NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺』10月12日放送回で、蔦屋重三郎は刊行した本3点が絶版(発禁)となった罪で、身上半減(しんしょうはんげん)に処された。この判決を蔦重に言い渡した町奉行が初鹿野信興(はじかの・のぶおき)である。
この奉行は世間の評価が上々→失墜→最後は同情と目まぐるしく変わった人物だった。(本文:小林明)

松平定信の指示で出版統制の先陣を切る

松平定信が老中首座に就き寛政の改革(1787年~)が開始されると、風紀を乱す書物の出版を禁じる統制が強まりました。
具体的には1790(寛政2)年5月、吉原遊郭などを舞台とした好色本や、時世を皮肉ったり、風刺したりする黄表紙という体裁の本の新規制作を禁止するなど、出版関係者にとって死活問題といえる厳しい規制が行われました。
さらにその5カ月後、どうしても新規に本を世に出したい場合は地本問屋(出版社)同士で自主的に検閲を徹底し、出版可としたものに限ってのみ認めると命じます。この検閲を行事改(ぎょうじあらため)といいました。
初鹿野信興はこの検閲令を下した人物です。といっても命じたのは松平定信であり、信興は指示に従ったに過ぎません。当時は江戸北町奉行の任にありました。
翌年の1791(寛政3)年、信興は3冊の本を絶版としました。作者はいずれも山東京伝、地本問屋は蔦重率いる耕書堂でした。業界団体の自主性に任せていたため、検閲が緩かったためです。
例えば絶版本に描かれたのは、吉原や深川など実在する遊里(ゆうり/遊女屋を集めたエリア)ではなく、「某所にある色里(相模国大磯/現在の神奈川県)」といった架空の場所であり、また内容も遊女との交際の仕方を指南する「教訓読本」を装っていました。地本問屋たちは、そうした曖昧な設定なら大丈夫だろうと考えていたのです。

しかし、甘かった——。どれだけ策を弄しても、結局は道楽をテーマとした好色本ではないかと、奉行所に判断されてしまったわけです。
その結果、信興は、作者の京伝は鉄製の手錠をかけて自宅謹慎させる「手鎖(てぐさり)の刑50日」、蔦重は「身上半減」に処します。身上半減とは財産の半分を没収という説と、年収の半分という説があり、どちらか判然としませんが、当時としては珍しい処罰だったそうです。

実父も名奉行と誉高かった男

このように初鹿野信興は、松平定信が主導する出版統制の現場を担い、娯楽本を取り締まった人物として知られます。しかし、町奉行に就任した当初の評判は、決して悪くありませんでした。
江戸北町奉行に就く前は、相模国浦賀で船舶検査などを任務としていた浦賀奉行でした。北町奉行への転任は1788(天明8)年9月。浦賀時代の家禄は1200石でしたが、町奉行就任で約高(役職手当)が1800石増え、合計3000石となります。
実父は依田政次(よだ・まさつぐ)という旗本で、この人も北町奉行を務めていました。役人の不正を嫌った厳格な男で、定信もその評価は耳にしていたようです。信興はすでに初鹿野家に婿入りしていましたが、政次のような堅い男の実子であれば間違いないと、父と同じ北町奉行に抜擢したといわれます。
町でもあの名奉行の実子がやって来た——そう歓迎されたと、風聞集『よしの冊子』にあります。
実際、歴代の町奉行には公事(裁判)を配下の与力に任せきりの者もいましたが、信興は自ら原告・被告の申し分を聞いて、裁定を下しました。
こんな事件もありました。下町で葬儀があった際、死者を弔った棺が誤って落ちてしまい、道に遺体が転がってしまいました。近所の人々は不憫に思い、いったん遺体を家に招き、湯灌(故人の身体を洗い清める)して棺に入れ直しました。
すると、その家の大家が激怒したというのです。いわく、「遺体で私の地面(土地)を汚した住人は、出て行け」と。
信興はこの事件に、「汚れた地面なら大家には不要だろうから、住人たちに与える」との裁きを下します。町では大喝采だったそうです。
また、江戸時代は捨て子が非常に多く、発見された場合は町(長屋)ぐるみで育てることが慣習となっていました。共同体による相互扶助といえるでしょう。しかし、これは町人にとっては負担も多く、決して歓迎できる事態ではないと、信興は心を痛めていたといいます(『よしの冊子』)。

家臣がトラブルを起こし信頼失墜

ところが1789(寛政元)年6月頃から、雲行きが変わってきます。
原因は信興の家臣が起こした他愛ない喧嘩騒動でしたが、奉行の家の者が暴力沙汰に及んでは見過ごせません。当事者の主君である信興が裁くわけにいかず、南町奉行の山村良旺(やまむら・たかあきら)が吟味を担当しました。
この良旺、実は前述の依田政次の長女を妻としていました。つまり、信興にとっては義兄にあたるのです。そうした関係からくる温情措置があったのか、信興の家臣たちはあっさり不問に伏されます。
江戸の庶民は、縁故が絡んだかにみえる不合理な裁定に、嫌悪感を示しました。また、義兄の良旺がほどなく町奉行を更迭されたのに対し、信興には何の裁定も下らなかったのも不審に思われ、評価は地に堕ちました。
加えて1791(寛政3)年、江戸で人気の本屋・蔦屋重三郎と人気作家・山東京伝を罰します。娯楽を奪う寛政の改革は大衆からも不評を買っていましたから、出版関係者を摘発した信興は批判の対象となりました。
折しも江戸では火付盗賊改方の長谷川平蔵の人気がうなぎ登りで、町奉行には平蔵こそふさわしいと、平蔵待望論が巻き起こっていました。
信興は同年末、北町奉行在任のまま、失意のなか没します。享年48。

病死だったようですが、自殺説も噂されました。また、直属の上司に間違った政策を諫言していたとも噂され、正義感あふれる人が自ら死を選んだと、今度は逆に同情論がわいたといいます。
町奉行就任時は高評価、家臣の不祥事と出版統制で信頼失墜し、死後は同情される——まるでジェットコースターのような人生だったといえるでしょう。
    【参考図書】
  • 『武士の評判記』山本博文 / 新人物ブックス
  • 『江戸東京年表』大浜徹也・吉原健一郎編著 / 小学館
  • 『掃苔(そうたい)』 / 東京名墓顕会
  • 『徳川禁令考 首巻』 / 司法省(明治11~23年)



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