、加害者Aは、「相手(孝和君)は髪を茶色に染めて、見るからに喧嘩が強そうだったため、やらないと自分が負けるかもしれないと思ってやった。あれはあくまで喧嘩だ」「相手が倒れたときはびっくりして、あわてて心臓マッサージをした」と供述しているというのだ。
孝和君は身長165センチ、痩せて色白の少年だった。髪を染めてはいない。それに、自らを血友病と知る孝和君が、喧嘩をするはずがなかった。Aが心臓マッサージをする姿は誰も見ていない。
「息子は一方的に殺されたのに、そのことについて一切知らせてもらえない。そして、加害者Aがこんな噓を言っているのに、それを被害者側が訂正を迫ったり、本当に事実なのか争うシステムもない。
被害者遺族でありながら私たちはカヤの外に置かれ、加害少年の審判の決定後も審判の内容を知らされることもありません。Aが審判の席で罪を認めたかどうかもわからないのです」(るり子さん)
Aに対する家裁の保護処分は、1年間の中等少年院送致となった。これも公式に知らされたことではない。
「少年院でどんな教育を受けているのかすら、私たちは知ることができません。本当に形だけでなく、心からすまないという気持ちが持てるような矯正教育がされているのでしょうか。また、少年院に送られたことで、もう罪は償ったと思われるのではたまりません。Aは孝和や私たちの無念がわかるでしょうか」(るり子さん)

「少年犯罪被害当事者の会」発足

武さんが会をつくる契機になったのは、孝和君のことがマスコミに取り上げられるようになったことである。同じような境遇に追いやられた人がいることをマスコミを通じて知り、互いに連絡を取り合うようになり、1997年2月に会として発足した。現在(1998年当時)は十数家族が集っている。
会といっても会則があるわけではない。互いの悲惨な状況や憤りを共有したいという思いが結実しただけである。
1998年4月28日、武さんら「少年犯罪被害当事者の会」の遺族は東京に集まり、下稲葉耕吉法務大臣(当時)に「少年法の改正を求める要望書」を手渡した。要望書は以下のとおりである。
【事件に遭遇した私たちは、いったい誰が、なぜ、どのようにわが子を殺したのか、教えてもらえませんでした。警察に尋ねても、「残念ながら少年法があるから教えることができない」と言われました。子供を殺された大きな衝撃の中、思いもよらなかったこうした現実は、私たちの疲れた心と体に重くのしかかりました。
やり場のない怒り、哀しみ、苦しみ、恨み――世の中に存在するあらゆる屈辱を受けなければいけない理不尽を味わった私たちは、ただ悲しんでばかりいるわけにはいきませんでした。「真実を知りたい」「このまま許すわけにはいかない」「裁判では犯罪事実を知ることができる」と思い、「殺人という重罪を犯した犯人たちには、それ相応の刑罰が科せられる」と信じて疑っていなかったのです。
しかしながら、実際には「刑事裁判」とはまったく性質の異なる「審判」が行われ、しかもその期日はもちろん、内容も一切私たちに知らされずに深い闇の中で終了し、加害少年たちの処遇はすでに決定していました。
なぜ、こんなことになったのか?少年法には何が書かれているのか?私たちがそこで初めて読んだ法律は、実に不可解きわまりないものでした。私たちは、正義をじゅうぶんに生かすことができない現行の少年法の下で成長する子供たちは、むしろ不幸だと思っています。
事実、私たちの子供を殺害した少年たちの犯罪は、死者に追い打ちをかけるようなむごたらしい内容であるにもかかわらず、少年側は「まさか死ぬとは思わなかった」「殺意はなかった」などと言い逃れをするケースが多かったのでした。
このような判断能力はある一方で、実際に人を殺してしまったことに対して、あまりにも無責任に権利だけを主張するような子供たちを無批判に容認してしまう社会が、本当に幸せな子供たちを育てる健全な社会だと自信を持って言えるのでしょうか。
私たちは「少年法」が第一条で(この法律の目的)として掲げている「少年の健全な育成」を否定しているわけではありませんし、厳罰を求めているわけでもありません。私たちが少年法の改正を求めるのは、真の意味での「少年の健全な育成」を具現化し、私たちの子供が味わったような悲劇を繰り返さないようにするためです。
つまり私たちは、少年に罪の意識をしっかり認識させ、自分の罪の深さを正しく認めて反省をすることによって、初めて少年の健全な育成はスタートすると考えています。
そしてまた、私たちの根底にあるのは、もう二度と帰らない子供に対し、「どんなに痛かっただろう」「どんなに苦しかっただろう」とその無念さを思う、世俗的な利害関係を離れた親の純粋な気持ちです。】
法務大臣室には、9遺族と法務大臣、紹介議員である自民党の深谷隆司らが顔を並べた。マスコミも数多く同道していた。武さんが自らの心情をこめて大臣にあいさつをすると遺族のあいだから嗚咽(おえつ)がもれた。
■藤井誠二(ふじいせいじ)
1965年愛知県生まれ。高校時代より社会運動にかかわりながら、取材者の道へ。著書に『殺された側の論理』(講談社プラスアルファ文庫)、『「少年A」被害者遺族の慟哭』(小学館新書)、『体罰はなぜなくならないのか』(幻冬舎新書)、『沖縄アンダーグラウンド売春街を生きた者たち』(集英社文庫)など多数。愛知淑徳大学非常勤講師として「ノンフィクション論」を担当。ラジオパーソナリティやテレビコメンテーターも務める。


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